終末
力を込めて首を掻き切ろうとしたセリアの手から、暗器が弾かれた。
一瞬のことだった。
思いもしなかった邪魔者の出現に、セリアは驚きに身を固め、腕を払われた拍子に崩れた体制をそのままに、気が付けば彼の腕に横抱きに抱きかかえられた。
顔の所々に火傷の後さえ見受けられるリュシアンは、初めて見せる険しい顔でセリアを見下ろす。
「だめだよ。例え君であっても、僕達からセリアさんを奪いとる権利はないんだ」
ようやく終わるはずだった復讐劇の幕引きを強引に引き止められて、セリアは初めて怒り以外の表情をその顔に乗せる。
琥珀の瞳に溢れる涙の雫は、収まり切れず彼女の頬を伝う。
リュシアンに両腕の動きを止められているので、顔を覆うことも、雫を拭うことも出来ない。
「だが、だが、だったら私は………」
自分のせいで祖国が滅んだその事実を、どう受け止めればいい。
見上げた顔は、自分が苦しませたであろう最愛の人のもの。
「リアン………わた、し、は、どうすれ、ば…………いい?」
炎を作り出した魔術師であるセリアは無事であっても、唯人リュシアンに炎は害でしかない。計り知れないほどの熱さをその身に受けているというのに、セリアを見下ろす表情は甘く優しいものにすり替わっていた。
セリアの口から零れ落ちた名前を聞いて、今世を生きる白の騎士は少し悲しげに眉を下げながら笑う。
「違うよ。僕は彼じゃない。僕は、リュシアンだ。君に、『今』を生きてほしいと残酷なお願いをする、愚かな男だよ」
「りゅ、しあん?」
舌足らずな声で名前を呼ばれ、憑き物が落ちたかのように呆然と自分を見上げる頼りない少女の姿を胸にかき抱いて、リュシアンは堪えるように表情を歪ませる。
絶えず流れ落ちる雫が彼の肩を濡らした。
震えることも声を上げることもせず、静かに涙だけを零す少女を抱きしめながらリュシアンは言い募る。
それはまるで、自分の存在を強く彼女に示そうとしているようでもあった。
「大丈夫、君は一人じゃない。300年前みたいに、みんなの『女神姫』にはなれないないけれど、君は僕だけの『お姫さま』だよ。だから、どうか、ここにいて。………セリア、さん」
「………」
セリアから溢れ落ちる涙の雨が止まった。
リュシアンの肩に縋った彼女が、目を瞑ったからだ。息を吸っては吐きだす。
心のぐちゃぐちゃになった部分が砂漠のようで、リュシアンの言葉がまるで、注がれる水の雫のようにさらさらと吸収されていく。
「れ、礼を、いう」
一時置いて、リュシアンの肩に片手を乗せ少し距離を取った先に見えた琥珀の瞳からは、先ほどまでの復讐に駆られた激昂の感情は消えていた。
目元をほんのり赤く染めて俯く少女を見て、リュシアンは更に笑みを深めたのだった。
寸前で思い留まってくれた主の姿を見て、キャロンは思わず泣き崩れた。
沢山の人間を結界の中に囲っていたために、身動きが取れなかった彼女は、音にならない絶叫をしていた。また、むざむざと主を見殺しにするのかと。
居なくなってしまった祖国の皆に変わって、今世で幸せになっていく主を見守るのだと心に誓ったこの自分が。
答えは―――否。
悲痛な顔つきを、強い眼差しを携えたモノに変えたキャロンが一歩踏み出したその横を、すばやくすり抜けていた者が居た。
銀髪の髪を涼やかに靡かせて、通常ならばたたらを踏むような炎の海の中を、彼は物怖じすることなく駆け抜けていった。
リアンの面差しを受け継ぐ己の子孫に希望を託し、そして彼は彼女を止めてくれた。
心の均等を崩し、己の身体さえも踏ん張ることが出来ず床に座り込んだキャロンの肩を当たり前のように抱くのは。
「カイル、さま?」
「違う。俺は、ジェラミー、だ」
上を見上げて見つけた懐かしい面差しに、つい言葉が漏れた。
が、すぐにジェラミーが眉を寄せて訂正した。
キャロンの素性がわかったことで、曲がりなりにもミネルバ公爵家の直系子息であるジェラミーも、キャロンが愛おしそうに名を呼ぶ人物に心当たりができた。
だからこその、少し不機嫌な表情。
恋敵が300年前を生きた先祖というのは、かなり厳しい事実である。
「………ジェラミー…」
先ほどのセリアと同じように、キャロンもまた、憑き物が落ちたかのような顔でぼんやりと今世での黒騎士を見上げていた。
セリアの心を映すように、部屋を支配していた炎が収まりを見せていく。
まるで炎自身が意志を持っているかのようなその動きに、その場に居た者全員が驚きに感嘆の息を漏らしていた。それほど、日常とはかけ離れた光景が目の前に広がっていたのだ。
炎が消え去り、部屋の床で煤だけが燻るのみになった頃、セリアはようやくユージンが歪んだ表情をしていることに気が付いた。
もちろん、ユージンに対する激しいまでの憎悪は消えていない。けれど、復讐のためだけに己の命を投げ出そうとするまでの激情はすでに去っていた。
横を見て、泣き崩れているキャロンを見て、少しは反省したのだ。
一瞬目があったジェラミーが、力強い表情と共にキャロンに寄り添い、セリアに向かって力強く頷いたものだから、思わずカイルよりも大いに期待できそうな男だと思ってしまったのは、彼女の中だけの秘密だ。
リュシアンに支えられながら、セリアは再び、物語りの黒幕と対峙する。
「またお前か………白騎士。昔から、お前は我の邪魔ばかりだな。いつもいつもいつも!!!」
ユージンの目が、かっと開かれ、その視線の中から黒いナニカがリュシアンに向かって飛んだ。
「!」
しかし、寸前で手を伸ばしたセリアによっていとも簡単に弾かれた。
「姫、なぜ」
驚きに見開かれた目で見つめられ、セリアは嫌悪感溢れた歪んだ表情を返して見せた。それは、暗に彼への拒絶を示している。
「先ほども言ったはず。私は、私を、お前にだけは渡さない」
300年前のような悲劇は、もう絶対に起こすつもりはない。
今世での己を証明させたいがために、セリアは隣に立つリュシアンに、初めて自分から寄り添った。
唐突なセリアの積極的な態度に、今の深刻な状況も忘れて、リュシアンは頬をまるで生娘のように染め上げた。
「え、え、え」
しかもそんな彼から零れるのは壊れたからくりのような言葉にもならない声。
セリアは思わず胡乱気な表情で彼を見上げる。
その様子が図らずもユージンには心を通わせた男女のように映った。
セリアの性格を知っているから尚更、二人の対応の仕方がとても仲睦まじげに見える。
「ひめぇぇぇぇぇ!!!!」
ユージンは激昂のあまり標的をセリアに移した。
己以外に心傾ける彼女など赦さない。彼女の琥珀の瞳は、己だけを見ていればいいのだ。
激しさを緩ませる様子も見せず、彼の手が伸びる。
と、魔術を繰り出そうと振り上げた彼の左手が、彼自身の右腕によって抑えられた。
「ひ………め……」
ユージンの右顔面に浮き上がったのは、疲れた男の表情。
左側の怒りに満ちたモノよりも、何年も老けこんだようなその顔を見た者達は、虚を突かれたような表情になった。まるで組み合わせてはいけない何かを一つにくっつけたようなその様は、気味の悪ささえ感じさせる。
「どうか、私を、殺してください。私は、楽になりたいのです」
「ユーロン!!貴様生きていたか!!!」
「父上!?」
「王か!!」
もはや状況は、打ち取るべき黒幕と、復讐にもえる皇女の間だけでは納まりきれないものになったらしい。
ユージンの驚愕に満ちた叫び声に続き、ダニエルの父を呼ぶ声とシュナイゼルの主に呼びかける声がつづいた。
まるでその声が聞こえていないかのように、ユージンは叫ぶ。
「ユー……ロン!!はな、せ、離さぬか!!!!」
左側のユージンが、右側のユーロンの拘束から逃れるために身体を捩る。
「お前は、消えなくては、ならない」
一句一句に力を込めながら、右側のユーロンが疲れた表情の中に王であったときの名残であろう鋭い瞳を煌めかせている。
その手はユージンが振りほどけないほど力強いものであるらしい。だからこそ、ユージンが苦しみにのた打ち回っているのだ。
一人の男の表情が左右違い、それぞれ言葉を交わし、そして身体が意志を持ってお互いを牽制しあっている。
それは奇妙な光景だった。
合間合間にも、ユーロンが疲れた顔をそのままに、セリアに言い募る。自分を、ユージンという悪しき化け物と葬り去るように。
もう魔術のないこの世界に置いて、セリアの持つ炎の魔力だけが、化け物を完全に消すことのできる最後の剣なのだと言った。
「『女神姫』!!どうか、どうか父を………王の頼みを聞いてやってくれ!!」
結界の中から、王太子ダニエルが苦しげな表情でその瞳を父に固定したまま、セリアに懇願する。これ以上父の醜態を晒すようなことはしたくはなかった。
「セリアさん」
思ってもみなかった話の転換に、セリアがただ茫然と目の前で繰り広げられる男の行動を見つめていると、リュシアンの思案気な声が降ってきた。
見れば、思いつめたような彼が視界に入ってきた。
セリアは小さく頷いた。
リュシアンから数歩離れた所まで足を進め、醜く蹲る男を見つめる。
その後ろにはかつての自分が眠っている。眠っている彼女だけれど、どこか救いを求めて途方に暮れているようにも見えた。今目の前に自分が居る以上、迷う必要などどこにもなかった。
再び、セリアの足元に火が燈った。
先ほどの荒れ狂うものとはまた違う、灼熱の熱さの中にどこか安心できる光を有したもの。それはどこか、暖炉の火を思わせた。
炎の中に立ち、目を瞑ったまま何事か呟いていたセリアの琥珀の瞳が開かれた。
そして燃え上がったのは、彼女より離れた場所に居たユージンの身体。
「ひめぇぇぇ!!!」
まるで呪詛のような叫び声をあげて、元は王であった人間の姿が炎に包まれていく。
完全に炎の中に姿を消す直前、身体はユージンからユーロンの元に戻ったようだった。最後に見えたのは、疲れている中に確かに見えた安堵の瞳。
炎が人一人を包み込みながら、その人は無我き苦しむことなく、灰と還ったのだった。
すべての始まりを創り出した、化け物を道連れにして。




