思い知る
「あ、セリアさん、丁度よかった」
今日も今日とて、己が居なくなった後の世界の情勢を知るための勉強をしようと、書庫に向けて足を進めていたところで、背後から声をかけられた。
振り返れば、目に入る銀髪の長い髪に、薄紫の瞳。女性とも見紛う中性的で秀麗な面差し。
その顔に浮かぶ綺麗な笑顔さえなければ、かつての大事な護衛との再会さえ錯覚させるその容姿に、セリアは己の視界が一瞬ぶれたのを感じる。
残してしまった彼は、どんな時間を過ごしていただろうか。彼と最後まで交流があったであろうキャロンは、決して昔語りをしようとはしない。
セリアの一瞬の表情の変化を、リュシアンは見逃さなかった。
けれど、あえて深く追求しようとは思わなかった。なんとなく、触れてしまえば最後、ようやく作り上げることができた小さな彼女との繋がりを失いそうだと思ったから。
なぜだか、セリアという少女は、周りとの関係にあまり頓着していないような印象がある。彼女の纏う薄く頑丈な膜は、誰からの侵入をも拒む鎧。そこを通り抜けることができるのは、彼女の親友であるというのキャロンという少女だけ。
そしてそのキャロンでさえも、鎧をまとっている。
果たしてそれを、弟が気づいているのかは疑問であるが。
「リュシアン様。おはようございます」
「おはよう。昨日ね、前に言ってた実家からの本が届いたんだよ。そうしたら興味深い事実がわかってね。ほら、君、前に言ってたじゃない?『女神姫』が亡くなった300年前から、アテナイ国がイリーオス国に侵略されるまでの50年の間の歴史に特に興味があるって」
「えぇ、まぁ」
会話をしながら、二人は自然と並び歩く形になり、そのまま共に書庫に入る。
「君と話してる間に、気づいたんだけど、僕にそっくりだってっていうその『女神姫』の護衛も、その50年の間を生きてた人だったって考えたら、急に興味が湧いてね、兄にお願いしてちょっとした資料を送ってもらったんだ。祖先ってことで、色々書物は所有しているから」
書庫に並ぶ無数の棚に沿って奥の方に歩みを進め、辿り着いたのは窓際に備え付けられた机と三つの椅子。
その内二つに腰かけて、リュシアンは持っていた幾つかの本を机の上に置く。
「それを読んでたらね、思わぬ情報を仕入れたんだ。それを早く君に知らせたくて」
「新しい情報、ですか?」
とりあえず相槌を打っておく。正直、今までも彼は自分の知っている情報を幾つかセリアに提供してくれた、もちろん、ほとんど知っているものばかりだったのでなんとも複雑かつ申し訳ない気持ちになったものだ。
もちろん、そう思っていることは悟られないようにしている。
「うん、そう」
彼は赤い表紙の小さな本を抜き取ってセリアの目の前に掲げて見せた。
他の本とは違い、そこには何も書かれていない。
「これはね、250年前のミネルバ家当主のの簡単な手記みたいなんだ。読んでみたんだけど、彼は、『女神姫』達の護衛二人の血を引いている初めての人間みたいなんだ。そして、ミネルバ家が公爵家として格上げされた時の当主でもあるみたい」
「本当、ですか!?」
セリアは思わず椅子から立ち上がってリュシアンに迫っていた。その勢いに驚きながら、彼は小さなその本を彼女に手渡す。
「う、うん。とても興味深い手記だよ。彼なりに、祖父達だった『女神姫』の護衛達の心境を解き明かそうとしていたりしてね。なにより」
「リュシアン様、この本、少し借りててもいいですか?」
「え?あ、うん、もちろん」
「ありがとうございます」
そう言ってセリアは立ち上がった。逸る気持ちを抑えきれず、赤い背表紙の本を両腕にかき抱いて、セリアは書庫を立ち去る。
リュシアンに断りを入れることさえ忘れたまま。
残された双子の兄は、茫然と少女の背を見送った。
✿ ✿ ✿
書庫を、文字通り飛び出すように後にしたセリアは、そのまま足を緩めることなく屋敷を走り、気が付けば例の職務室の前に立っていた。
震える手で扉を開く。
部屋に入れば、兄が出迎えてくれるような錯覚さえ与えてくれるその場所に、彼女は今まで一人では決して入ろうとはしなかった。
ソファーを横切り、大きな窓ガラスの正面にある大きな職務机の椅子に座る。
机の上に本を広げ、一息深呼吸をすると、ゆっくりとページをめくり始めた。
✿ ✿ ✿
扉の向こうから、すすり泣く音がすることに気づいて、キャロンは扉をノックするために上げた腕を一度下ろした。
屋敷の使用人が先ほど、セリアがすごい勢いで走っていくのを見たと報告を受けてから、ずっと主を探していたのだ。そうして辿り着いた部屋があった。
会うたびにからかっては怒られることを繰り返していた兄と妹が、殊更お互いを慈しんでいたことを、生まれた時から傍にいたエヴァは知っていた。
容姿ゆえに『女神姫』と持て囃されていたフィアナ姫がその噂を嫌って、わざと正反対の態度をとるようになっていったのを、あえて咎めなかったのは兄であったオーウィンである。王や王妃が眉を潜めるのを説き伏せて、妹がやりたいようにやらせてきた。
きっと彼女が、神々に愛された大事な存在で、将来何か大きなことをするのだと信じていたから。だから、妹が、自分が呼び出したその後に息絶えたことに誰よりも衝撃を受けていたのだろう。
その後すぐ病に倒れた父王に変わって、混乱する国をどうにか支え、その傍らで個人的に妹を探し続けた。それこそ、自分が息を引き取るその瞬間まで。国の執務に妹の捜索、その二つの無理が祟って、彼もまた若くして逝ってしまった。
『エヴァ、どうか、必ず、フィアナを』
病の床でも、彼は変わらず妹の名を呼んでいた。
『どうか、もう一度会えたなら、すまな、かったと』
痩せ細った身体で、震えるように告げられた言葉。
その姿が脳裏に蘇って、キャロンは強く目を閉じた。
そんな最期を、どうやってセリアに伝えることができるというのだろう。自分の愛した国を消し去った黒幕に対する口惜しさ、憎しみ、すべてを思い出し、彼女は拳を握る。
ひと時の間、セリアの心もとない啜り泣きを聞いた後、キャロンは静かに扉をあけた。
そして見えたのは、職務机の前に座って、唇を己の歯を持って噛み締めながら涙を流す琥珀の瞳の少女の姿。泣き声が聞こえないように、必死に声を殺しているから、反動のようにその瞳から零れる雫は多くなる。
強がりの彼女は昔から、泣き方を知らない少女だった。
二つのまったく違う容姿が一つに重なって見えた。どちらも、キャロンが敬愛して止まない彼女の姫である。
「姫さま」
「………エ、ヴァ」
近づいて初めて、彼女の前に中途半端に開かれた小さな書物を見つけた。
「エ、ヴァ、お、教えて、くれ。り、あん、リアンは、私の事、を、愛して、いたのか?」
意外すぎる疑問だった。
何故今となってその質問を投げかけてくるのか疑問に思いながら、エヴァは書物を手に取った。
それは、古いものだ。手記のようである。
幾つかページを捲って、ふと認めた名。『オーランド・N・ミネルバ』
「これは………」
身に覚えのある名前だ。
それこそ、自分達の悲願であった、フィアナ姫の傍にまた戻るための第一歩。自分とカイルの息子と、そしてリアンの娘との間に生まれた一粒種。脳裏に、幼子の笑顔がはじけた。リアンが残していった娘は、遺言通りエヴァとカイルの息子に嫁いだ。その頃には、自分達の我が儘を一族に押し付けていいものかと悩んでいたエヴァとカイルに、彼女は笑って是と答えた。
彼女はきっと知っていたのだ、己の父の悲願とその届かなかった愛を。
フィアナが居なくなって、リアンは貴族の娘と結婚した。そこに異性に対する熱い想いこそなかったが、穏やかな信愛を築いていたように思う。貴族の娘もまた、『女神姫』を崇拝する人間だったからこそ、うまくいっていたのだろう。そんな両親の元で、彼女は芯の通った立派な女性に育ち、そして幸いにも、エヴァとカイルの息子に恋をしてくれた。
リアンがフィアナの後を追うように若くして亡くなったため、彼は娘たちの結婚式に参列することは叶わなかった。その後生まれた、孫息子にすら会う事も。
「そうでしたか、これは、オーランドの」
「知って、いるのか」
「えぇ、もちろん。わたしと、カイル様と、そしてリアン様の孫ですもの」
今のミネルバ家を繋いでくれた大事な人物だ。
若いはずのキャロンの笑顔は、何十年も生きてきた老婆のそれと少し重なったようだった。
「ということは、やはり、ここに書いてある顔を見ることなく亡くなった祖父というのは………」
「リアン様のことですわ、きっと」
カイルは、オーランドが物心つくまでは生きていた。あの時代には長寿だった気がする。もちろん、彼もエヴァを置いて逝ってしまったけれど。彼女は、曾孫を抱くまで生きたのだ。
キャロンの言葉を受けて、セリアの涙が復活した。
それを受けて、キャロンはなんとなく何が中に書いてあるか読めた気がした。リアンの妻、つまりオーランドの祖母と、その娘は、幾度となくオーランドに祖父の恋物語を語っていた気がする。エヴァとカイルは、傷が深すぎて彼女の話をすることは終ぞなかったから。
「姫さまは、リアン様のこと、好いておられました?」
ふと思った気持ちが言葉に漏れた。
「わ、わからない。その前に、私は………」
「リアン様は誰よりも姫さまをお慕い申し上げておりましたよ。それこそ、あなたに会ったその日から。少なからず、気づいておられたでしょう?」
「………」
顔に表情を乗せることが稀なリアンだったが、その瞳は誰よりも物を言った。
「もしかしたらオーウィン様は………」
そう言いかけて、キャロンは口を閉じる。今更仮説なんて笑い話にも出来やしない。
「リアンの事は、嫌いじゃなかった。けどそれは、お前やカイルも一緒で」
まるで意地になっているかのように首を横に振るセリアに、キャロンは容赦なく言葉を続ける。
「まったく一緒でしたか?わたしやカイル様に対する思いと」
「………この世の誰よりも、幸せになってほしかった。けれど………」
「けれど?」
忙しなく動く琥珀の瞳に気づいて、キャロンは畳みかける様に問いかける。なんとなく、セリアはすでに応えに辿り着いているようだった。
「………私の居ないところで、幸せにはなってほしくはなかった。あいつを、幸せに、して、やりたかっ………!!」
それは、セリアとして生まれ変わって、何度もリアンの事を思い返して気づいた気持ちだった。
その言葉を聞いて、キャロンはにっこり笑った。しかし、その頬を一筋の雫が伝う。
「そうでしたか。そうですよね」
「な、なんだ………」
「姫さまは、やはり、リアン様のことを、愛しておられたのですね」
「!」
セリアの脳裏に、果たして何が蘇ったのだろうか。
キャロンは、そっと机の前からセリアの座る椅子の横へ移動して、その肩に手を当てる。大きく震えるそれは、なんと儚く頼りないことか。
「だが!もう、遅い………もうなにもかもが遅すぎる!!!」
長くはなかった一生すべてをかけて、フィアナを愛していたリアンを想って、キャロンも静かに涙を流した。
しかし、もう、彼女の愛した人間は存在しない。どこにも、居やしないのだ。
彼女達が何を話しているのかなんて、どうでもいいことだった。
「リュシアン………」
その部屋の窓からそう遠くないところに立っている兄に、ジェラミーは躊躇いつつ声をかけた。彼の視線の先にいるのは、泣きじゃくっているよう見えるセリアと、その隣に寄り添うキャロン。
いつになく真剣な表情のリュシアンと、迷子になってしまったかのような困惑した面持ちのジェラミーは、ただ静かに二人の少女の見守り続けた。




