回想--新聞社
のぞみが新聞記者として働いていた時、初めに配属されたのは青森支局だった。全国紙の新人記者ははじめの6年ほど、全国各地の地方支局で経験を積むことになっている。関東にしか住んだことのないのぞみは、冬には一晩で車が雪で埋まってしまう雪国の生活を、はじめは目新しさで楽しく感じていたが、毎朝車の周辺を2時間もかけて雪かきするうちにもう雪はこりごりだ、と思うようになった。ただ、つらい冬を越え、迎える遅い春は美しかった。
記者2年目の夏、インドネシア・バリ島でイスラム過激派によるテロ事件が起き、日本人男性がそれに巻き込まれて死亡した。その男性が青森県出身だったことで、支局の記者たちはその男性の人物像や経歴などについて、周辺の人々から聞き取り取材することを命じられた。
のぞみは、その男性は既婚者だが、以前に離婚した前妻がいるということを男性の友人から聞いた。支局のデスク(記事や構成などを最終チェックする上司)は、なんとしてもその男性の〝ガンクビ″を取ってこい、と支局員にけしかけていた。新聞業界では、事件事故の被害者や容疑者などの顔写真のことをガンクビという。のぞみがデスクに取材の進捗状況を電話連絡すると、デスクは「前妻の家に行ってガンクビを取れ」と命令した。
紙面にガンクビが載っていることが、そんなに大事だろうか・・・。
のぞみはガンクビという呼び方も嫌だったが、そんなことに時間をかけるべきことなのか、という疑問を持っていた。ほかに取材するべきことがあるのではないか。読者はそれを望んでいるのだろうか。デスクは読者が何を望んでいるのか、考えているのだろうか。しかも別れた奥さんのところに行くなんて、私がその人の立場なら、絶対にやめてほしいと思うだろう。
のぞみは重たい気持ちでその前妻の家のインターフォンを押した。
「朝毎新聞の記者の・・・・」と名前を言いかけたところで
「放っておいてください」とインターフォン越しの女性の声で遮られ、「もう私には関係ないことですから」と冷たい声が響いた。
のぞみが記者を辞めたのは、常に「ほかに取材すべきことがあるのではないか」という気持ちがぬぐえなかったという理由もある。もっとほかにやるべきことがあるのではないか、と思いつつも、日々出される警察の発表分を処理し、紙面を埋めるための原稿を出し、こまごました取材のアポ取りなどで、気がつけば時間が流れてしまっていた。
大きな流れの中で、何か方向が違うと思いながらもこなすしかないのか。
大きな流れの中で、人の気持ちはつぶされていくように世界はできているのだろうか。
そう感じてしまう私の感性のほうがおかしいのだろうか。
この組織ずっといても、そのような疑問を晴らせる気がしなかった。
のぞみは人の気持ちを何より大事にしたかったし、自分の感性を信じたかった。文章を書くならどんな形でもいいではないか。組織の中で文章を書くよりも、まだまだ自分の中の世界が、価値観が、ひっくり返るような体験がしたい。まだ世界には、今のままの小さい井戸の中にいる自分には理解不能な価値観を持った人がいるに違いない。
のぞみは会社に辞表を出し、それから、青年海外協力隊の選抜のための準備を始めた。




