第四十話
空調機の、無機質な風の音。
一定間隔で繰り返される、甲高い電子音。
布の擦れ合う音。遠くで聞こえる、足音や扉の音。
ゆっくりと、自分の瞼が開いていくのを感じる。
ぼんやりした白い天井が、広がる視界とともにくっきりと映っていく。
視界の端に、肌色の一群。人の顔だ。
心配そうな面持ちで、こちらを覗き込んでいる。
「……ここは……」
「イコナ!!」
茅乃が、彼女を抱きしめる。
身体の下で、クッションが軋んだ。
ここは、ベッドの上だったようだ。そしてこの白い個室は、病室だろう。
茅乃の肩越しに、イコナはそこに立つ人々を見渡す。
悲しげな目をした、安城真鈴。冷たい眼差しでイコナを見つめる、神藤明燈。木肌蒙凱……の表情は見えない。そして、無精ひげの生えた懐かしい顔。
神月道悟。
彼女の父親で、懐中時計の生みの親。そして、EDDAの最高責任者でもあり、彼女に聖櫃を運ばせた張本人──。
イコナはハッとする。
「離して。行かなきゃ、グングニルが──」
「ダメだ!」
道悟が、声を荒げる。
起き上がろうとするイコナを、身体を這う無数のケーブルが制した。
点滴の管……ではない。スタンダードな電脳ケーブル、その先はメンテナンス口の開けられた肌色の端末に接続されている。
特徴的な形をした端末だ。まるで……
人の腕のように見える。
「イコナ。落ち着いて、よく聞くんだ」
ぞわっとした感覚が、彼女の耳の裏から背中にかけて広がる。
その端末は、端末ではなかった。
これは──私の腕だ。私の身体だ。
イコナは、道悟を見た。
極限まで静穏化された眼球の制動モータが、脳裏にキュルリと響く。
「お前は……死んでしまったんだ、イコナ。僕らには、その魂を機械に繋ぎとめることしかできなかった」
ごうごうと、空調機が唸る。
イコナは再び眠らされた。スリープ状態と言うべきだろうか。
パニックに陥って、癒着が十分でない神経回路に支障が出ることを恐れたのだ。
「では、私たちは行きます」
「ああ、僕もすぐに行く。何とか奴を留めておいてくれ」
「あの、イコナを……」
「ああ」
外で誰かが会話している。ぼんやりした意識が、浮いては沈み、浮いては沈みを繰り返す。最後に深く沈みこんでからは、数時間の安寧が訪れた。
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イコナは目を覚ます。
病室には誰も居ないようだ。窓から差し込む日の光が、長く、紅色を帯びている。
彼女は起き上がり、自分に繋がったケーブルを外していく。
まだ夢の中にいるような、不思議な感覚だ。
死んでしまった、と言われた。私は、死んでいるらしい。では、こうして考えて、動いて、立ち上がろうとしている自分は誰だ? 死んだ神月イコナはどこへ行った?
二十本目のケーブルを外して、彼女はあることに気付く。
デジャヴを感じるのだ。配線や、ケーブルの入出力。
パチリと、彼女の瞳が青白く瞬く。
「私……懐中時計になったんだ」
ケーブルを外していくごとに、ゆっくりと現実は彼女の中へ浸透していく。
神月イコナは、ここに居る。最後の二十六本目を抜き終わったとき、彼女は身も心もドールに移り変わったような、そんな気がした。
ベッドから這い出ると、身体の重みがずしりとのしかかる。
特に、頭部が重たい。
ベッドサイドにあったキャスター付きのテーブルに身体を預けるようにして、下半身に力を入れる。
「ん……」
ピリピリとした痺れが関節を伝う。
これは、痛みだ。
彼女は、感覚を一つ取り戻した。
イコナは立ち上がる。
一歩、二歩、引きずられるように踏み出した歩みは、足音を数えるごとに確かなものになっていく。病室を出る頃には、杖代わりのテーブルも不要になっていた。
真っ白な廊下に飛び出した彼女は、風の匂いが来る方へと進む。
バルコニーには、一人の女性の姿があった。
風に靡く栗色の髪。缶コーヒーを片手に手すりに肘を預け、橙色の空を眺めている。
扉が擦れて開く音に、明燈は廊下の方を振り返る。
その顔に、驚きの表情が浮かんだ。
「まさか。歩けるのか」
イコナはその場で立ち尽くし、明燈の顔を真っ直ぐと見る。明燈はその瞳をしばらくじっと見つめ返して、再び落ち行く太陽に視線を向けた。
「まるで奇跡……いや、これも計算の内だったということか」
明燈はかぶりを振って、どこか観念したかのようにふっと息を吐くと、強張った表情でゆっくりと語り始める。
「神月イコナ……お前のその身体は、元々とある研究機関が十年以上の年月を掛けて開発していたものだ。計画自体は事故が元で頓挫したが、当時メンバーだった神月博士はそこから根幹の技術を秘密裏に持ち出し、小型化・簡略化によって幾つかの技術課題を解消しながら、それを製品に仕立て上げた。
そう──懐中時計だ。
ドールは飛ぶように売れ、トーキョーネットにおける端末シェアをほぼ独占するほどになった。政府はこれを統括・管理するために直属の研究機関、EDDAを作り、神月博士と木肌先生などの元機関メンバーを中心に、様々な研究所から科学者を召集した。──と、表向きは、そうなっている。本来の目的は、トーキョーネットで頻発した、不具合の調査だ」
「バグ? でも──」
「そう。多層テスト環境の備わったトーキョーネットでバグが発生することは殆ど無い。しかし、この時だけは別格だった。
ユーザが絶対に触れることのできない複数の箇所で、人為的としか思えない改変が幾度も行われ、それでいてネットワークの機能自体を阻害しない高い精度を誇っていた。この人ならざる意志を、私たちは亡霊と呼んだ」
亡霊。その名前は、そのまま子供達の間に流される都市伝説の怪物となる。
「その正体を特定し、信じ難い事実を受け入れるまでに丸一年の月日が費やされた。そして、とうとう一つの最も非現実的な仮説が、幾つもの裏づけにより実証される。
亡霊は、懐中時計の持つ余剰な処理能力の上に生まれた、一つの独立した生命だったのだ。
亡霊は恐るべきスピードで自己進化を遂げ、じきに全てのドールへと浸透し、トーキョーネットを破壊するだろう。我々は亡霊の中枢指令を担う『スーパーノード』をいち早く特定し、密閉空間に囲いこんだ後、殲滅しようとした。結果は知ってのとおりだ」
EDDAによる大規模実験。
それはグングニルの起動ではなく、抹殺を目的としたものだった。
結果は等しく、暴走したグングニルがトーキョーネットを機能停止させることになる。
「……亡霊の進化は我々の予想を遥かに超えていた。ソレは既にスーパーノードを他のドールに【委譲】する機能を備えており、任務にあたった研究員のドール内部に潜伏して脱出したのだ。我々という外敵の出現により更なる進化を促進された亡霊は、自らをグングニルと名乗り、災厄として東京を滅ぼすに至った」
明燈は再び、イコナの青白い光を帯びる瞳に視線を戻す。
「これでも尚、グングニルは進化途上だ。遠くない未来、グングニルは一般的な電子機器の中でも動き始め、世界に飛び火し、そして世界中の高度文明を滅ぼすだろう。私たちは20世紀まで後退させられるのだ。
……我々に残された手段は一つ。グングニルがクロノドールにしか存在できない今のうちに、グングニルそのものを書き換え、自己の維持に必要なノードを自ら破壊するようにしてしまうこと。電脳アポトーシス、と我々は呼んでいる」
「それって……つまり、全ての懐中時計を破壊するということ?」
「そうだ。これが……木肌先生の言葉を借りるなら、【研究者たちの世界】──大人たちと相容れず、そしてお前たちの世界を根こそぎ滅ぼす、終わりの世界。我々は感染しドールをグングニルに喰わせるための変換機を開発し、〈聖櫃〉と名付けた。
一方、既にEDDAを離脱していた木肌先生は猛烈に反抗し、アーカイブ化されたグングニルを盗み出して大黒のサーバに幽閉した。お前たちの可能性に賭けたのだ。
かくして、お前達の遊び──電脳抗争は始まり、我々はその裏で聖櫃を起動するために任務を開始した。唯一の誤算は、神月道悟の娘たるお前が命令に背いたことだが」
そして、大黒学院の決戦。聖櫃は失われ、グングニルは最悪の状況で目覚めた。
明燈は胸のポケットから黒いメモリースティックを取り出し、夕日にかざす。
まるで光の透けない、漆黒の外装。先端に付けられた銀色のボールチェーンが、橙色の陽光を反射してキラリと光った。
「これは……お前が持っていろ」
「……みんなは?」
「周防学院だ。あの場所には、東京で唯一稼動している衛星通信施設がある。そこをグングニルが占拠すれば……もうヤツを止める手段はない」
イコナはメモリースティックを受け取って、踵を返す。
「行くのか?」
「ええ」
「そんな身体で、何も出来ないかもしれないぞ」
「分かってる。でも──」イコナは、もう一度明燈の方を向いた。「私が、終わらせなきゃ。私たちの世界は、私たちにしか守れないから」
明燈の顔が、僅かにほころんだ。
「そうだ。……それでいい」
一陣の風が、バルコニーを吹き抜けていく。イコナの姿が廊下の先へ見えなくなるまで、明燈は手すりに肘をかけてそれを見送った。
「道悟さん……あの頃の私にも、あれほどの勇気があれば」
呟く彼女の声は、夕暮れに渦巻く雲の声に巻き上げられて、消える。




