夏の坂道
自転車のベダルをこれでもかというくらい踏みつけ坂を登る。
ここは町のメインストリート、前半は平坦なくせに最後は心臓やぶりの坂が待ちかまえている。
小学生三年生の夏、汗を額を顎をつたい灼熱のアスファルトに落ち黒い斑点をつくる。力いっぱいペダルを漕ぐが、一向に前に進む手応えがない。目的地の図書館はこの坂を登り、大きな池をこえた所に鎮座している。
体力は問題ない、まだまだいける足りないのは体重なのか。小さな頃から何度もこの坂に挑んでいるが、まだ一度も登りきったことがない。
横をスポーツタイプの自転車が追い抜いていく。その後ろ姿を見ながら、さらにベダルを漕ぐ足に力を入れる。足の筋肉が悲鳴をあげる、ベダルから軋む音が足を伝って脳に響く。
クソっ今日もダメなのか……あきらめるな、まだ足を付いてない。
段々、目の前が歪んで見えてきた。暑さのせいか、休まないと倒れる。でも、後十メートル足らず、ここは踏ん張り全身の筋肉にさらなる負担をかける。頭に血が上る汗が吹き出る、執念で少しずつ自転車を前に進める。 足を付かず、この坂を登りきる。しんどい目標を立ててしまったが、この目標がなければ図書館に行き読書の楽しみを知る事もなかった。
後少しで坂の天辺に着く、天辺まで来ると図書館が見える。それを励みにベダルを漕ぐが、そろそろ限界のようだ……街路樹が絵本で見た、木のお化けのようにユラユラ揺れだした。坂を登りきれば下りだ、そこで充分な休憩がとれる。下りのスピードの爽快感は一度味わうとやめられない。それを味わいたくて、がんばっているのかもしれない。
やっと図書館の天辺が見えた。その瞬間、力を込め続けていたペダルが、なんの抵抗もなく下に落ちた。視界がブレたと思ったら、空の青と太陽が網膜を焼いた。
微かな意識の中、誰かが僕を抱き起こした。
そこで僕の記憶は途切れてしまった。
涼しくて気持ちいい……。
ぼんやりと光が見えた……段々とその光の正体が見えてきた。見たことない蛍光灯に照らされていた。
寝てるのか? 起きなきゃ……。
朦朧とする中なんとか上体を起こした。
見慣れない部屋の中、混濁する記憶を整理する。
ここは……わからない。なんで……わからない。どうして……わからない。
わからない事だらけ、不安が体中を支配する。一瞬だけ涙がこみ上げる。こんな気持ちは遊園地で迷子になった以来だ。あれから大きくなった弟もできた、もう泣くわけにはいかなかった。そんな思いだけが、僕を支えていた。
唇をかみしめ、辺りを見回すと扉があった。とりあえず出てみよう、その扉は家にあるものと似ていた。ここに居ても自分の出した疑問に解答は得られない。
扉のノブに手をかけ、そこでなぜか躊躇った。この先に何があるかわからない、お化けや怖い人がいるかもしれない。目覚めた時の不安が、まだ尾を引いていた。
帰らなきゃ、みんな心配する。
思いきって扉を開ける。
そこには、たくさんの服に流行の曲が大きめの音量で流れていた。辺りを見渡し記憶の引き出しを何個もあけるが、ここが何処かはわからない。
しばらく開けた扉にもたれ掛かり、お父さんの言葉を思い出した。「落ち着けば、どんな事でも解決できる」言葉を心の中で連呼して涙を押さえた。そして、今僕が出来る選択肢を頭の中で羅列させた。
出口を探す、頼りになりそう人を探す、お母さんを探す。一番と二番が実行できそうだ。
僕は前を見据え思いきって前に足をだした時、その決意は大きなおばちゃんの声によって砕かれた。
「やっと気づいたん、良かった!」
その声で体が完全に萎縮した。
知らない人に声をかけられる事など、ほとんどなかった僕にとって、おばちゃんが恐怖の的になってしまった。その大きな体と大きな声が更なる恐怖心を体の奥底から呼んだ。
体が動かない、泣かないと決めたのに涙がこみ上げてきた。
そんな状態の僕を誰とも知れないお姉ちゃんが救ってくれた。
「店長だめですよ、大きな声だしちゃ」
その声は優しく一本芯の通った声だった。
長い黒髪を揺らし、僕の前にしゃがみ込むとシャンプーのいいにおいがした。
「気がついて良かった。覚えてないか転けて気を失ったもんね」
お姉ちゃんはギュっと僕を抱きしめた。
この時ものすごい安心感を得た僕は、いろんな事が気になり見えてきた。
たくさんの洋服が所狭しとひしめき合い、新しい服のにおいが充満していた。場所はわからないが、ここは服屋さんのようだ。自転車はどこに……聞きたいけど人見知りが口を押さえていて、口を動かしてくれない。
弱々しいが、それでも何とか思っている事を口に出した。
「あの、自転車は……」
お姉ちゃんは抱きしめていてくれた腕を肩に置き笑顔で答えてくれた。
「ちゃんと店の前に置いてあるわよ。チェーン外れちゃってるけど」
キョロキョロと出口を探すが、吊ってある服が邪魔で自分のいる位置も把握できていない。
そんな僕を見かねて、お姉ちゃんは手を引いて店の前に連れて行ってくれた。その手はすごく暖かった。
「こっちだよ。良い自転車だね」
やっと相棒に会えた。
誕生日に買ってもらった自転車、もう三年の付き合いになる。こいつのおかげで、どこでも行ける。小学生の僕にとって夢の乗り物だ。でも、よく小さなトラブルを起こして僕を困らせる。
パンクにブレーキワイヤーがちぎれたり色々あった、今回はチェーンが外れるという僕にとって当たり前のトラブルだ。トラブルが起きる度お父さんにレクチャーを受け直して、また一緒に走り出す。もうどこが潰れても直す事ができるぐらいになっていた。
僕は自転車のサドルをさすりながらつぶやいた。
「すぐ直してやるからな……」
そのつぶやきが聞こえたのか、お姉ちゃんは僕の横に顔をもってきて笑顔で言った。
「一緒に直そうか」
その笑顔は、僕の鼓動を早めた。
今まで味わったことのない感情だった。小学生の僕には、これがなんなのか説明ができない。でも一つだけわかったことがある。
この笑顔には、逆らえない……。
僕はうなづくしか感謝の気持ちを表す事ができなかった。
お姉ちゃんは店の奥から軍手を持ち出し、自転車の修理を手伝ってくれた。
「ここにチェーンをはめたらいいのね」
「うん……」
長い髪を束ね修理に没頭する姿を見ながら、僕も自転車のチェーンに手を伸ばす。
「手を離してお姉ちゃんペダル回すから」
「一緒に回そ」
そう言って僕の手に自分の手を重ねた。
「せーの!」
かけ声と共にベダルを下に力いっぱい押すと「ガキンッ!」という音と共に自転車が復活した。
「やったね」
「うん」
お姉ちゃんの笑顔につられ、僕も笑顔になった。
僕は自転車に跨り、復活を喜んだ。お姉ちゃんも拍手をしてくれた。
もう日が暮れかかっていた。
お姉ちゃんと怖かったおばちゃんに頭を下げると、おばちゃんは大きな手で頭を撫で、
「次は気よ付けるんだよ」
とその手に負けないくらいの大きな声で言った。
もう不思議と怖くなかった。
僕は図書館行きをあきらめて、家に向かって自転車を漕ぎだした。