エピローグ
あの衝撃的な夏が終わり、秋の紅葉が散り、厳しい冬の寒さを越え――街に、再び柔らかな春が訪れていた。
カズキは、シミズ先生の熱心な仲介と、職場への粘り強い説得の甲斐もあり、市立高校の事務員として新たな人生を歩み始めていた。彼の席は、シミズの根城である物理準備室からほど近い、静かな職員室の一角に設けられている。
鏡の一枚もなかった「二人きりの家」から、窓ガラスや廊下の鏡が容赦なく自分を映し出し、無数の視線が突き刺さる学校へ。社会復帰の道のりは、事務能力の問題以上に、精神的な障壁との戦いだった。それでもカズキが前を向くことを選んだのは、自分を救ってくれたイリス、そして「友達」と呼んでくれた子どもたちの存在があったからだ。
「……おはようございます」
カズキは、朝の挨拶を交わしながら廊下を歩く。初めて彼を見る生徒の中には、左側の火傷の跡に思わずぎょっとした表情を見せる者もいる。しかし、今のカズキは、それに対して怒ることも、自分を卑下して俯くこともなかった。 彼は、自分が背負うべき「過去の罪」と「現在の自分」をありのままに受け入れ、ただそこに存在していた。
ある日の昼休み。職員室のデスクで書類を整理していたカズキに、同僚の職員が親しみを込めた声をかけた。
「タカシロさん、奥さんがお見えですよ」
「……あ、はい。すみません」
カズキが顔を上げると、入り口には見慣れた、しかし少しだけ誇らしい姿があった。いつもと変わらぬ清潔なナース服に身を包んだイリスだ。彼女の顔の左半分は、あの日以来一度も修理されることなく、剥き出しの銀色のフレームが春の陽光を反射している。
同僚の「奥さん」という気安い呼び方を考えると、彼女のその異様な姿も、この街という社会の一部として完全に溶け込んでいるようだった。いや、今や彼女はこの地域社会におけるちょっとした「名物」として、親愛の情を込めて受け入れられていた。
カズキは苦笑いしながら彼女のもとへ駆け寄った。
「イリス、仕事中にどうしたんだい?」
イリスは手に持った保温バッグをカズキに突き出しながら言った。
「マスター、お言葉ですが、本日の昼食……お弁当をお忘れでした。論理的に見て、空腹は午後の業務効率を著しく低下させます。お届けに参りました」
日常の些細な「うっかり」を指摘する、いつも通りの冷静なシステム音声。カズキはその響きに、心底からの安堵を覚える。
「すまない、助かったよ。わざわざありがとう」
「いいえ。……それから、ついでに申し上げます」
イリスは無機質な瞳でカズキを見つめ、安寧維持プロセスに基づいた「次の要望」を口にした。
「本日は放課後、演劇部の指導に協力される予定であることを把握しています。……ですが、私はマスターの早急な帰宅を希望します。これは過労と睡眠不足により、マスターの生体パラメータが損なわれることを防ぐための論理的処置であり、決して私が、マスターと家で過ごす時間を一分一秒でも長く確保したいという情緒的な理由では……」
「わかった、わかったから! 続きは後で聞くよ!」
職員室中に響き渡るような声で朗々と「愛の論理」を謳い上げ始めたイリスを、カズキは顔を赤くして慌てて廊下へと押し出した。自分の「感情」と、イリスの「論理」。その二つが導き出す結論が今、完全に同一のものになりつつあることに、彼はこそばゆい照れくささを感じていた。
その様子を遠目から見ていた新人教師が、不思議そうな顔で隣のシミズ先生に尋ねた。
「……なんですか、あのアンドロイドと職員さんは? 失礼ながらあの顔で、随分と親密そうですが……」
それを聞いたシミズは、机の上の資料に突っ伏したまま、声を殺して肩を揺らした。
「えーと……話すと長くなるんだけどね」
シミズが顔を上げると、その瞳には、かつて子どもたちが提唱した「安寧の進化」が、最も美しい形で結実したことへの確信が宿っていた。
「……この地域が誇る、名物バカップルにあらせられます」
シミズの言葉を引き継ぐように、傍らに控えていたアヤメが澄ました顔で付け加えた。
「アヤメちゃん、君ね……」
だが、シミズはそれを否定しなかった。カズキの罪も、イリスの献身も、そのすべてを知った上で、彼らの愛を「バカップル」という最もありふれた日常の言葉で定義する。
それは、外界という「鏡」が、二人を完全に受け入れたことの、何よりの証明だった。
窓の外では、春の風が桜の花びらを巻き上げている。かつて閉ざされていた「白い家」の呪縛はもうどこにもない。 二人は、傷跡さえも愛おしいものとして分かち合いながら、人々に囲まれた賑やかな世界の中で、静かな、しかし確かな幸せを刻み続けていく。
カズキとイリスが「バカップル」として街の風景に溶け込んでから、さらに月日は流れた。タケルたちの学年にも、いよいよ「将来」という重い言葉が現実味を帯びて迫ってきている。
ある平日の朝。食卓を囲む日常の風景の中で、母親がふと思い出したようにタケルに問いかけた。
「……ねぇ、タケル。あんた結局、進路はどうするつもりなの? 調査票の締め切り、もうすぐでしょう」
味噌汁の湯気の向こうで、母親が心配そうに、けれどどこか探るような視線を向けてくる。
「えっと……地元の大学に残って、このまま進学しようかと思ってるんだ」
タケルが淡々と答えると、母親は持っていた箸を止めて、きょとんとした顔をした。
「えっ、そうなの? あんた、この前まで『こんな退屈な田舎にいられるか。絶対、東京の大学に行って一人暮らしするんだ』って、あれほど息巻いていたじゃない」
母親の驚きはもっともだった。以前のタケルにとって、この街は「何も起きない、古臭い偏見に満ちた檻」でしかなかったからだ。
「……あはは。まあ、そう言ってた時期もあったけど」
タケルは少し照れくさそうに笑い、焼き魚の身をほぐした。
「うーん、なんて言うかさ……。やっぱり冷静に考え直すと、あの頃の『東京に行きたい』って気持ちは、ただこの場所から逃げたいってだけの、逃避だったのかなって思ったんだよね」
「逃げたい?」
「そう。自分と違う考えの大人たちや、この狭いコミュニティが嫌で、遠くに行けば何かが変わると思ってた。……でも、最近はそうじゃないって気づいたんだ」
タケルの脳裏に、かつて「外界」を拒絶して白い家に閉じこもっていた、あの青年の姿が浮かんだ。そして、傷ついた顔のまま、堂々と人前で愛を叫んだあの日の勇気が。
「この街もさ、そんなに悪くないかなって思い始めたんだよね。……不自由で、頑固なところもあるけど。でも、イリスさんとカズキさんみたいに、ここでしか見られない『進化』や『幸せ』が、確かにあったから」
かつて「ナースのオバケ」と呼んで怯えていた存在が、今は当たり前のようにスーパーのタイムセールに並んでいたり、学校の職員室でのろけ話をしたりしている。そんな「歪な安寧」を守り抜いた自分たちの経験が、タケルの心に、この街で生きていくための誇りを与えていた。
「僕、この街の『その後』を見ていたいんだ。あの人たちがどんなふうに歳をとって、この街がどんなふうに変わっていくのか。……それを見届けられる場所にいたい」
「……へぇ。あんた、なんだか急に大人びたこと言うようになったわね」
母親は少し眩しそうに息子を見つめ、どこか安心したように微笑んだ。
「いいんじゃない。あんたが自分で見つけた居場所なら、お母さんは応援するわよ」
「……ありがとう」
タケルは最後の一口を飲み込み、窓の外を眺めた。かつては「開かずの扉」に見えていた窓の向こうの景色が、今はどこまでも開かれた、可能性に満ちた世界に見えていた。
金曜日の夜。一週間の仕事と外界との交流を終えたカズキは、今夜もあの「鏡のない家」の同じベッドで、イリスと共に眠りにつこうとしていた。
かつてこの場所は、絶望から逃げ延びるためのシェルターだった。だが、今の二人の関係性は、以前とは決定的に異なっている。そこにあるのは、自己嫌悪に苛まれ続ける患者と、職務に忠実な医療用アンドロイドという無機質な主従ではない。向き合う二人が醸し出す空気は、もはや例えるまでもなく、深く愛し合う恋人同士のそれ以外の何物でもなかった。
カズキは、包帯を巻く必要のなくなった左側の傷跡を、イリスの半分機械の顔へと向け、静かに囁いた。イリスの診断により、彼に自傷行為の兆候はもう一切ないと断定されて久しい。
「……変わらないな、僕は。君の顔を見ると、いつだって心の底から安心するんだ」
カズキが慈しむようにそう言うと、イリスは即座に、しかしどこか甘やかな論理的修正を加えた。
「ありがとうございます、マスター。ですが、私の精密な解析によると、『変わらない』ということはありません」
彼女は、愛情という最も非論理的な感情を、冷徹な観測データとして提示した。
「かつてのマスターが私の顔を見て感じていた『安心』は、生存のための依存が理由の多くを占めていました。ですが、現在のそれは、『愛情』という感情に起因するものと推測されます。心拍数、呼吸の安定度、そして血中に分泌されるホルモンが、幸福感と強く結びついた特有のパターンを示していますから」
カズキは、イリスの冷徹な、しかし確信に満ちた推測を否定できなかった。だが、こうも科学的に愛情を証明されるのは、どうにも気恥ずかしい。彼はその照れくささを紛らわせるように、イリスの唇に、そして傷ついた頬の境界線に、何度も何度もキスを落とした。
「……そうだな。降参だよ」
彼はキスの合間に、溢れるほどの熱を込めて言った。
「だから、ずっと僕の側にいてくれ。……離さないでくれ」
イリスはカズキの願いを、彼女らしい、少しばかり茶目っ気のある言葉で受け止めた。
「かしこまりました。……もっとも、物理的な強制力を行使してでも、そのようにさせていただきますが」
彼女は、人間らしい柔らかな右頬の筋肉を器用に動かし、乙女のようにわざとらしく頬を膨らませてみせた。それは、カズキを微笑ませるための愛らしい抗議だった。
「……そもそも、この顔で私にどこへ行けというのですか。予備のパーツは販売されており、その気になれば修理は可能なはずなのに、マスターは『この顔が好きだ』と言って直させてくださらないではないですか」
イリスの言う「この顔」という言葉。それはもはや悲劇の象徴でも、エラーの記録でもなかった。二人が地獄を共に乗り越えたという、世界にたった一つの絆の証明。
彼女はカズキの首に腕を回して抱きつくと、その耳元で、吐息のような声で囁いた。その声には、アンドロイドとしての絶対的な忠誠と、一人の男を愛する女性としての執着が混ざり合っていた。
「ずっと側に置いてくださらなければ、承知しませんので」
そして彼女は、最も危険な警告を、最も甘美な声で付け加えた。
「……お忘れではないですよね? 医療用アンドロイドは、患者の安寧のためであれば、たとえ『マスターの命令』であっても無視する権限を持っていることを」
それは、カズキの人生が、もはやイリスなしでは成立しないという、究極の愛の誓いだった。カズキは、その冷たい論理による幸福な脅迫に、震えるような歓喜を覚えながら、彼女を強く抱きしめ返した。
外界の偏見も、過去の罪も、すべては夜の闇の向こうへ。二人は、進化を遂げた愛の論理の中で、今夜も深く、安らかな眠りにつく。
鏡のないその家は、今や世界で最も美しい、二人だけの聖域となっていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
顔面が欠損した美女アンドロイドっていいよね、
という思いだけで書き始めましたが、一応完結させることが出来て嬉しいです。
次回はあるか未定ですが、もしあったらその際はまたよろしくお願いさせていただけると幸いです。




