令嬢ではない侍女ですが婚約破棄相手に溺愛されました
“この本を、夫ウラカンに捧ぐ。──本当は聖女ではないカリナとして”
その日、わたしカリナ・ファリーナは最悪の18歳の誕生日を迎えていた。
マラネロ王国の王宮勤めで女王エリザベス側付き侍女ともなれば嫌なことの1つや2つなんて毎日どころか毎時間ある。それでも、だ。これはあんまりだ。
せっかくの誕生日なのにとんでもないことを命じられて、わたしは口を大きく開けて、ぽかんとしている。
これから、わたしに王族秘伝の“身代わりの魔法”をかけるという。
そして、女王エリザベス・ゾディアック・マラネロになりきって婚約破棄を宣言しろ、というお役目を命じられたのだ。
(身代わりの魔法は誰かが触れた瞬間に解けてしまうわ。声だって私のままだし、きっと、うまくいくはずがない)
私は泣きそうになりながら主である女王エリザベス様に何とか考え直していただくようにお願いしたのだけど、手をひらひらさせて笑うだけだった。
女王陛下は絶世の美女と賞賛される美貌をお持ちの方だ。
貧相な名誉男爵の三女であるわたしなんて比較にならないほどの輝かしい存在。桜色の甘い唇、すっと筋の通った綺麗な鼻、美しい朱色の瞳。完璧なスタイルと白肌で、色鮮やかな蜂蜜色のさらさらの髪。人々を魅了する美しさ。
そんな方のふりをするなんて、考えただけでも重圧で押しつぶされそう。
それなのに、侍女頭まで、率先して、この身代わり案に賛成して積極的に具体案を提案してくる。「女王のお側にいた賢いカリナが自ら強引に志願したということにしてしまえば、一夜限りの身代わりに失敗しても女王様は何の問題もならないでしょう。不敬罪の責任を問われるのはカリナです」などと。
(わたしが失敗したら、全ての責任をわたしに押し付けるつもりなのね。そんなのやめて!)
泣きつくわたしに、女王エリザベス様はあしらうように笑っておっしゃった。
「わたくしは“異世界から呼び出す聖女降臨の儀”で忙しいの、カリナ」
「そ、そんな!! でも大切なご結婚に関するお話を侍女ごときのわたしがウラカン閣下にお伝えだなんて……」
「前からウラカンみたいな正論ばかりの人は好みじゃないから、カリナ、婚約破棄お願いね」
エリザベス様はそう吐き捨てると、興味を失ったように椅子から立ち上がり、奥の私室へと向かおうと背を向けた。
「待ってください! 身代わりの魔法は誰かが触れた瞬間に解けてしまう魔法です! もし、もしも誰かにぶつかったりでもしたら……!」
「うるさい子ね。大丈夫よ、普段からエスコートもダンスも断るわたくしの真似ぐらい、カリナでもできるでしょう」
わたしは半狂乱になって床に膝をついたまま這い寄り、去りゆく陛下の豪華なドレスの裾を掴もうと必死に手を伸ばした。
「わたし、ウソなんて上手くつけません!!」
「それならウソつかなければいいじゃない。ああ、本当の頼み事であることを意味する女王の信任の指輪はつければウソではないわ。これで話は終わりよ」
「お待ちください、陛下! せめて、せめてもう一度だけご再考を!」
しかし、その指先がドレスへわずかに触れるか触れないかのところで、側辺に控えていた侍女頭に無慈悲にその手を払いのけられる。
「なんて子……見苦しいですよ、カリナ。陛下はご決定されました。下がりなさい」
払われた手の甲が床に当たり、鈍い痛みが走る。それでもわたしは顔を上げ、遠ざかる陛下の背中に向かって、枯れそうな声を振り絞って追いすがった。
「わたし一人では無理です、わたし、どうすれば……! 陛下、陛下……!」
わたしの悲痛な呼びかけに、エリザベス陛下は一度も振り返ることはなかった。
ただ、部屋の入り口で足を止めることもなく、めんどくさそうにひらひらと片手を振っただけ。
どうやら、わたしは切り捨てやすい名誉男爵家の売れ残りの三女で、背丈が女王様と近くて、女王様の指輪とサイズがあうから――それだけの理由で今日まで侍女に選ばれていたらしいのだ。
それは、この日のために……まるで、庭に迷い込んだ羽虫を追い払うような、あまりにも軽い拒絶だった。
(女王陛下にとって婚約破棄など、誰かに押し付けたい雑用程度なのね)
今夜、婚約破棄しなければいけないお相手は氷の騎士様と呼ばれるウラカン次期公爵令息だ。彼は非常に聡明な方で、その場しのぎのウソや曖昧な言葉を何よりも嫌っておられる方だと聞いたことがあるのを思い出した。
よりにもよって、これから、わたしは、ウラカン閣下が何よりも嫌っておられる「ウソの塊」になって、彼の前に立つのだ。考えただけで身がすくむ。
(もし、声が震えたり、侍女らしい所作が思わず出てしまったら? この女王の指輪が見た目以上に重いわ。万が一の時、この指輪が本当に役に立つの?)
鋭い審美眼を持つウラカン閣下なら、即座に偽物だと見破った瞬間、きっと氷のように冷たい目で見下ろし、わたしは職を追われるどこでは済まされないだろう。
……そう考えただけで、おなかがしくしく痛いし、むりやり吹きかけられた女王様がいつも使われている香水のきつい匂いが体中からするので気持ちが悪くなってきた。
怖い。すごく嫌だ。
でも、泣けない。泣いたらバレるから。
(ウラカン閣下、怒らないでください。わたし本当はウソつきたくないんです。言われたからウソつきますなんて都合良すぎますよね。どうしよう……)
震える手を指が真っ白になるまで力を込めておさえて、私は身代わりの魔法がとけないように祈りながら馬車で夜会に向かう。
(お願い、誰もわたしに近づいて触らないで……そのためになら、わたしは手段を選ばないわ)
そう決意しながら、扇子を握りしめ、向かう。
今夜は、わたしの人生がかかっている。
◇
わたしは震えながら夜会の会場内に足を踏み入れた。
咄嗟に近くの男性がエスコートをしようと私に触れようとする。冗談じゃない。
身代わりの魔法は、誰か人の手が触れるだけで、すぐに解けてしまう儚い魔法なのだ。
「ふん。今宵は誰のエスコートもいらぬ、誰も触れるな。忌々しい」
わたしは拒絶の言葉を漏らし、扇子で払いのける仕草をした。
(ああ、心にもないことを言ってごめんなさい! 私に触れないでください。本当にごめんなさい!)
何度も心の中であやまりながら、毅然としたふりをしてエスコートを払いのけるように前に力強く踏み歩いて進むと、男性の方はとてもショックを受けた顔でおずおずと引き下がってくれた。
(婚約破棄の宣言の前に、わたしが胃痛で倒れそうだわ……)
中央の豪華絢爛な女王の席に、どかっと座り込んで、わたしは不満そうに腕組みをする。誰かにうっかりダンスを申し込まれないようにするための必死の防波堤だ。
わざと、イライラしているかのように、腕組みした指の二本をトントンとせわしなく腕を叩いて、わたしに話しかけないでという雰囲気を必死になって演出する。
会場ではヒソヒソと声がする。
『なんだ、おい。女王様はご機嫌ナナメだな。うっかり近づくと、とんでもないことになりそうだ』
『厄日ですわね。婚約者のウラカン閣下もおかわいそう……』
『さっきの見たか? エスコートも拒否されるなんて、今日の女王様は普通じゃないぞ。一体どうされたのか』
『噂の聖女降臨の儀の計画が大変で心労を煩っておられるのかも知れない』
半分ぐらい本当なので、わたしは何も言えない。
ザワザワした声が大きくなったを見計らって、わたしはグラスをわざと床に叩きつける。予め決めておいた作戦だ。ガシャーン!
グラスが割れ、会場が静まり返る。
「うるさい羽虫の音がするようですけど、あーら、気のせいかしら。ヒソヒソと耳障りですわね。ウラカンはまだ来ないのかしら?」
(ごめんなさい。あぁ、グラス割ってごめんなさい。これは演技なんです)
わたしは心臓がバクバク高まるのを押さえながら、もう一つグラスを手にして床に落とす。ガシャーン!
給仕が慌てて床に散乱したグラスを片付けようとやってくるので、わたしはバッと扇を向けて制する。
「給仕の者は片付けなくてよろしい! 下がりなさい!」
給仕が引き下がったのを見て、わたしは演技で不敵な笑みを浮かべる。
「さて、こうすればウラカン以外、わたくしにみだりに近づこうと思わない。そうでしょう? あっはっはっはっは!」
さらにグラスをもう一つ、ガシャーン!
心の中では三つのグラスを次々と派手に割ったことで、心臓はバクバク高鳴る。
(ダメダメ、緊張で心臓止まりそう)
わたしは奥歯を噛みしめて、緊張をこらえる。
膝は恐怖でガクガクを震えているけども、ドレスだから足の震えは見えないはず。そう信じつつ、とにかく不満そうな目をして扇子で口元を隠した。
(あー、扇子があって良かった。わたしのアワアワした口元がバレずに何とかなりそうだわ……みなさん、本当にごめんなさい!)
すると、一人の精悍で長身の麗しい男性が近づいてきた。
目は吸い込まれるような瞳のアイスブルー。爽やかで清涼感のある金髪のブロンドヘア。そう、ウソの塊であるわたしのようなウソを嫌っておられる真っ直ぐなお方、次期公爵のご令息、ウラカン・ウィンターガルド伯爵様だ。
別名、氷の騎士ウラカン。
(どうしよう! ついにウラカン閣下が来られたわ。ダメです、わたしの目を見ないでください!)
わたしはその吸い込まれるアイスブルーの瞳に目を奪われないよう、さっと扇子で顔を隠して横にむけて、大げさに溜息をつき、椅子に深くもたれかかる。
「ご機嫌麗しく、エリザベス女王陛下。私をお呼びでしたか」
「遅いですわ! どこに隠れていたのですか!?」
「エスコートを拒否されていたので、てっきり今日は誰ともお話されたくないのかと……勝手な憶測をお許しください、陛下」
ウラカン閣下は丁寧なお辞儀をして私の前で微笑む。
(えっ、すっごく、かっこいい……噂以上の美形……)
扇子の隙間から恐る恐るのぞいて見えた彼の姿は、氷の結晶のようにきらびやかで美しく整った顔立ちは芸術品のようで、思わず触れたくなるほどの輝きがあるかのように感じられた。いけない、わたしは見惚れている場合ではない。
「ああ、その床に散らばった割れたグラスで怪我をするといけないから、それ以上、近づかないでくださるかしら?」
「おや、どうされたのですか女王陛下、今日は苛烈ですね」
「ふ、ふん。仕事が忙しいからと、ここ数年は社交の場にも姿を現さず、よくもまあ、それでわたくしの婚約者が務まると思っていたわね。」
「……今日の君はいつにもなく饒舌ですね。これまで挨拶にも手紙にも返事をされなかったのに、今夜はどのような心境の変化でしょうか?」
ウラカン閣下の返答に言葉に驚いて詰まってしまう。
(え? 女王様ってずっとウラカン閣下を無視されていたの? そんなの酷いわ!)
つい、心が揺れてしまい、台本と違うことを話してしまう。
「わたくしにも色々と都合があったのです。聖女降臨の儀や、古代語の勉強など……」
「古代語の勉強? エリザベス陛下が!? それは初耳です。それならこの言葉はお分かりですか『君の顔が見えない』」
(あっ、うっかりわたしの趣味で勉強している古代語なんて言っちゃった! これはちゃんと返さないと!)
「ふん、初歩的な言葉ですね。『あなたの顔を見たくない』」
古代語は教養のある貴族でもごく一部しか習得しない。
わたしは語学の勉強が好きなので、弟に頼み込んで王立学校の図書館から弟が借りてきた本で勉強をするのが、苦しくて辛い侍女生活での心の拠り所だった。まさか、それがこんなところで役に立つなんて。
会場内は聞き取れない人ばかりのせいか「何を話しているんだ?」とざわついた。聞き取れるのは古代語を専攻した貴族か、わたしのような変わり者か、教会の司祭ぐらいだろう。ほぼ暗号だ。
ウラカン閣下は秘密の会話ができることを楽しまれてるご様子だ。
「驚いた! 陛下と初めて共通の趣味が見つかって私は嬉しい限りですよ。『どうして、今日は不機嫌なのですか』」
「ふん、そんなに馴れ馴れしく犬のように跳ね回らないて欲しいですわね。みっともない。『ごめんなさい。あなたに申し上げにくいのですが、大切な話があります』」
ちらりと見回してみたが、やっぱり、会場内では誰も聞き取れていないらしい。
ヒソヒソ聞こえる密談は、わたしの横暴な女王という言動の演技にばかり集中している。
「大切な話? エリザベス陛下、いったい何を……」
ウラカン閣下の顔が、一瞬にして曇る。ああ、ごめんなさい閣下。
「いいか、全員よく聞け!わたくし、エリザベスは、ウラカン・ウィンターガルド殿との婚約を破棄する! ウカラカン殿にはお望み通り古代語でも教えてやろう! 『ああ、どうか怒らないでください。ごめんなさい。あなたは悪くありません』」
「婚約破棄……そんな、王配のために私がこれまで一体どれほどの時間を費やしてきたと思うのです。『君は誰だ? 本当の君が知りたい』」
「今、この国は救国の聖女を必要としている。辺境の地であるバレンシアに拡がる疫病を止めねばならん。わたくしは、婚姻などに時間を費やす暇などないのです。『わたしのことは忘れてください。あなたとは身分が違います。もう会うこともないでしょう』」
すると衛兵たちが駆け寄ってきた。
わたしは咄嗟にグラスを叩きつけて叫ぶ。ガシャーン!
「近づくなと言ったであろう!わたくしの声が聞こえなかったのか!」
衛兵たちは不敵な笑みを浮かべる。
「女王様はお勉強が苦手です。学習に時間のかかる古代語を流ちょうに話せない。そんなに可愛い声でもない事ぐらい、俺たち衛兵じゃなくても分かるさ。へっ」
「やめなさい、やめて、やめ――あっ」
衛兵に腕を掴まれて、“身代わりの魔法”はたちまち解けてしまった。
シューっと白い煙が立ちこめてわたしの本当の姿が露わになる。
ドレスすら着ていない、侍女の服を着た貧相な身なりの本当のわたし。
“身代わりの魔法”は消えてしまった。
床に叩きつけられて割れたグラスから散乱したシャンパンが石床を水鏡のように反射し、銀髪の髪に琥珀色の目をした、いつもの見慣れたわたし自身の姿をそこに写し出している。
魔法が解けてしまって、何かも、おしまい。
会場が騒然とする。
わたしは力なく呆然とその場に立ち尽くす。
そのまま衛兵に連れて行かれそうになったところで、ウラカン閣下が私の腕を掴んできた。
「待ってくれ、彼女と話をさせてくれ。『大丈夫だ、俺は怒っていない。』」
「閣下がそうおっしゃるのであれば、はあ……先ほどから古代語で何をお話されていたんです?」
「君たちには関係ない国家機密の話さ。少し、庭園で二人きりで話をさせてくれ。それぐらい、構わないだろう?」
衛兵たちはすごすごと引き下がってわたしの身柄をウラカン閣下に引き渡した。わたしは彼に手を引かれるがまま、庭園へと足を運んだ。二人きりで。
◇
会場の外にある庭園の噴水前にあるベンチに腰を掛けてウラカン閣下は、トントンと隣に座るよう促してくる。わたしはうなだれながら隣に腰掛けた。
「さて、魔法の解けてしまったお嬢さん。君の言った婚約破棄は本当かな?」
わたしは黙って頷いて薬指にはめた本物の女王の「信任の指輪」を外して、ベンチに置くとゴトッと重たくて重厚な音がした。
一瞬、驚いた顔をしたウラカン閣下はすぐに微笑んだ。
「本物の“信任の指輪”を身につけた使者は初めてだ、驚いたよ。」
「閣下、本当に申し訳ありません。わたし……」
「いや、気にしてないよ。こうなることは、実は前から予感はしていたんだ。親同士が勝手に決めた婚約で、お互いの名前以外ろくに交流もなくてね」
「そうだったのですか……それでも、閣下に公の場で不敬な態度を……わたしは……」
指輪に込められていた王族に伝わる「身代わりの魔法」は一つの指輪につき一度限りしか使えない。
役目を終えた指輪は、鉄化して重たいただの指輪になってしまう。
それでも、その指輪に刻まれた細かい紋章は一つ一つが異なっており、模造品や偽物は作れない。
つまり、役目を終えた指輪を手にしていたということこそが、わたしが正当な王族の信任を受けて役割を終えたという意味であり、わたしの言葉がでまかせや悪意があることではない身の潔白の証明となることを意味していた。
そして、鉄と化した指輪をウラカン閣下にそっと託す。これで、女王陛下から託された「メッセージが王家として正当なもの」という証明が完了する。
きちんとお顔を見て話すべき状況なのに、申し訳なさから、スカートの端をぎゅっとにぎりしめて、わたしは下をうつむいてしまう。
「君は命じられていたんだろ? そんなことより、初めて他の人と古代語を話せたから、とても楽しかった。『カリナ。本当の君が知りたい、どうしたら君に会えるかな?』」
「――っ! そんなっ、わたしなんて――」
涙がこぼれそうで唇を噛みしめていると、そっと優しい指が頬に触れた。
「まさか、観衆の目の前で堂々と古代語で会話できるなんて思ってもいなかったから、痛快だったよ。それで……君の本当の名前は?」
「カリナ……カリナ・ファリーナです。お嬢様でもありません。ただの侍女なんです。わたしは王女側仕えの侍女なんです。でももう、きっと今回のことで……」
「ふむ。ファリーナ卿と言えば名誉男爵じゃないか。平民でもない君が、王立学校にも通わず今や侍女だなんて、不憫でならないよ」
「いいえ、婚約破棄でウラカン閣下だってこれからどうされるか、お考えにならないといけない時に自分のことばかりで、申し訳ありません」
今後、ウラカン閣下がことの真偽を問われるのであれば、この信任の指輪を手に女王陛下と対峙されれば、すべては白日の下にさらされるはずだ。
(いけない、閣下に対して視線を逸らし続けるなど失礼だわ。でも……)
心の中は申し訳なさと惨めさでいっぱいで、堂々と話し続ける勇気なんてひとかけらも残っていなくて、謝罪の言葉ばかりが頭の中を回っている。
「大丈夫だよ、カリナ。『君を見捨てはしない』。さあ、可愛い侍女さん。君の琥珀色の瞳も銀髪の髪もとても綺麗だよ。せっかくの美人が台無しだよ」
「でも、わたし、これからどうなるか不安で仕方がないんです。ごめんなさい。自分のことばかり」
するとウラカン閣下は、そっとわたしの肩を優しくぽんぽんと叩いて、もう一度、微笑んでわたしを見つめてくる。そのアイスブルーの瞳に魅了されて吸い込まれそうになってドキドキしてしまう。
「これからのことが不安なら、いっそ俺のところに来ないか。」
「いえ……無理です。わたしの身を案じてくださってありがとうございます。でも、どうせ、わたしなんて――」
「この言葉は知ってる?『再び蘇って……その命が続く限り』」
「えっ、どうしてその言葉を? 続きはこうですよね、『我が身を尽くして、その言葉を誓います』」
「俺も楽しいよ。じゃあ、これも知ってるかな?『バレンシアに眠る青き花』」
「あっ、それは、聖女伝説の――」
わたしが次の言葉を言いかけた時、衛兵がやってきた。
「ウラカン閣下、失礼いたします! 陛下が御自ら会場へお越しになり、この娘を直ちにお連れせよとの仰せです。……カリナ、来い! 陛下がお呼び出しだ!」
わたしは衛兵に腕を掴まれた。
「カリナ……君は……」
「さようなら、わたしのことはもうお忘れになってください、ウラカン閣下」
「まて、俺はまだ君のことを――」
「ウラカン閣下、お下がりを! 女王陛下はカリナ一人を召し出されております!どうか、お引き取りください!」
背後でウラカン閣下が衛兵に阻まれる鈍い音が響く。わたしは深く、深く頭を垂れたまま、引きずられるようにして会場へと歩いていく。
背中から、閣下の切実な呼びかけが聞こえる。
(ウラカン閣下、わたしには後ろを振り返る勇気なんて、わたしには、もう残ってないんです)
わたしは自分の耳を塞ぎ、感情を檻の中へ閉じ込めて、心を閉ざした。そして、追いすがろうとする自分自信の未練から逃げるように衛兵に従って歩いて行く。
周囲に悟られぬよう、唇を固く噛みしめながら、わたしは心で叫び続けていた。
これ以上ないほど最悪な形で終わったのだ。
(あんなに惨い言葉を言い渡して、ごめんなさい。わたしが二度とお会いすることなど、許されるはずがない。どうか、どうか、こんなわたしのことなどお忘れください。本当に……申し訳ありませんでした)
会場に着くと、整然とした近衛兵の一団が女王陛下を取り囲んで待ち構えていた。
その陣形の中央に、エリザベス陛下が本物の豪華なドレスを着て、本物の豪華な扇子をゆらゆらとゆらしながら待っていた。折れそうなほど細い腰、すらりと綺麗にすらりと伸びた手足、朱色の大きな瞳に長い睫毛……ああ、あの圧倒的な存在感と美しさは、身代わりの魔法では完璧には再現できない。
身代わりの魔法の姿だった時のわたしの姿を嘲笑うかのような「本物の美しい女性の姿」がそこにはあった。
わたしは恥ずかしさと惨めさで、思わずうつむいて、下をうつむいた。
(どうして、わたしだったんだろう……。結局こうして陛下御自らお越しになるのなら、わたしが閣下に投げつけたあのウソに、何の意味があったの?)
わたしの胸の内を見透かしたかのように、女王陛下は喉の奥でくつくつと喉を鳴らした。そしていつもの、あのひどく退屈そうな手つきで指先をひらひらと動かしてみせる。
……見覚えがあった。灰まみれになって暖炉を掃除するわたしを、面白そうな玩具でも眺めるように、陛下が鼻先で笑っていたときの仕草だ。
この後に続くのは、いつだって慈悲のない、冷酷な宣告なのだ。
「カリナ、婚約破棄の伝言、大義であったわ。わたくしの真意が婚約破棄にあることに相違はない。それは、問題ではありません。しかし――」
「も、申し訳ありません! エリザベス女王陛下、何卒、何卒お許しを……!!」
「いいえ。グラスを割って会場をざわつかせ、わたくしがまるでそのような蛮族のような振る舞いをするような真似事をしたのは頂けませんわね……」
ただひたすらに、慈悲を乞う言葉を喉から絞り出す。今のわたしには、なりふり構わず頭を下げることしか残されていなかった。
(お願い、惨めだとか、滑稽だとか、誰に笑われても構わないから! グラスのことは、許してください!)
けれど、そんなわたしの浅ましさをすべて見透かしたような陛下の眼光が、冷たく、鋭く突き刺さる。わたしは蛇に睨まれた蛙のように体が強張り、必死に紡いでいた謝罪の声は、情けなく震えて小さく消えてしまう。
「陛下……お、お許しください……」
「カリナ。わたくしへの不敬への罰として、もはや側付きの侍女であることを許しません。即刻、この王宮からの追放を命じます!」
――王宮を追放。
それがわたしに下された宣告だった。
◇
王宮追放を命じられて住み込みだった部屋から、僅かばかりの荷物を取り出すことも許されないまま、わたしは王宮を追い出された。
馬車に乗るお金もない。わたしは涙をこらえながら3日かけて徒歩で実家に帰った。そこで待っていたのは温かい抱擁などではなく、母の平手打ちと父の殴打だった。
「この家の恥さらしが! こんなことなら侍女になどならず、どこかの貴族のメイドでもして娼婦の真似事でもやっていればよかったんだ! 公爵令息に婚約破棄を代わりにやるなんてとんでもない不敬な奴だな!? 俺まで縛り首になってもおかしくないぞ! 何をしでかしたか分かっているのか!? 女王様と公爵令息の顔に泥を塗るようなみっともない真似をしやがって!!」
「まったくとんでもない子だよ! 呆れて言葉も出ないね! あんたのせいで、可愛いジェスコが退学になったら責任とってやりなよ! ろくでもないどうしようもない愚かな姉として、せいぜいその身を粉にしてでも、せめて弟の面倒ぐらいは命かけて見てやるんだね! ん? 何とか言ったらどうだい! “はい”、も言えないのかこの娘は! 生意気だね!」
父と母の罵声は容赦がなかった。お酒が入っていたにしても、あんまりだ。
わたしは殴打された頬をさすりながらよろけて立ち上がると、酒をかけられた。
お酒で髪の毛と頬が濡れたが、そこに涙が混じっているかどうかはもう分からないし、どうでも良かった。
口の中が切れたらしい、鉄の味がする。嫌な味だ。
「お父様、お母様。本当に、申し訳ありませ――」
どうにか両親をなだめようと、謝っている途中で母に突き飛ばされ、わたしは再び床に崩れて倒れた。よろけながら、血の味がする口をぬぐって、もう一度、立ち上がる。とにかく、父と母の怒りが静まるのを待つしかない。
わたしにできるのは許してもらうこと、ただそれだけだ。他にできることなんて、何もない。王宮にも見放されて家族にも見捨てられたら行き場がない。
(わたしにできることは、どこに行っても謝ることだけだ。ひたすら頭を下げて、許しを乞うこと。それだけしか許されない。なんて悲しいんだろう。悔しい。でも今はとにかく謝るしかない。耐えて耐えて、もっと耐えなきゃ。それがわたしのできることなんだから)
わたしが、もう一度よろよろと立ち上がって頭を下げると、父が無表情になり、ばさっと、ぼろぼろになった黒いワンピースを足下に投げてきた。
「お前の着ている侍女の服、王宮の支給品だろう。これに着替えろ。作業着だ。侍女の服は、こっちで何とか王宮に返しておいてやろう」
「ありがとうございま……っ!」
服を拾おうとした手を母に踏まれた。
「カリナ、調子に乗るんじゃないよ。あんたはこれに着替えたら家を出て行きな。王宮に追い出された子なんて、もう、メイドとしてすら誰も雇っちゃくれない。うちの子にそんな娘はいらないんだよ」
母の目は光を失っており、その目は笑っていなかった。本気の顔だ。
父も腕を組んで、石ころを見るような顔でわたしを見て、深く目を閉じて首を縦に何度もふる。
見捨てられた。わたしは王宮だけでなく、たった今、両親にも見捨てられてしまった。
「あっ……ああ……」
わたしは嗚咽が止まらないを無理に息を殺して、どうにか肩で深呼吸して叫びたい衝動を止めた。そして、わたしの手の上から母が足をのけるのを見て、ゆっくりと手を動かした。
母に激しく踏まれて割れている手の爪が目に入った。涙があふれそうになるのをこらえながら、大きく深呼吸して、涙をこらえて足下にある、ぼろぼろの黒い服をゆっくり拾い上げて立ち上がった。
黒いワンピースは腰のあたりがほつれて少し破れている。本当にぼろぼろだ。今のわたしと同じ……。
「納屋に行って、とっとと着替えんか、この馬鹿娘が。もうお前は勘当だ。二度とこのファリーナ家に戻ってくることを許さん!」
父は唾を飛ばしながら叫んだ。わたしは力なく、ただ「わかりました。今までお世話になりました」とだけ答えた。
それから、納屋に行って黒いぼろぼろワンピースに着替え、侍女時代の服を畳んで靴と共に父に渡し、わたしは家を裸足で出た。わたしは王宮侍女として支給された靴以外は持っていなかったからだ。外は寒い冬空で、少し雪が舞っている。刺すように冷たい。
(わたし、どこに行けばいいの?)
鉛色の空を見つめてわたしは、途方に暮れた。
こんな行き場のない娘を誰が拾ってくれるのか。
雪の冷たさが頬の熱を奪い、泣こうと思っていないのに頬を伝う涙が刺すように冷たくて痛い。
何のあてもないまま、ふらふらとわたしは川辺に向かって歩き始めた。
肩を震わせて目に涙をためながら、それでも泣かないようようにして、どうにかよろよろと歩く。わたしは誰もいない道を一人ぼっちで歩く。誰も気にかけてなどくれない。一人だけの道を歩く。
川沿いに歩けば船でも流れてきてどこか行けるかもしれない。普通に考えたら絶対にありえないことだが、わたしはすっかり参ってしまって、そんな、起きもしない空想をしながら川辺を歩いて行くことにした。
◇
家を飛び出すとき、靴すらもらえなかった。王宮侍女では靴は与えられていたから靴を持っていなかった。そしてその全てを失ってしまった。誰にも評価されず身一つで、何もない場所へ追い出された。だから今の私は裸足で歩いている。
川に沿った小道を歩きながら日が沈んでいくのを眺めつつ、これまでのことを、わたしは考えた。泣きながら考えた。吐く息が白い。きっと鼻は真っ赤だ。
川辺の道は水辺で冷え切った冷気で足が刺すように冷たくて痛い。悲しい。
その惨めさで、どんどん昔のことを思い出していく。
思えば幼い頃、姉たちに連れられて湖畔にピクニックに何度か行った時は本当に楽しかったなとか、父の事業が上手くいっていた頃は家族みんなで夕食が当たり前で、立派なドレスこそ着ていなかったが、衣服にも不自由しなかった。
(昔は、綺麗なサンダルの靴を買ってもらっていたなあ。どうして今の私は裸足で歩いているんだろう。裸足だと、石畳が刺すように冷たいわ)
あの頃は、この真っ黒な「作業着」になってしまった穴の開いたぼろぼろのワンピースだって、真っ白な麻布だったから着心地が良かった。
わたしは、真っ白な麻布のワンピースを着て、古代語の勉強のために街の本屋さんから買った1冊の専門書を木陰で読むのが何よりの楽しみだった。
そんなことを思い出して、鉛色の空を見上げる。今はその全てが過去のもので何もない。今の私はカラッポだ。両手を見つめる。ひび割れた爪のついた傷だらけの両手には何もない。私はカラッポの女だ。
わたしカリナは一代限りの名誉男爵ファリーナ家の三女だ。
6歳になる弟ジェスコは王立学校に通っている。爵位をえるため騎士になるのが夢らしい。なんて希望に満ちあふれているんだろう。きっとなれるに違いない。
そして父パガニエルと母アウルは酒癖が悪くて、いつもお酒に入り浸っている。
両親は癇癪を起こすと、飲んでいる酒を私に頭からかけることが何度もあった。姉たちには「早く嫁に行け」と言うのにわたしには「生活費を稼ぐ気がないのか」といつも厳しくあたってきた。なぜわたしだけそんな目に遭わされるのかは今も昔も分からない。
そのせいだろうか、要領と容姿だけは飛び抜けて良かった姉二人は早々に子爵家に嫁いでしまった。そして、多額の持参金を姉たちが二人して持っていってしまった。だから家の金庫はカラッポだ。今のわたしとおなじカラッポの家。
それでも、ほんの数年前までは父はミスリル鉱山を見つけた鉱夫頭で、お金回りが良かったのだ。ただ、今は詳しいことは分からないけど、落盤などで採石が止まっており再開まで数年かかるらしい。
わたしは「うまくいくことは長くは続かない」と思う怖がりな性格だ。
王宮で女王の身代わりのような人前に出て演技をできる性格ではないのだ。
だから、まだ父が他の貴族や王族からチヤホヤされている間に、せめて自分の生活費だけでも工面するために必死に努力し、ツテを使ってなんとか王宮の侍女という職に就いていた、それなのに……!
(あの夜の身代わりの魔法は悪い夢で、いまもわたしは眠っていたりして……なんて、そんなはずないよね)
思わず今のすべてを忘れて空想の世界に現実逃避したくなる。
でも破れた服と裸足の足、割れた手の爪は、どうにもならない現実で、凍てつくように寒い空も、寒さで白い息を吐くこの気温も、すべてが本物だ。
(空想は空腹と身一つの今のわたしを救ってはくれない。でもわたしはもう今の現実から逃げたい……これからどうすればいいの?)
そう言えば、王宮の上級侍女たちは「あんな子が女王のお側なんて」とか「名誉男爵のような最下級貴族の子が王宮勤めなんて生意気ね」や「名誉男爵娘の分際で侍女の真似事などせず、メイドと一緒に掃除でもしてなさい」と毎日のように言ってきた。
(わたし、メイドじゃないのに、女王側付き侍女だったのに、ずっとメイドらしいことばかりやらされていたなぁ……どうせわたしなんて……)
メイド以上にメイドのような扱いを受けていたわたしは、誰も見ていない裏階段をずっと掃除をさせられたり、汚れた暖炉を灰まみれで掃除させられたりと、まるでメイドのように扱われていた。それを思い出すと悔しいし、悲しくなって、気分が憂鬱になる。
(そんなわたしを主である女王様は見て笑うだけだった……)
それでも、なぜか女王側付きの侍女になれて、そのことがずっと不思議だったけど、まさか『身代わりのため』に雇われていたなんて。
でも、父が名誉男爵という貴族の中でも最底辺だったということを考えれば、こうなることは当然のこととして予測できたのかも知れない。
生きることに精一杯なわたしには予想もつかない恐ろしいことだけど、わたしはあまりに都合の良い反撃のできない弱者だったのだろう。
(普通の貴族出身の侍女を身代わりにしたら親が黙っているはずがないわ。一代限りの名誉貴族という弱い立場の父につけこんで、わたしはいいように利用されて、王宮からも家族からも不要品として捨てられてしまったのね)
王宮の侍女時代、お休みをもらって実家に帰ることもあった。
すると、母は吐き捨てるように「あなたは器量の悪い田舎娘だからせめて家族の邪魔にもならないように、その体を小さく丸めて生きなさい」と言われたなあ。
そして、父は「侍女でも、王宮に出入りする子爵貴族の妾にでもなればどうとでもなる」と真っ赤にできあがった顔で言われたなあ。
でも、その全ては過去のもので、擦り切れて、ぼろぼろで破れて真っ黒に染まってしまった服しか今は手元にない。本もない。今のわたしには何もない。裸足で歩くカラッポのわたし。
(お腹空いた……帰る場所がないけど、どこかへ帰りたい……でも、どこに行けばいいの?)
わたしは橋のたもとにある、一輪の青白い月桂樹の花を見つけた。萎れかけている。
(王宮内の噴水前にも、青白い月桂樹が咲いていて不思議と枯れることがなくて、わたしはこっそり水やりしていたよね)
その時のことを思い出したので、川の水を手ですくい、王宮勤め時代の頃にやっていた水やりの時のように、古代語で囁いた。
「さあ、お願い。『再び蘇って……その命が続く限り』」
古代語の専門書に書かれていた、古代に伝わる古い習わしの、慈愛の言葉だ。
愛する家族や大切な人への呼びかけに使われたという失われた言葉。
その言葉を、わたしに言ってくださったのは、唯一、ウラカン閣下だけだったなあ。
(こう呼びかけては、王宮内の青白い月桂樹に水をふりかけていたよね。懐かしいなあ。いつも庭師にはナイショでやってたなあ)
そう思いながら花を見ていると花が白く輝き、みるみる萎れていた蕾が再生してぱあっと開花した。
(えっ!? すごい……こんなの、初めて見た……何これ……)
青白い月桂樹の光に引き寄せられた人でもいたのだろうか、橋の向こうから人影が見える。
ああ、良かった、誰か助けてもらえる――
「どうされましたか、何かお困りですか」
◇
善良そうで貴族らしい身なりの整った役人らしい方が近づいてくる。
「行く当てがなくて……」
「ほう、では宿に案内しましょう。ついてきなさい」
「ありがとうございます」
「靴はないのですか、裸足とは? いったいどうしたのです?」
「い、いろいろありまして……」
「ほう……」
一瞬、男性が不穏な笑みを浮かべた気がして、びくっとわたしは体を強張らせた。これは、見たことのある顔だ。
(優しいふりをしてわたしを虐めてきた上級侍女の人たちと同じような嫌な顔をしている。この人は危ない予感がする……!)
わたしはついていくのをやめて、立ち止まって首を振った。
「あの、わたしは一人で教会に向かうところですから、どうぞお構いなく」
「教会? 宿においでなさい。宿で一晩お休みすればきっといいことありますよ」
「いや、やめ――」
私は男の人に突然に口を塞がれ、押し倒されそうになる。
男の顔つきが変わった。
「静かに、人が気づいてしまうといけない。騒ぐなよ。シーッ」
腕を掴まれそうになり、慌てて近くの川と反対側の方へと逃げようとする。
それでも、悪びれた様子もなく歩いて追いかけてくる。
わたしは走ろうとしたけど、怖くて足すくんで、そのまま足がもつれて転んでしまった
すると、笑いながら男は近づいて駆け寄ってきて、そして、わたしの肩を乱暴に掴むと、そのまま草むらへ連れて行って押し倒そうとする。
「おい女、逃げるなよ。今から可愛がってやるよ。」
「やっ、やだー!」
わたしが声をあげても誰も周りに人はいない。
きっとこのまま誰も気付いてくれない。
何が起こるかと考えると……わたしは背筋が凍る思いがした。
わたしの力じゃ抵抗しても逃げられない、痛い、怖い。
わたしは瞳いっぱいに涙をためながらも、せいいっぱい声を上げた。
「やだっ、お願い、もうやめてっ」
こんな姿を見られたら、通行人に自分は淫乱だと、淫らな女だと思われるのだろうか。そんなの悔しいし、とても悲しい。
今のわたしは裸足で、服だって破れている。
もしかして、商売でこんなことをしているのだと思われるのだろうか。
(こんなの嫌だ、触れられる手が、とにかく気持ち悪い。今すぐ逃げたい)
怖くて悔しくて、思わず涙がこぼれそう。
手首を太い手で強引に押さえられて、恐怖心のあまり仕方なく震えた声で泣きそうになりがら叫んだ。
涙がこぼれて顔がぐしゃぐしゃになりながら、どうすればいいのかと、答えのない答えを探して思考をぐるぐるさせた。
頭の中でウラカン閣下のことが頭に浮かんだ。
『カリナ。本当の君が知りたい、どうしたら君に会えるかな?』
あの夜、ウラカン閣下と話した時の言葉が思い出される。
(ウラカン閣下、もしおられたら、助けてください。わたしを見捨てないで……)
そのとき、わたしの体全体が白く光り輝きはじめた。
(えっ、これは何なの? 何かの魔法なの……?)
「あっ! 加護の魔法か何か仕込んでやがったのか!? ちっ……」
わたしに覆い被さろうとしていた男はそのまま慌てて立ち上がり、背を向けて、転びそうになりながら走って逃げていく。
(良かった、何が起きたか分からないけど、助かった……本当に良かった……)
雑草と土まみれになった背中の痛みをこらえながら体を起こし、わたしは高鳴る心臓をおさえ、涙ぐみながら呼吸を整えようとしゃがみ込んでいると、視界がだんだん暗くなり、そのまま意識が薄れていった……。
◇
わたしが目を覚ますと、魔方陣の中に横たわっていた。
(えっ、何? ここはどこ? 神殿?)
突然のことで訳がわからない。
わたしは川の橋のたもとで暴漢に襲われてそこから光に包まれて――
どうして、こんなところに?
「国庫……粉飾……隠蔽……どうしてこうなった。やはり、強引な召喚の詠唱を行い続けたことが原因なのか?」
「どうしましょう。もうこの魔方陣での召喚魔法は使えません、ガヤルド大司祭。聖女降臨の儀が、今さら失敗しましたと申し開きを」
「不可能だ、今さら、失敗など言えない」
大司祭様と教会員の方たちが言い争いをしている。
「ここは……」
わたしが、恐怖で震えていた。
何が起きているのか分からない。
起き上がろうとすると、司祭様のような男性の方が駆け寄ってくる。
「あぁ、目覚めてしまった」
「来ないでください、いやっ、わたしに触らないで――」
何が何だか分からない。
「落ち着いてください。ここはマラネロ教会の大聖堂の地下にある大神殿です」
「教会? どういうこと? わたしはどうなっているの?」
「混乱されるのも、無理はない。それに酷い傷だ。安心してください、私たち教会はあなたを保護します。まずは温かい湯浴みと、治癒魔法で怪我を治しましょう」
「なぜわたしを助けてくださるのですか……?」
「いえ、助けていただくのは我々のほうです。今は混乱されてらっしゃるでしょうから、ゆっくり落ち着いてお休みください」
それから、わたしは湯浴みをさせられ、殴打され腫れていた頬も、割れた爪も、治癒魔法で治してもらい、純白の綺麗なワンピースを着せてもらって、わけも分からないまま、ふかふかのソファーと大きなベッドのついた客間へと案内された。
わたしは隣にいる赤毛のシスターに気になることを質問した。
「あの……おいしい夕食をありがとうございました。パンに温かいスープ……まだ男の人が怖くてあまり食べられなくてごめんなさい。」
「大変な思いをされましたね、無理して食べられなくて大丈夫ですよ」
「ごめんなさい、まだ恐怖で食事が喉を通らなくて。それに、どうして、わたしは神殿にいたのでしょうか」
「そのことを詳しく私から説明することは禁じられているのです。申し訳ありません。聖女さま」
「聖女……え、わたしが?」
「あまり気になさらずに……おやすみなさいませ、明日になれば大丈夫です。明日になれば、氷の騎士様がお見えになりますから」
(氷の騎士……ウラカン閣下が来られるの?)
「今夜は転移魔法や暴漢のことでお疲れだったでしょう。治癒魔法で怪我は治せても、心の安寧を得るには時間がかかるものです。それでは、また明日……」
「ええ、ありがとう。また明日……おやすみなさい」
1日の間でたくさんのことがあった。
たくさんのことがありすぎて、まだ心の整理が追いつかない。
まだ目を閉じると、また誰かに襲われるのじゃないかと怖くなる。
もうきっと、わたしには失うものもないのだから、これ以上のどん底なんてないのに、どうして怖いのだろう。
(これ以上、失うものなんてないのに、わたし、何に怯えているんだろう)
ふっと、ウラカン閣下の言葉を思い出した。あの夜に聞いた言葉。
(確か……大丈夫だよ、カリナ。『君を見捨てはしない』。さあ、もう、うつむくのはやめて顔をあげてごらん。せっかくの顔が台無しだよ、だったかなあ)
あの日の夜を思い浮かべると、少しだけ、ふふっと、口元に笑みが浮かぶ。
わたしは、きっと明日は良い日になる。
そう信じて寝ることにした。
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