汝、恐れることなかれ3
キア神の神子、といえば現人神のようなものだ。
決して人間ではない。
彼女らは常に神子としてこの世に招かれ、神子として生涯を閉じた。人間が神になれるなどとちら、とでも考えることすら普通はあり得ない。
普段余り物事に動じない質のエルドシールだったが、これには頭を抱えた。自分が育った孤児院で日夜すり込まれた“常識”を打ち壊されるのは、なかなか精神的にきつい。
「……一つ聞くが、普通の人間が神子になれるものなのか?」
「そうよ、代々の神子もキア神に力を与えられた普通の人間。ただし、異世界の、ね」
「異世界……」
また突拍子も無い言葉が飛び出す。
「そう。神様にも色々制約があって、そういう面倒な手続きを経ないと地上に自分の力を反映させることが出来ないんだって」
「……それは……キア神から直接聞いた、ということか?」
「そうよ」
キア神は実体の無い神と言われている。だから神子を遣わすのだと。しかし、直接聞いたということは、キア神に実体はあるらしい。
色々な意味で許容範囲を超える情報に、エルドシールはどっと疲れを感じて溜め息を吐いた。
「……何と言うか、そなたが言うなら本当なのだろうが、話が大き過ぎて抱えきれん……」
「そうでしょうね。私だって異世界から来た神子です、とか名乗る奴がいたらまずは正気を疑うわ。ま、必要の無い知識だから理解する必要は無いと思うけど」
エルドシールもその言葉には頷く。実際にキア神の涙での召還に立ち会ってその額の宝玉を見ているからどうにか信じられるが、普通なら信じられる話ではない。
「あ、この石もキア神がくれたの。前もちょっと話したけど、命の危険を回避してくれるんだって。どんなふうにかは分からないけれど」
今は頭巾に隠された宝玉がある辺りを無意識に見つめていると、神子は肩を竦めて布の上から額を軽く撫でながらそう言った。一見ごく普通の尼僧にしか見えない娘の額にそんなだいそれたものがあるとは、到底思えない。
「そうそう、私、五人目の神子だってグラスローが言ってたけど、キア神からは三人しか聞いてないのよね。何か知ってる?」
「あぁ……三代目神子ハーナ様の後、記録上では四人目の神子が存在する。しかし、この神子は人ではなかったので神殿で大事に育てられたが、歴代の神子のように何かを成されたわけではないし、余り知られてはいない。神子と呼ばず神獣と呼ぶ方が一般的だな」
およそ百年前に行われた召還で現れたのは黒い小型の獣で、美しい姿をしていたという。その解釈を巡っては未だ神学者達が激しく議論を戦わせている。
「あ。もしかして、これくらいの大きさの、黒い動物?」
両腕で抱える様に環を作って問う神子に驚いた。
「知っているのか?」
「うん。こっちの世界にはいない動物?」
「いないな」
「私の世界ではネコっていうのよ。くだらない理由で神子召還されたから、神子を降ろすわけにいかなくて身代わりに黒猫を送ったって言ってた。それであやまちを悟ってくれればって思ったみたいだけど、また召還するから困ってたよ」
世間話のように語ってくれるが、エルドシールにしてみれば背筋が寒くなる思いだった。聖堂に暫く籠って、我ら人間の不徳を懺悔せねば。グラスローにも伝えよう。
しかし、神獣も神子のいた世界から来ていたのか。異世界とはどんなところだろうかと思いを馳せ、ふと疑問に思った。
「そういえば神子はこちらの言葉を話すが、異世界でも同じ言葉を話すのか?」
「そんなわけ無いでしょ。キア神がそうしてくれたの。だから文字も読めるわよ。ただし書いた事は無いから、練習しないと書くのは無理ね。それから元人間てばらしちゃったんだし、キヨって呼び捨てで良いわ」
「では我のことも名前で呼べ」
「エルドシール、だっけ?じゃあエディ」
平然とそう受け答えする娘に、神子と思っていた時には感じなかった疑問を感じた。
「キヨは我が王だと知っても平然としていたが、それが異世界では普通なのか?」
「うーん、産まれた国によるかな。王様がいない国もあるし。私の国には貴族とかはいなかったけど、ちょっと特殊な王様はいたわ」
「特殊、とは?」
「政治権力を持たないのよ。精神的な支えとしての象徴的な王様。天皇って呼ばれているけれど、どっちかっていうと宗教に近い感覚があるのかも? その行動や言動は道徳的なお手本、ていうか……。海外との外交活動で国益に寄与したり、慈善事業や式典に出席したり。でも政治を動かす人間を任命する権利は持ってるけど、その人間を選ぶ権利も政治そのものを動かす力も無いの」
「実権は無いのに、尊敬されていのか?」
「私の国はね、かつて大きな戦争に負けたの。その時、敗戦国になった私の国を統治しに来た司令官に陛下がおっしゃったのよ。国民は悪くない。全て私の責任だって。実際戦争は軍部が暴走して泥沼化したけれど、陛下自身は戦争には積極的でなかったと聞いているわ。そして陛下は実権を奪われたけれど処刑されることもなく、敗戦国なのに属国にならずに独立国として生き残った。勿論他にも色々な思惑や駆け引きがあった末にそうなったわけだけど、その後天皇陛下やそのご家族が権力に頼らずに国民に尽くす道を歩まれた。少なくとも私はそう思っていて、だから尊敬しているわ」
敗戦国の王が処刑されなかったのにも驚いたが、その後の一節が酷く心を捉えた。
「権力に頼らず、国民に尽くす道か……」
考えたこともなかった。裏を返せば、権力が無ければ国民に尽くすことなど出来ないと思っていた。
「言とくけど、あなたが王様って思えば自然に敬語が出るくらいにはちゃんと教育受けてるわよ、私。でもあなたを対等に扱おうとするのは、腐っても神子様の自覚があるから意識してやってる事でもあるわ。神様の前には人は皆平等。王様も乞食も同じ人間」
キヨの言う事はとても良く分かる。敬語は使うだけで身分の上下をはっきり分けてしまうのだ。神子として扱われるのを拒否しながら神子の自覚を持つという不思議な娘は、やはりどこか普通の人間とは違うと思った。
「そなたは腐ってはいないと思うぞ。神の前には皆同じ、か。分かっていてもそう行動出来るものは少ない。身分を知れば態度が変わる」
「それは私がこっちの世界にしがらみが無いからよ。あっちの世界ではしがらみがあったから、理不尽な状況でも従っていたこともあるわ。でも、あなた怒らないのね」
「何を?」
「乞食と同列に扱われても。王様ってもっと気位が高いものだと思ってたわ。それともあなたが特別なのかしら?」
キヨの問い掛けに思わずエルドシールは苦笑した。十五歳までの環境を思えば、自分は庶民と大して変らないのだ。
「キヨ」
「何?」
「キヨも我と同じ普通の人間だ。そう思ってみれば我はそう難解な人間では無いと思うぞ。普通の人間としてみれば、キヨは基本的に理解の範囲内だ。神子と思ってみれば理解が難しい」
「両方とも私なのに?」
「神子がどういった存在なのか、我は小さい頃から刷り込まれている。我は修道院育ちだし、慈悲深く神の御業を使って世界を救う神子がするだろうと予想される行動、言動というものがある。だが、キヨの行動も言動もその予想を裏切るからな」
キヨは苦笑いして、何かを誤魔化す様に視線を彷徨わせた。
「確かに。でもその割りには神子という存在に囚われていないのね」
「そうか?」
「そうよ。凝り固まった信仰心を持つ神官なら、こうあるべきという姿に沿わない神子は存在してはならないっていう方向に思考がいくでしょうね。グラスローがそういうタイプじゃなくてホント助かったわ」
俗にいう狂信者というやつか。
「グラスローは……神官というより政治家だからな」
「そうね、利害の一致を見れば案外すんなり手を組めるし。あなたの言った通り、国の事を憂いているのは本当だったみたい」
「利害の一致? 一体どんな一致を見たんだ?」
「それはそのうち教えてあげるわ」
飛び出した意外な言葉が非常に気になって喰い下がったが、結局教えてくれなかった。上手い事はぐらかされて興味の矛先を異世界の教育事情に向けさせられてしまったため、昼食休憩までの間エルドシールは好奇心に従って異世界の学制についてキヨを質問攻めにした。