汝、恐れることなかれ2
その日終わらせるべき執務を済ませると、エルドシールは次の予定に向かって足早に廊下を進む。
先触れを出しておいたこともあり、アルフォース・ファレ・レイゼン公爵は既に宰相執務室前に立ち、恭しくエルドシールを出迎えた。正妃候補の一人、フィリシティア姫の父である公爵は痩せて骨張った身体を折り曲げて臣下の礼を取る。
「これはこれは陛下、いかがいたしました?」
どうぞ中へと誘う公爵を遮って告げる。
「レイゼン公爵、明日から暫く政務を貴殿に任せたい」
実際こんな事を言うまでもなく政務の実権はエルドシールには無いのだが、貴族社会は何事も形が大事なのである。
「は、それは有り難き事にございますが、なにゆえでしょうか?」
急な事に大袈裟に驚いてみせる公爵の神経質そうな視線から、何事か考えるように視線を落として目を逸らす。エルドシールは公爵のある種の強迫観念を覚える様な視線が苦手だった。
「うむ。正妃候補も決まり、いよいよ婚姻が近いので母上にお会いして来ようと思う。婚姻が本決まりになれば、暫くは母上にゆっくりお会いする時間もあるまい。今宵本神殿で禊をしてそのままラダトリアに向かう。十日程で戻る予定だ。何かあれば早馬で知らせるように」
本来なら十日も王宮を留守にするなら最低一ヶ月前に申し出なければならないが、神子のことは急だったため、急に思い立ったように見せる必要があった。今日の会議で正妃候補が決まる事は分かっていたので、それを利用したのだ。
「おお、確かにそうですな。では丁度良い機会でしょうから、陛下からご生母様には是非とも結婚式に出席して頂ける様ご説得下さいませ」
おそらく公爵の中では正妃は自分の娘に決まったも同然なのだろう。痩せているせいか大きく見える目を更に喜色満面で見開くので、どうにもエルドシールとしては逃げ出したい気分になる。その顔がどうしても神殿でよく見ていた地獄絵の壁画の餓鬼に見えてしかたがないのだ。分かったと頷いて準備があるからと早々に退散した。
自室に戻ったエルドシールは侍従に命じて急ぎ旅支度を整えさせる。今回は視察ではなく、修道院に滞在するので個人的な荷物は最小限におさえる。その代わりに騎士達に支給さていた毛布等が古くなって回収されたものの一部を馬車に山積にした。普段なら下働きの者に下げ渡される品であるが、こうして母を訪れる時は持って行くようにしている。この程度のものならわざわざ宰相達に許可を得ずに済む。
王宮と主神殿は大して離れていない。位置関係としては王宮の背後、少し小高い丘になった場所に主神殿が立っている。馬車ならばあっという間だ。
エルドシールはそういえば正面から堂々と入るのは久し振りだ、などと思いながら神官長グラスローの出迎えを受けた。
「まずはそなたの部屋へ。その後禊を頼む」
グラスローは心得たとばかりに頷き、禊の用意を下級神官に指示して執務室に向かった。
扉を開くと中には見慣れぬ尼僧がいた。当然人払いすると思っていたグラスローはエルドシールが中に入るとそのまま扉を閉めてしまうし、何故かと顔を顰めた。そんなグラスローは何故か意味ありげにしわを増やして微笑み、そこではっとエルドシールはその尼僧が神子だと悟った。
頭巾に隠されて髪の色こそ見えないが、あの黒い瞳は間違え様が無い。
「キヨ尼僧、か」
「キヨ尼僧見習いです、陛下」
澄ました表情で恭しく頭を下げる姿に戸惑う。昨夜の神子の態度とはまるで違う。
「それで、明日のことはもう話してあるのか?」
昨夜はあの後くしゃみをした神子を慌てて風呂に入れ、母上のいる修道院へ神子をお連れする算段をグラスローと簡単に打ち合わせしただけだった。
抜け道を使って来ていたので余り長居は出来なかったからだ。書面で知らせるには不安があったのでもう一度詳細を打ち合わせせねばならない。
「明日、ラダトリア修道院に向かうということは既にお伝え申し上げてあります」
グラスローの返答に軽く頷いて神子に向き直る。
改めて見るとゆったりとした尼僧衣の上からでも豊かな胸の存在が分かり、少し幼げな印象を受ける顔立ちと中性的な印象に反して成熟した女性なのかもしれぬと思った。身長も成人女性より少し低い程度だ。
「では、キヨ尼僧見習い。明日、そなたは我と共に母上のいらっしゃるラダトリア修道院に向かう。馬車でまる一日の旅になる。書簡は第三者に見られぬとも限らぬので母上にはそなたのことは伝えてはいないから、あちらに着いてから事情を話すことになる。
それからそなたの素性だが、南のマゼン海王国出身の流民というのが妥当だろう。マゼンの民は黒髪黒目が多いし、肌の色も近い。修道院は俗世と縁を切った者の住処だから俗世での事情を聞かれることもないだろうが、一応それくらいは覚えておくと便利かと思う。何か他に聞きたいことはあるか?」
「恐れながら私も陛下と同じ馬車で参るのでしょうか?」
「その方が目立たぬし都合が良いと思うのだが、何か不都合があるか?」
神子の真剣な眼差しに少し不安になって問えば、解釈に苦しむ返答が微笑みと共に返って来た。
「いいえ、私にとっても好都合です。丸一日、陛下を独り占め出来ますね」
ぎょっとしてグラスローを思わず見れば、彼もまた意味深な微笑みを浮かべた。
「なかなか頭の痛い状況にいるみたいね、王様。グラスローから話は聞いたわ」
翌朝、馬車に乗った途端に豹変する口調と雰囲気に、エルドシールは一瞬動きが止まる。
「……神子様は人を翻弄するのがお好きのようだな。何から聞いていいやら分からなくなって来た」
「順番に聞けば?」
「では。口調が違うのはここならば聞かれる心配が無いからか?」
飄々とした態度の神子に気を取り直して、とりあえず気になった順に聞いて行くことにした。
「そうよ。正体がバレたら私の計画も狂っちゃうし。壁に耳あり障子に目ありってね」
ショウジが何かは知らないが、言いたい事は分かった。神子も普通の人間の様に人を欺くことは出来るらしい。
「グラスローとは随分打ち解けたようだが、何かあったのか?」
「別に。ただこの国の状況とあなたの事聞いただけよ」
召還時はあれほど人間の事情など知った事かといった態度だったのに。やはり神子の考える事は良く分からぬ。神子に話を聞いてもらってあのグラスローが満足したのか……?
言葉を交わさずとも通じ合っている様な、申し合わせたような昨夜の二人の微笑みを思い出して、顔をしかめる。
「うむ……そなたは余り身分の上下を気にしないように見受けられる。それなのに召還された時は随分と高圧的な態度だったが」
「そりゃ簡単よ。私が小娘でグラスローが海千山千のじじいだから。私には特別な力が無いわけだし、舐められたら終わり。だから先制攻撃でどっちが格上か一発で叩き込まなきゃなんなかったわけ。ちょっとやり過ぎちゃったから、あの時あなたが止めてくれて助かったわ。有り難う」
海千山千のじじい。中々衝撃的だ。そのような言い回しは初めて聞くが、つまり狸だと言う事だろう。はっきり言ったものだ。
それに先制攻撃がどうとか、それは何処かで聞いた事がある。孤児院のガキ大将が言っていた喧嘩のうんちくだった気がする。
それでやり過ぎて止められたからあの表情か、とエルドシールはあの時神子が見せた何処か恥ずかしげでバツが悪げな様子を思い出した。
神子、として見るから分からないのか?
数々の驚きも、相手が口の悪い部類の頭の回転が速い人間と仮定すると納得いくものが多い。年頃の娘ならまず身を隠すものを欲するだろうし、自分の意志に沿わぬ事をされれば怒りを持って拒絶するのも当然だ。いやな事はいやだと言ったに過ぎない。やり過ぎたと反省したから歩み寄ってグラスローの話を聞いた、と。
「非情に無礼かもしれぬが、神子の思考回路とは人間と大して変らぬものなのか?」
すると神子は黒い瞳を丸くして、それは嬉しそうに口元を笑みの形にした。
「ご名答。だって私、元々普通の人間だもの」
あっさり告げられた言葉に、エルドシールは何度目か分からぬ絶句するという状況に目眩を感じた。