第一歩
「何をもって貴しとするか、または賎しいとするかは何に価値を置くかによって変化します。血筋に重きを置くならば、平民出身のグラスロー様は賎しい者になります」
ゆっくりとキヨの言う言葉がフィリシティアの胸の中に入って来る。それは今まで考えもしなかったことだが、不思議と素直に受け入れられた。生来の素直さもあるだろうが、優しく頭を撫でてくれた尼僧見習いの心配そうな顔に、昔の優しかった母の面影が重なったからというのも大きい。外見こそ似ても似つかない。しかし、落ち着いた優しい声ながら教え諭すようなきっぱりとした語り口は、幼き日に慕った母に似ている気がした。最近は殆ど会うこともなく、会っても通り一遍の挨拶しかしない母を思い浮かべて、フィリシティアの胸は痛んだ。
幼い頃、お母様もこんな風にたくさん色々なお話をして下さったわ。それなのに殆ど覚えていないなんて……。
母の優しい微笑み、姉と一緒に聞いた教え、それらは確かにあったはずなのに、具体的な内容は抜け落ちたようにフィリシティアの記憶から抜けてしまっていた。
何をもって貴しとするか……
フィリシティアはもう一度キヨの話した内容の意味を考える。そして、血筋に重きを置けば神官長も賎しい者になるという、その逆も真なりということにもすぐに考えは至った。自分が高貴な血を引く公爵家の娘ではあっても、血筋に価値を置かなければ、貴い存在ではなくなることも理論上理解した。見方によっては自分が無価値になる、その実感が無いので多少心細い気分になっただけでフィリシティアはあっさりそれを受け入れた。しかし、その考えが父にとっては酷く不快なものであることはすぐに分かった。父の教えに従うなら、父の正しさに従うなら、このキヨの教えを受け入れてはいけないのだろう。
でも……陛下は物言わぬ花よりも物言う花を望まれたわ。陛下は、何をもって貴しとされるのかしら。
そんなフィリシティアの内心を知ってか知らずか、キヨはゆっくりと話を続ける。
「フィリシティア様、何に価値を置くか。それはあなた様自身が判断しなければなりません。お父様の言う通りではいられない、そうお思いになるのでしたら、それはとても喜ばしいことですよ」
フィリシティアの脳裏に父の顔が浮かぶ。たとえ歪んでいたとしても父は娘としてフィリシティアに愛情を注ぎ、フィリシティアは娘として父を慕い、その愛情を失うことを恐れてきた。
父の言う通りではいられない。確かにはっきりとそう自覚したわけではなかったが、最近の自分の行動はそれを表していた。フィリシティアを笑顔で誉め称える父の顔に、昨夜見たハンナを追いつめる鬼のような父の顔がちらちら重なる。父に対して育ちつつある疑念。それとは別に父の愛情を失うかもしれない恐怖。様々な事が胸に去来して心臓がぎゅっと掴まれたように痛かった。
「喜ばしい、ことなのでしょうか?」
痛む胸の前でぎゅっと拳を握り、不安を隠しきれずフィリシティアが問えば、キヨは力強く頷いてくれた。
「はい。フィリシティア様。セリーヌ様を見て、どうして、と疑問に思われた。そうですよね?」
「はい」
「当たり前と思っている事に疑問を持つ事。それが成長と新しい発見への第一歩。フィリシティア様はもうその第一歩を踏み出したのですから、後は経験あるのみです。というわけで、尼僧見習いを体験してみませんか? もしかしたら、一体何故セリーヌ様があのような行動を取られたのか、その答えが見つかるかも知れませんよ」
その提案に、フィリシティアは深く考えずにすぐに頷いた。キヨを信頼するが故に。
一人で着替えるのが基本。そう言われてガチガチに緊張したフィリシティアだったが、ドレスを脱ぐのを手伝ってもらった後は、思ったより簡単だった。もともと一人で着ることが前提の尼僧服と侍女に手伝ってもらうこと前提のドレスではそもそもの成り立ちが違う。尼僧服には背中にずらりと並んだボタンもリボンも無いし、袖の編み上げリボンも無いし、重量だって相当軽い。頭巾の着け方だけ少し手間取ったが。着てみた尼僧服は思った以上に軽くて動きやすい。肌触りが悪いのは否めないが、鏡に映った尼僧服姿の自分はなんだか新鮮で、フィリシティアは浮き立つ心のままにくるりと一回転した。
「うわぁ、聖女様だわ、聖女様がいる……」
それを見ていたキヨが思わず零した呟きは、ご満悦のフィリシティアの耳には入らない。
まだ女の匂いの薄い少女の細い体を包む黒い尼僧服は、驚くほどフィリシティアに似合っていた。召還された勇者が出会う聖女ってこんなだよな、きっととキヨはその姿に釘付けである。少女の持つ清廉さが際立つというか、余計な飾りが無い分、その美貌が際立つというか。神々しいほどの聖女っぷりである。それなのにくるっと一回転とか可愛いにも程がある。
この子を連れ歩くのか、と、自分の提案を若干後悔し始めたキヨだった。こんなに可愛いと、馬鹿貴族どもに見つかると危険かもしれない。公爵の娘としてのフィリシティアならあの骸骨公爵を恐れて手は出さないだろうが、ただの尼僧見習いだったら……。想像してキヨは青くなった。何が何でも側を離れないようにしなければと堅く決意する。
「では、今からフィリシティア様は私の後輩、“新しい妹”です。お名前は……ティアとお呼びしますね」
「は、はい、お姉様!」
お姉様呼びに、キヨの中の何かが大量に削られた。確かに尼僧の場合は先輩を姉と呼ぶ。キヨ姉さんである。お姉様とかフィリシティア姫に呼ばせるなんて、なんかもうごめんなさい、許して下さいって土下座したくなるんだけど、とキヨは遠い目をした。
「あー、そうですね、私の事は“キヨ”と呼び捨てで構いませんよ?」
「……キヨお姉様ではいけませんか?」
悲しそうな顔をされても、私の精神力が持ちません。
「せめてキヨ姉さんでお願いします」
「え……」
愕然とした顔をする妖精ちゃん改め聖女様。確かに、キヨ姉さんなんて口にするのは全く似合わない。これはキヨ姉さんなんて呼ばせる方が冒涜なのか。ちょっと悩んだ末に、キヨは諦めた。
「分かりました。お好きに呼んで下さって結構です」
「はい!」
うん、萎れた花が復活したから良しとしよう。
キヨは溜め息を一つ吐いて部屋を出た後の注意事項やら、今の現状やらを手短に説明した。フェンリール軍の事やゼットワース侯爵の失脚は伏せ、アレシアが毒に倒れたが解毒が間に合い、命の危険は既に脱したこと、王都で暴動が起こったこと、その暴動から民を保護する為に王宮を開放したことを伝えた。
フィリシティアは青い顔で神妙にキヨの説明を聞き、保護された民のお世話を尼僧見習いとして行う予定を聞かされると動揺してぎゅっと両手を胸の前で握りしめた。幸いキヨにはすぐ懐いてくれたが、話を聞く限りフィリシティアは人見知りらしい。内気というのは明らかだし、不特定多数の、しかも今まで関わりのいっさい無かった平民と接するのは苦痛だろう。でも、エディの伴侶になるならこれくらい軽く乗り越えてもらわないと困るのだ。キヨは握りしめられたフィリシティアの手をそっと包んで励ますように微笑んだ。
「私がずっと一緒にいますから、大丈夫。まずは見て覚えるということで、私がする事を見ているだけで大丈夫。何もしなくても良いですよ。そのかわり、全部をよく見ていて下さい」