姫君の冒険の始まり
朝になっても収まらない遠くから聞こえて来るざわめきと不穏な空気に、フィリシティアは落ち着かなかった。昨夜の父の尋常でない様子といい、きっと大変なことが起こっている。慈母様の容態も気にかかる。だが、情報を得ようにも、ハンナは追い出してしまった。呼べば王宮侍女は来るだろうが、なにしろハンナを介してしか会話をしたことがない。身分の高いフィリシティアは、王宮侍女のような貴族の中でも下級の者とは直接口を聞いてはならないと教わって来た。
とりあえずの問題は、着替えである。夕べは四苦八苦しながらも自分一人で寝間着に着替えられたが、ドレスの着付けは到底一人では出来ない。一番着付けが簡単そうなドレスを引っ張り出して来たものの、一人で着たことの無いフィリシティアにはどうしたら良いのか途方に暮れるばかりだった。散々迷った挙げ句、結局呼び鈴を鳴らした。
来てくれた三人の王宮侍女は、名前は知らないがいつもの人員だった。彼女らは万事心得た様子でハンナの不在にも特に何か言うことも無く、フィリシティアはそのことにほっと安堵する。言葉少なに彼女らにドレスの着付けを任せ、身支度が整う頃には朝食も準備され、ハンナがいなくとも滞り無く全てが進んで行く。給仕に一人残った侍女が見守る中、フィリシティアは恐る恐るナイフとフォークを手に取った。王宮に上がってから、ハンナの毒味無しで食べるのは初めてのことだ。父からも毒味のことは厳しく言い含められていたので、ドキドキとおかしな動悸がする。ちらりと側に控えている侍女に視線をやっても、澄ました顔で微動だにしない。
(ど、どうしましょう……このまま食べてしまっても大丈夫なのかしら……)
困惑のあまりナイフとフォークを手に持ったまま固まってしまう。余りお行儀が良いとは言えないその状況に焦りが募り、それでも一口目を食べる勇気が出なくて泣きそうになった。
「……毒味は済んでおります」
こそり、と侍女に囁かれ、思わずぱっと顔を上げて侍女を見る。侍女は相変わらず澄ました顔で、フィリシティアは慌てて顔を正面に戻す。
恥ずかしさに顔を火照らせながら、フィリシティアは落ち着きを取り戻すようにことさらゆっくりと朝食をとり始めた。
給仕をしてくれた侍女に、今、何がどうなっているのか聞きたかったが、ぐずぐずと話掛けることが出来ずにいるうちに朝食を食べ終えてしまい、速やかに片付けて退室しようとする侍女を引き止める声が出なかった。
また一人になってしまい、フィリシティアは途方にくれる。もともと舞踏会の翌日である今日は特に予定は無かった。慈母様を見舞いに行くことも考えたが、詳しい容態も分からないでは却って失礼になりかねない。それなら手慰みに刺繍でもと思っても、外が気になってどうにも集中できない。宝物の林檎を取り出しては溜め息を吐き、陛下は一体どうなさっているのかと気持ちが波立つ。きっと慈母様のことでお心を痛めているに違いないと、悲しくなる。
「……お母様……」
意図せずぽつり、と溢れたのは母を求める迷い子のような声。
ハンナもいない、たった一人の今が泣きたいほどに急に寂しく心細い。
(いけないわ、私は誇り高きレイゼン公爵家の姫。しっかりしなくては)
弱気を振り払うように頭を振り、林檎をもとの箱に納めた。
「……そうだわ、セリーヌ様はどうなさっているのかしら」
ふと、少し仲が良くなったガルニシア公爵令嬢のことを思い出す。穏やかで賢いセリーヌを、フィリシティアは短い間に慕うようになっていた。庭園で出会った折には、質問に親切にも丁寧に答えてくれた。
「お部屋に伺っても良いかしら……」
それは良い考えに思えた。セリーヌならきっと快く知っていることを教えてくれるに違いない。
「ハンナ、セリーヌ様に……っ」
無意識にハンナを呼んでしまい、はっとして唇を噛む。
それから自分を鼓舞するように、小さな手を握りしめる。
(ハンナなんていなくても平気ですわ。呼び鈴を鳴らして、王宮侍女に指示するだけ、簡単ですもの)
内心で言い聞かせて、緊張しながら再び呼び鈴を鳴らした。
「セリーヌ様はただ今お部屋にいらっしゃいません」
訪問の打診を依頼すると、王宮侍女から残念な答えが返ってきた。
「いつ頃お戻りになられるでしょうか?」
がっかりしつつもそれならお戻りになってからと問う。
「おそらく夜までお戻りにならないかと。薬事院に詰めていらっしゃいますので」
「薬事院……?」
意外な答えに唖然としていると、ではと下がろうとする王宮侍女を慌てて引き止め、とっさに案内を頼んだ。
(どうしましょう……勢いでつい出て来てしまいましたけれど。伺っても大丈夫かしら……)
何の先触れもしない礼儀に反する行動を取ってしまったことを後悔しながら、先導する侍女の後についていつもより人の少ない回廊を進む。
春宮殿を過ぎ、王宮の手前、温室の横にその建物はあった。近付くにつれ、その明け放たれた入り口には慌ただしく人が出入りしているのが見えてきた。体をすっぽり覆う白いワンピースのようなものを着た薬事院の職員達だ。医師の白衣に似ているが、それよりもゆったりとしている。その中に入るのは躊躇われて随分手前で立ち止まっていると、案内してくれた王宮侍女が何やら職員の一人と話して戻って来た。
「セリーヌ様は一階奥の調合室にいらっしゃるそうです」
フィリシティアは頷いたものの、どうしようかと迷っているうちに他に仕事があるのか侍女は一礼して去って行ってしまった。
意を決して少し近付くものの、見知らぬ人々、それも男ばかりの中に足を踏み入れるかと思うと竦んでしまって体が強ばる。
「あれ、フィリシティア姫様じゃありませんか?」
妙にのんびりとした声に名を呼ばれて振り返ると、そこには見覚えのある丸い顔があった。確かセリーヌ様の侍女、とフィリシティアは思い出して救われた気持ちになった。
「ごきげんよう。あなた、確かセリーヌ様の侍女でしたわね?」
「はい! セリーヌ様に朝食を届けに来たところです!」
メイミは元気に答えて、抱えたバスケットを掲げてみせる。
「あの……私、セリーヌ様にお会い出来たらと此処まで参りましたのですけれど……」
「あ、そうだったんですか! あ〜、でも多分今あんまり見せられないお姿なんですよねぇ〜……まぁ、良いか」
おずおずと用件を告げるフィリシティアに、メイミは屈託なく笑顔を見せ、すぐに何か思い悩む顔になってぶつぶつ言い出した。
そんなメイミの表情豊かな様に呆然としていると、不意にメイミに手を取られた。
「今ちょっと中が混み合っているので、はぐれないように手を繋ぎましょう!同じような扉ばっかりだから、意外と迷いやすいんですよー。構造は単純なはずなのにあれあれってなります」
余りにも不躾なその行動に硬直するフィリシティアにおかまい無しで、メイミはずんずんと進む。物怖じしないメイミに引っ張られて薬事院に入ると、すれ違った職員にぎょっとした顔をされて恥ずかしさに俯いた。ドキドキと動悸がして既に逃げ出したい気分だったが、メイミの手を振り払うことは出来なかった。普段ならこんな不躾に手を握られたら、嫌悪も露に振り払うところなのに。セリーヌ様の侍女とはいえ、話したこともない身分も遥かに下の相手にされたというのに。不思議と不快ではなかった。それどころか、離さないで欲しいとさえ少し思っている。こんなにも自分は心細かったのかと、フィリシティアは改めて情けない気持ちになった。
「あ、此処です、此処です。ちょっと待ってて下さいね」
通り過ぎ掛けて一歩引き返したメイミは、扉の上の調合室の札を確かめてフィリシティアの手を離した。
「失礼しまーす、セリーヌ様、朝食ですよ!」
大きな声で声を掛けながらノックに続いて扉を開け、メイミが一人中へ入って行く。
フィリシティアは不安げに入り口から中をそっと覗いた。
奥にメイミと話す人を見て、驚きに目を見開く。その人物は確かにセリーヌだったが、髪を後ろで無造作に一つに束ね、職員と同じ白い上着を着て忙しなく手を動かしている姿は全く公爵令嬢には見えない。しかも、メイミが持って来たバスケットから片手でパンを掴み出し、そのまま食べながら作業をしている。もし、フィリシティアがそんなことをしようものなら、父親のレイゼン公爵は卒倒するだろう。好感を持ち、淡い敬慕の念を抱いていたセリーヌの全く淑女らしからぬ姿に、フィリシティアは目眩を覚えて思わず壁に手をついた。
(そういえば、セリーヌ様は植物に詳しくていらっしゃるのだったわ。けれど、何故あのような下賎の仕事を……)
手を汚すようなことは決してしてはいけない、それらは下賎の民の仕事であると教えられて育って来たフィリシティアである。調合のような汚れがつく仕事もまた、淑女のやることではない。聡明で、淑女らしく穏やかなはずのセリーヌが嬉々としてその仕事に没頭している様に、フィリシティアは大いに困惑した。
そうこうする内に、メイミがこちらを振り返って呼びかけて来た。
「フィリシティア様!こちらへどうぞ!」
そしてメイミの肩越しに、驚いた顔をしているセリーヌと目が合った。
その瞬間、フィリシティアは弾かれたように駆け出していた。
「あ、あれ? 逃げちゃった……」
「私、そんなに酷い格好……?」
声を掛けたら脱兎のごとくフィリシティア姫に逃げられた主従は、唖然として顔を見合わせたのだった。
胸が苦しい。
どくどくと脳裏にこれでもかと鼓動の音が響き、頭がくらくらし、足が痺れたように震える。
大した距離は走っていないのだが、普段走るなどというはしたない事は絶対にしないフィリシティアである。当然ながら、薬事院の外に飛び出していくらも行かないうちに倒れそうになる。走れなくなってふらふらと二三歩歩いたところで、ぺたんと座り込んでしまった。
(私、何をしているのかしら……)
自分でも意味不明な行動を取ってしまってフィリシティアは泣きたくなった。折角セリーヌに会えたのに、何も聞かずに逃げ出して来てしまったし、しかもはしたなくも走って飛び出してきてしまって、今に至っては歩けなくなって座り込んでしまっている。どれもこれも公爵令嬢にはふさわしからぬ行動だ。父に知られればどれほど叱られることか。
溢れそうになる涙をこらえていると、不意に日が陰った。
「どうされました?」
心配そうに問いかけて来た声に顔を上げれば、それはいつも慈母様の傍らにあった尼僧見習いの姿があった。