フェンリール
北の大国フェンリールは酪農の国である。
一番の大河であるコンダタ川の周辺に広がる穀倉地帯は狭くはないが、冷夏に見舞われることも少なく無いフェンリールでは、国の胃袋を支えているのは酪農である。国のやや南に位置するハファロクース王都の背後には夏場は良い牧草が生える高地が広がり、その奥には氷河を擁するキケロ山脈が白い峰々を輝かせている。その中には小規模ながら良質な鉄鉱山と金山があり、他国にも知られた鍛冶の町エバンがある。
一方ハファロクースの南東にはコンダタ川とその穀倉地帯、それに越冬の為の牧舎街が広がる。一年の半分を雪に閉ざされるフェンリールでは、春から夏にかけて山で牧畜を行い、秋の気配が忍び寄る頃には下山して牧舎街で越冬する。家畜の多くはヘマラトと呼ばれる毛足の長い牛で、食用は勿論その毛も夏場に刈られて冬の産業を支えている。牧舎街には多くの織物工場があり、冬の間女達はそこに集まってヘマラトの毛織物を作る。ヘマラトの毛は白く染色にも向いている為、その美しさから世に知られていた。フェンリールの二大輸出品の一つが、このヘマラトの織物である。一方、秋に肥えた牛達を絞め、それを加工するのが秋から冬にかけての男達の主な仕事である。加工品では特にチーズ作りは季節を問わず盛んだ。少し癖のあるヘマラトチーズはワインに良く合うため上流階級向けに輸出もされているが、それほど多くは無い。薫製肉や塩漬け肉同様、庶民の保存食として殆どが国内で消費される。
もう一つの重要な輸出品は馬である。王都の南西には乾いた草原が広がる。アダと呼ばれるこの草原にはアデール人が住む。元々は国を持たぬ遊牧民で、アダもフェンリールの一部ではなかったが、今から三百年程前に併合した。国という枠組みに組み込まれていなかったアダは他国の侵略を受けやすく、また王に相当する族長も明らかに軽んじられてしまう。アデール人はその不利を解消するためにフェンリールの一部になることを了承し、フェンリールはアデール人に今までと変わらない生活を保証する代わりに素晴らしい用心棒を手に入れた。アダの地が征服されれば次は我が身である。フェンリールの民は性情穏やかで争いを好まないために、戦下手であったのだ。対して誇り高い騎馬民族であるアデール人は性別関係無く戦士であり、平時には馬を育てる遊牧民として生き、いざと言う時はその殆どが前線に立つ。二つの民族は、上手く共生することに成功していた。
だが、フェンリールという国には一つ大きな問題点があった。
穀物は冷夏にも強いケラシュという雑穀を主にコンダタ川周辺で作っているが、ケラシュは作付け面積に対する収穫量が麦に比べてかなり劣る。そのため国民を全て養えるほどの収穫は無く、フェンリールは穀物を他国からの輸入に頼っていた。
穀物を輸入に頼る国というのは、実のところ酷く危うい。ひとたび飢饉が起きれば、それは周辺国も変わらないのである。まずは自国民を喰わせねばならないのだから、輸出する余裕が無ければフェンリールは買いたくても買わせてもらえない状況になるのだ。
そこで重要になるのが南にある隣国、ゼッタセルドである。
キア神の守りがあるせいか、この国は殆ど天候による災害が起きない。非常に安定していて、壊滅的な不作の年というのはここ数百年記録に無い。救世の神子の降り立つキア神の聖地という以上に、フェンリールにとってゼッタセルドは大事な取引相手であった。
だから、余り他国との縁組みを好まないゼッタセルド王室と血縁関係を結ぶことにフェンリールは熱心だった。獅子王と友好関係を強化し、王女を正妃として送り込み、順調に跡継ぎである王子が産まれてこの先百年は両国間は安泰だと思われた。
しかし、それは儚い夢と消える。そのまま問題無くフェンリールの王女を母とする王太子が王位を継いでいれば両国にとって一番良かったのだろうが、王太子は不慮の事故で亡くなってしまったからだ。更に追い打ちをかけるように王妃が離宮へと逃げた。完全に権力の中枢から遠ざかって引きこもってしまったのである。その後王が倒れ、後継者争いが激化して国が荒れると輸入量も輸出量も激減し、両国の仲は冷え込んで行ったのである。
だが、キア神への信仰が薄れつつある今、別の意味でフェンリールにとってゼッタセルドは魅力的な国になっていた。内戦で疲弊した堕ちた国。
その国を手に入れれば、フェンリールが抱えてきた長年の悩みが解消するのである。虎視眈々と狙っていても不思議は無かった。
一際豪奢な天幕の中へ、女は躊躇わずに入る。入り口に立つ見張りの兵も女が見せた首飾りを認めると、何も言わずに通した。
「失礼いたします、殿下」
女が声を掛けた先には、杯を傾けながら酒を楽しむ若い男がいる。透けるような白い肌、柔らかく波を打つプラチナブロンド、薄い水色の瞳。それらは北の民の特徴である。整った顔立ちはどこか冷たい印象だが、女を認めると人なつこい笑みを浮かべた。
「おかえり、サファイア。とりあえず、お座り」
女は嬉し気な笑みを浮かべ、足取りも軽く促された椅子に座った。天幕用のものなので、折りたたみ式の簡易のものだが、ヘマラトの織物が掛けられたそれは非常に座り心地が良い。
その女に殿下と呼ばれた男は、自らの手で木の器に酒を注いで手渡す。女は恐縮した素振りも見せず、当たり前のようにそれを受け取った。
「久しぶりの馬乳酒はどうだい、サファイア」
「懐かしいわ。国にいた時には大して好きでもなかったのだけれど」
一口飲んでしみじみとした溜め息を吐き、そう答えた女の顔には何の気負いも無い。“ごく普通の年相応の女性”に見えた。無愛想で冷たい印象の女。そう思われていたことなど、今の女からは想像がつかない。
カトリーヌ・デア・マルゴット。長い間彼女が名乗っていた名だ。本物はとっくの昔に死んでいる。
「ルビーはいつ戻るのかしら」
「二三日後には合流する予定だよ」
ルビーは女の双子の兄で、神官として神殿に潜り込んでいた。連絡は取り合っていたが、長いこと直接は会っていない。早く会いたいと女は呟く。
「それで、だいぶ予定に狂いが出ているようだね」
一息ついたところで、男は話を始めた。すると、女は顔を顰めて忌々し気に溜め息を吐いた。
「そうね、ここであっさり“狼”の計画がバレたのは予想外だったわ。それもこれも、あの忌々しい小娘どものせいだけど。でも、見ようによっては良かったのかもしれないわ。あの能力は使える」
その言葉に男も頷く。
「まぁ……公爵の娘に手出しは難しいだろうが、尼僧見習いならどうにかなるかな」
「そうね。正直国の為にはあの緑の娘の能力の方が有用だけれど、この国が手に入るならそこまで重要じゃないわ。大勢は既に決しているし、ここまでボロボロになった国をあの“張り子の虎”じゃどうにも出来ないのじゃないかしら」
結局計画は完遂出来なかったが、どうせ“狼”は最後には始末する予定だった。内戦で隙だらけになったゼッタセルドには何年も前からフェンリールの人間が何人も入り込んでいる。もっとも、その中でも女とルビーという男は別格だ。潜入期間も十年以上と長い。だからこそ女はゼッタセルドの内情を知り尽くしており、この国がまともに機能するようになるようなことは少なくともあと十年やそこらではあり得ないと確信していた。優秀なこの“第三王子”であれば、掌握は難しいことではない。
「……どうかな」
だが、女の考えを否定するように男はぽつりと呟くように言って、にやりと口の端を上げた。
「どういうこと?」
「今日、その彼から使者が送られて来たよ。副宰相が副使で、正使が緑の娘の兄君だ。どう思う?」
「どう思うもなにも、馬鹿としか」
「そうだね、僕は第三王子とはいえ陛下にこの行軍に関しては全権を委ねられ、国王に等しい権限を持っている。近い内に代替わりを予定している次期宰相という意味の副宰相ならばともかく、六人いる副宰相のうち二人だ。一人は最も格式の高い公爵家の嫡男ではあるが、国王の筆頭侍従が本業。身分はまあ良いとして、僕とまともに交渉するなら地位が足りない。残る一人は六人の中でも一番身分が劣る成り上がり。身分も地位も足りない。正式な国王の印章付きの書状も無し。こんな使者を寄越すなんて、馬鹿されたと僕が怒っても不思議は無いね。しかも実際に来たのは副使だけ」
男は面白そうに笑いながら話すが、最後のところで女があからさまに顔を顰めた。
「……正使が来なかった? どういう……」
「正使は今伯母上のところにいる」
困惑する女に、男はさらりと答えを与えた。女は、はっとしたように目を見開き、すぐに苦虫を噛み潰すような顔をした。
「おそらく、亡き王太子の遺志を最も理解しているのは筆頭侍従だったオーランド・ファレ・ガルニシアであるというお墨付きでも貰って来るのだろう。伯母上はこちらが接触を試みても頑に拒んでいただろう? 敵にはならならないだろうと放置していたのだけれど、失敗だったかもしれない。どうやら、張り子の虎は本当に見せかけだけで、中身まで張り子ではないようだ。使者の二人は優秀だったよ。国王陛下は“正当な王太子”であられた兄君の遺志を継ぐことを決意しており、その為なら喜んで我らを“友軍”として王都に迎え入れるそうだ。ただ、その正当な王太子の母であり、義理とはいえ母として礼を尽くさなければならない“王太后陛下”の御意を確かめるまで、王都に立ち入るのはご遠慮願いたいと言われてはさすがに異を唱えずらい。見事に足止めされてしまったよ」
愉快げな男に対して、女はますます渋い顔になっていく。一筋縄では行かなそうな状況を認識して悔し気に唇を噛んだ後、諦めたように溜め息を吐いた。
「はぁ……私はあまり役に立たなかったみたいね」
気落ちする女に男は笑みを湛えて首を振った。
「そんなことは無いよ。君は良くやった。一段落したら約束を果たそう」
「……本当に?」
信じられないものを見るような顔をする女に、男は苦笑して肩を竦めた。
「本当だよ。嫌かい?」
「いいえ!」
喜色満面で男に抱きつく女には、あの氷のような侍女の面影は全くなかった。