それぞれの戦いへ2
「どういう事なの? 慈母様が毒に倒れられたなんて……」
チェルネイアは困惑していた。いきなりの舞踏会中止にも驚いたが、その理由がアレシアの毒殺未遂であると知ったのには耳を疑った。
そもそもアレシアの暗殺をゼットワース侯爵に唆したのはチェルネイアである。もっとも、その後実母が生きている事を知り、自暴自棄になって唆した計画を浅はかだったと反省した。そして今は時期尚早と暗殺計画の無期延期を追加で伝言したのだが。その伝言をちゃんと伝えたのかと目の前の侍女を訝し気に観察した。しかし、顔色一つ変えず侍女は無表情を貫いたまま淡々と言葉を紡ぐ。
「はい。使われたのは珍しい南方の毒と判明したそうでございます」
「南方の……」
チェルネイアの記憶から、その毒は浮かび上がる。
何年か前のあの日、あの男は酷く上機嫌だった。それはチェルネイアにとって悪い状況だったから、良く覚えている。機嫌が良いとき程、男の陵辱行為は執拗さを増す。余りの責め苦に失神したチェルネイアが再び意識を取り戻したのは、砂糖水の甘さに刺激されたからだった。口移しで与えられたそれは、痛めつけられ疲れ果てた体には余程心地良い刺激だったのだろう。チェルネイアは無意識にそれを喜んで飲み込んだ。程なくして、意識のはっきりしてきたチェルネイアに男は言った。
「気に入ったか」
声を出す気力も無く、無言で睨み返せば男はにやりと嗤った。
「それはな、砂糖に似て非なるものだ。珍しい南方の毒よ」
一拍置いてその言葉を理解したチェルネイアは蒼白になった。胃の腑から酸っぱいものがこみ上げて嘔吐し、寒くもないのに体がガタガタ震えて、自分はもう死ぬのだと思った。そんなチェルネイアを見て、あの男は心底可笑しそうに声を上げて笑った。
「それは一手間掛ければ猛毒になるが、その一手間を掛けなければ砂糖と変わらぬ。折角の駒を殺すわけがないだろう、馬鹿が。最も、使えそうにない駒ならば毒を試すくらいの役には立ってもらうが」
嗜虐に満ちたあの薄ら笑いを浮かべ、男はチェルネイアを見下ろしていた。
あの日からチェルネイアはあの男に対して反抗するのをやめた。剣の稽古では思い切り恨みや憎しみをぶつけて精一杯挑んだし、寝室に連れ込まれれば睨みもした。しかし、嫌だと泣き叫んで暴れたり、男を罵ったりすることはやめたのだ。
それまで己の悲惨な状況に死んでしまいたいと思う事はあっても、殺されると思った事はなかった。しかし、自分が有用な駒でなくなれば、あっさり殺される。その程度の存在でしかないと否応無く理解させられたからだ。そして、その時初めて強く思ったのだ。死にたくないと。
苦々しい過去と共に思い出した南方の毒の存在に、チェルネイアは顔を強ばらせた。
チェルネイアが唆したアレシアの毒殺は、どんなに早くとも舞踏会後になるはずだった。だから最初は別口の可能性も考えていたが、それに使われたのがあの“南方の毒”ならば、あの男の持っていたものが使われた可能性が高い。アレシアの王宮滞在が決まったのはほんの一ヶ月程前である。あの男の上機嫌具合からして、あの毒は相当に珍しいものだったのだろう。こんな短時間に都合良く用意出来るものではない。
あの男は用心深い。本物の“チェルネイア”を知る者をことごとく殺したように。だというのに、チェルネイアが後宮入りした後に唆したアレシア毒殺を、この短期間の内に実行した。特に切羽詰まった状況でもないのにおかしい。
「もしかして……私が後宮入りする前から、計画はあった……?」
「あら、案外馬鹿ではないのね」
呟くチェルネイアに、カトリーヌは小馬鹿にしたようにアイスブルーの瞳を細めた。無口な侍女の突然の無礼な物言いにチェルネイアは絶句した。
「カトリーヌ、あなた……」
「気安く名を呼ばないで頂戴、たかが性奴の分際で」
鋭利に整った顔に嫌悪を露にする侍女に、チェルネイアは腹を立てる前に愕然とした。
吐き捨てるようなその言葉には、人を人とも思わぬ冷酷さが滲み出ていた。自分の本当の出自を知っている事にはさして驚かない。そんなもの、誰もが疑っているし、ゼットワース侯爵の長年の愛人であれば知っていてもおかしくない。ただ、今まで自分を侯爵家の姫として表面上は敬っていた相手が、今ここで豹変した理由が分からない。それが得体の知れない恐怖をチェルネイアに感じさせていた。
「ふふ、私が怖い?」
チェルネイアの強ばった顔に面白そうに侍女は口の端を歪める。それから不意に肩を竦めて気怠げにほつれかけた前髪をピンで留め直した。
「あの男には楽しませてもらったわ。でも、もう全部終わり。ゼットワース侯爵家はもう終わりよ。それどころかこの国も終わるかもしれないわね。フェンリール軍がもうすぐこの王都に押し寄せるもの」
異様な侍女の豹変ぶりに喉が張り付いたようになって沈黙していたが、淡々と告げられた内容にチェルネイアは叫ばずにいられなかった。
「どういうこと!?」
あの蛇のように執念深くしぶとそうな男がそう簡単に失脚するとは思えない。それだけでなく、隣国が攻めて来るとは。それはつまりあの男がフェンリールと通じていたということなのだろうか。
だが、侍女はケタケタと耳障りな笑い声を上げてひらりと踵を返した。テラスへの扉を明け放つと、その向こうの闇に一言残して消えた。
「さようなら、偽物のお姫様」
一人残されたチェルネイアは呆然と立ち尽くしていた。どれほどの時間そうしていたのかは分からない。明け放たれたままのテラスから吹き込んで来た風の思いのほかの冷たさに、はっと我に返った。扉を締めて椅子に崩れ落ちるように座り込むと、乾いた笑い声が唇から漏れた。
「はは……あはは、あの、悪魔のごとき男が失脚……あはは、なんてあっけない」
本来なら嬉しいはずだ。だが実感が無いせいなのか、喜びよりも空虚感に襲われた。それに、失脚したとなれば、その娘ということになっているチェルネイアもまた失脚することになる。いつまでもこの場にいて安全という事は無いだろう。どうせ、チェルネイアが偽物であることも遅かれ早かれ分かってしまうに違いない。
逃げよう。
チェルネイアの心は決まった。フェンリールが攻めてくるというのなら、混乱している今なら、母を助け出すことだって出来るかもしれない。そう思い立ち、換金出来る宝石や貴金属類を纏めようと衣装部屋に向かった。
だが、その作業を進めながらチェルネイアの心には暗雲が広がるのを止められなかった。身分を偽っているのはチェルネイア一人で、母は乳母としての身分は偽っていない。追われるとしても、チェルネイア一人だ。長年幽閉生活を強いられた母の足腰はかなり弱っていると考えた方が良い。そんな母を逃亡劇に付き合わせるのか。母を背負って、女一人でどうやって逃げるというのか。それだけではない。女というだけで犯罪を引き寄せるのに、チェルネイア程の美貌となれば余程運が良く無ければ犯罪に巻き込まれることは必定だ。
今になって思う。チェルネイアはまだ運が良かった方だったのかもしれないと。これがあの男でなく野盗にでも捕まっていたら、もっと悲惨な人生だったろう。母共々慰み者にされ、娼婦に売られてとっくの昔に死んでいたかもしれない。それでも思う。何故、こんな事になったのかと。内戦などなければ、今でも父は生きていたし、親子で幸せに暮らしていたはずだ。
「何故、私が、私たちが逃げなければならないの? 悪いことなど何一つしていないのに……!」
全てを奪ったあの男から自由になりたかった。でも、このまま逃げても遅かれ早かれ別の男にまた支配される運命しか想像出来ない。この国がフェンリールに滅ぼされ、逃げる必要が無くなったとしても、負けた国の女がどうなるかは火を見るより明らかだ。チェルネイアが若く美しい女である限り、付き纏う暗い未来は変わらない。
「死んでしまえば……楽になるわね」
ふっと、口から零れ落ちた言葉は、チェルネイアの心の柔らかい所を突ついた。
「でも、私は生きたい……生きたいのよ。どうしてなの、こんなに辛いのに、何で私は生きたいの」
涙が溢れた。瞳が溶けてしまうと思う程に熱い。こみ上げる嗚咽に喉を震わせ、チェルネイアは崩れ落ちた。
そして涙が止まった時、チェルネイアは一つの決断をした。