二人の副宰相
ハロルド・デア・ドールーズ伯爵の母方の血筋は、裏世界で生きる一族と近かった。幼いころから野心家の片鱗を見せていたハロルドに目を掛けたのは母方の伯父であった。
アラクと呼ばれる闇に生きる一族は、多くが視覚障害者だ。本家に近い血筋であればある程、その度合いは強い。ハロルドの叔父にあたるカシューはその本家の直系でありながら軽度の弱視で、そのため傍系のハバル男爵家に養子に出された。傍系と言っても、表向きにはババル男爵家が本家とする家は存在しない。言うなればハバル男爵家は表世界の窓口であって、本家を表から支える家であった。そのハバル男爵家の娘がハロルドの母である。
「目が見えるアラクは闇で生きられない。何故か分かるか、ハロルド?」
カシューは持って生まれた運命を恨んではいなかったが、闇に生きる一族の中心にいる本家には強い憧憬を抱いていた。それゆえ、人一倍ハバル男爵家の発展に対して貪欲に突き進んだ。
「目が見える者は目で闇を見ようとするから、ですか?」
「その通りだ。賢い子だな、ハロルド」
血が繋がらない妹をナバーラ子爵家に嫁がせたのは、カシューの手腕によるところが大きい。ナバーラ子爵家は貿易で財を成したドールーズ伯爵家の分家で、当時ドールーズ一族はかなりの権勢を誇っていた。
ハロルドは、子供と侮らず政治の裏の部分まで包み隠さず教えてくれるこの伯父を慕っていた。
「アラクは視力を贄に捧げ、異能を得た一族だ。目で見るよりも多くの情報を瞬時に知る事が出来る。影から影へ渡り、気の流れを読み、そして操る。どのような敵の懐にも潜り込み、情報をかすめ取る。歴史の影には必ずアラクがいるのだ。情報こそが宝であり、政治であろうと戦であろうとこれを押さえねば勝利は難しい」
「では、獅子王陛下の影にもアラクはいるのですか? ユトを打ち破ったあの赤岩谷の戦いの時も?」
「それは私の口から確とは言えぬな」
好奇心のままに問いかければ、伯父は苦笑して言った。おそらく答えは是なのだろうとハロルドは子供心に胸を躍らせる。十を数えたばかりの少年らしく英雄である獅子王に憧れる甥が目を輝かせるのを見て、カシューは相好を崩した。
「ハロルド、お前はアラクの情報を使いこなせる者になれ。そして時代を動かす者になれ」
「時代を、動かすもの、ですか?」
「然り。しかし、自分が表舞台に立とうなどとは努努思わぬ事だ。アラクは影にあってこそ。アラクを隠す強い光を探せ」
「強い光?」
「そうだ。獅子王陛下のようにこの国を照らす光を」
力強く語る伯父に、少年は理解する前に頷いていた。
ハロルドは不意に蘇った伯父との思い出に、そういえば自分は伯父の教えに導かれて此処まで来たのだと久しぶりに思い出した。
「確かにこの国には強い光が必要ですな」
少年の頃は漠然としか理解していなかった事を、ハロルドは今初めて真に理解した気がした。無意識に呟きが漏れたが、それをすぐ後ろのオーランドが聞きとがめる事はなかった。
二人は神殿裏にある王家の霊廟の敷地内にいた。塀の一部、蔦に隠れるようにして抜け道の入り口があった。この抜け道を行った先にある扉は、神殿深部の小部屋に通じている。
「オーランド殿、実は私には子飼の密偵がおりましてな。これがなかなかに優秀でして」
「突然何を? 今はそのような話をしているときでは無いでしょう! 早く神官長様をお助けせねば!」
抜け道の入り口で立ち止まって話始めたハロルドにオーランドは苛立つが、ハロルドは意に介さず相手に向き直った。
「お聞き下さい。今、私たち二人そろって神殿に向かうよりもどちらか一人が陛下に右軍の事を知らせた方が良い。今外で右軍が神殿を破ろうとしているのをあなたもご覧になりましたな。この後何が起こると思います?」
まるでこの後何かが起こると知っているかのような口ぶりにオーランドは顔色を変えて一歩下がり、剣を抜いた。その切っ先をハロルドに向ける。
「……貴様、何を知っている」
ハロルドは軽く頭を振って答えた。
「落ち着いて下さい。少し考えれば分かる事です。良いですか、民の不満は今や爆発寸前だ。それを抑えているのはシーラ教です。そのシーラ教に矛先を向ければどうなるか」
「まさか……暴動が?」
「ええ、暴動を煽る者がいるでしょう。おそらくサイゲル卿の手の者かと。そして先程密偵が伝えてくれた最新の情報があります。フェンリール軍約三万が王都に向けて進行中です」
「そんな馬鹿な!」
驚愕するオーランドに、ハロルドは皮肉な笑みを浮かべた。
「本当です。今頃宮殿では慈母様暗殺の黒幕はレイゼン公爵ということになっているでしょうな。そしてその片棒を担いだのが神官長様ということでしょう。それを何故かこのような異様な早さでガルニシア公爵派のトーレ侯爵が聞きつけ、右軍を率いて神殿に突っ込み、サイゲル卿が煽って暴動が起き、そこにフェンリール軍。完全に詰んだ状態ですな。モリーツ殿の証言を貴殿は最初にお聞きになったでしょう? これは起きるべくして起こったのですよ。どうやら黒幕はこの国を一気に潰す計画だったようです。全くしてやられました。全てが繋がっていたとは」
個々の情報はそれなりに集まっていた。実はハロルドは複数のアラクを使って春宮殿を独自に見張らせていた。何度かの毒殺はアラクが未然に防いでいる。だからこそ、暗殺の標的がアレシアに絞られている事を承知していたのだ。その過程で、キヨがハンナから毒を回収していた事も知っていたし、チェルネイア姫の侍女、カトリーヌ・デア・マルゴットが相当曲者であることも報告を受けていた。レイゼン公爵の考えている事は分かる。王に影響力のある王母が邪魔だから排除するという単純なものだ。だが、ゼットワース侯爵の思惑が今ひとつ腑に落ちなかったのだ。ゼットワース侯爵がアレシア殺害で得るものは何か。現実的ではないが、侯爵が王位を簒奪するのが目的ならエルドシールを暗殺するはずだ。モリーツが報告したトーレ侯爵の腹心とゼットワース侯爵派との接触もどう繋がるのか頭を悩ませた。一方でサイゲル卿が手下を使って民の不満を煽っていたのは前々からの事だ。小心者のサイゲル卿が珍しく自身が動いてゼットワース侯爵派と接触を持ったこともモリーツが報告しており、前王妃の住む離宮には、ここ一月程見慣れぬ商人が出入りしている。そして密偵のミゲルによれば、その商人の気配は軍人としか思えないという。何かあると睨んでフェンリール国内と国境付近を探らせれば、三万の軍勢が王都に向けて進軍中との報。
そこまできて、漸くハロルドは理解した。政治の世界の存在ではないが、王の最大の後ろ盾の存在をすっかり見落としていたのだ。最大の標的は神官長であったのだ。直接王宮に手蔓が無い神官長単独というのは考えられないから、その共犯には宰相として権力を握るレイゼン公爵が妥当だろう。そして中下級貴族に影響力のあるガルニシア公爵にトーレ侯爵の暴走で影を落とす。暴動が起きている王都にフェンリール軍が鎮圧を名目に侵入。おそらくゼットワース侯爵とフェンリールには何らかの密約があると思われる。そして丸裸にされた王は、フェンリールに膝を屈するしかなくなるのだ。何らかの茶番を行ってゼットワース侯爵がフェンリールとの間を取り持ち、名目上は同盟国として、実質は属国としてフェンリールに下る事になる。結果一人勝ちのゼットワース侯爵の娘、チェルネイアを正妃にし、次代の王の外戚となる。神官長を陥れるには何らかの信憑性のあるものをねつ造せねばならない。となれば協力者はおそらくシーラ教の中枢部にいる上級神官の一人だ。その協力者を次期神官長に据えてシーラ教までも取り込めば完璧である。その策が全て計画通りに進めばなるほど、良く出来た謀略だ。
だが、そうはならない。決して。
ハロルドが強い光に成り得ると選んだエルドシールは、噂されるような張り子の虎ではない。それに、側にはあの神子がおられる。混迷に喘ぐこの国を、必ずやエルドシールはその光で導いてくれる。そうハロルドは信じた。
目まぐるしく考えを巡らせながら、オーランドはゆっくりと剣先を下げた。 オーランドにとって同じ副宰相でもあるドールーズは警戒すべき人物だった。レイゼン公爵派だと言う事もあったが、黒い噂も絶えない人物だったからだ。だが、その話の内容には説得力があった。確かにここで二人とも神官長救出に向かうよりは、二手に別れた方が良い。毒殺騒ぎのため王宮は封鎖状態にあり、右軍の神殿襲撃の報が王に届くにはまだ時間が掛かるだろう。何よりフェンリール軍のことは早急に対処せねばならない。
「分かりました……ドールーズ伯爵、神官長様の救出は貴方にお願いします。私は急ぎ王宮に戻り、王にお伝えします。フェンリール軍のことは、間違いなく真実なのですね?」
「よしんば誤報だったとて、伝えずに真実だった時の事を考えれば何程のことでしょう。泥を被る覚悟はおありに成りませぬか」
「っ、無論のこと! では失礼する」
ハロルドの揶揄にかっと顔を赤くして憤りながら、すぐに剣を鞘に戻して元来た道をオーランドは走り出した。
そして王宮に戻る途中、暴徒と化した民が神殿を攻撃する右軍に向かって行くのを見た。