波乱2
アレシアの世話が一番の仕事ではあったが、女官長次官であるベルタの仕事は多岐に渡る。元は春宮殿にはエルドシールのみが住んでいたので、その管理も殆どは王宮侍従が取り仕切っていた。しかし、アレシアが来てからは、それまで無かったこまごまとした仕事も増え、それらはベルタとベルタが信頼する二人の侍女で分担し、直接のアレシアの世話は殆どキヨに任せていた。しかし、昨夜思わぬ事態が起きる。キヨが急な病で倒れたのだ。もっともキヨの急病は仮病で、王の命でとある怪我人を密かに匿い、医者と世話をする看護の為の侍女を出入りさせる為のものだとはキヨから知らされていた。誰を匿っているのかは知らされなかったが、今朝エルドシールから直接アレシアを頼むとの言葉があり、決して信用出来ない者をアレシアに近付けるなと再三念押しされたとキヨから聞いていたのもあり、ベルタは朝からぴったりとアレシアに付いていた。
キヨはアレシアの毒味を一手に引き受けていたので、食事の時だけキヨが配膳室に呼ばれ、毒味後のものをベルタの信頼する侍女の一人が部屋まで運び、更にそこでもベルタの毒味を経てようやくアレシアの口に入る、というものだった。予定通りの段取りで夕食を取り、食後のお茶をアレシアが飲んだときに事件は起った。勿論、アレシアが口を付ける前に同じポットのお茶をベルタが飲み、更にカップに直接毒が塗られていることまで警戒すると同時に温めるという目的でも湯を注ぎ、その湯の味見をした上で捨ててお茶を注いでいる。
それにも関わらず、アレシアは半分程飲み干した頃、突然真っ青な顔をして倒れた。ベルタは悲鳴を上げて扉の外に控えていた侍従に、医者をと叫んだ。悲鳴を聞きつけて駆けつけた護衛兵にも指示を出して春宮殿一帯を封鎖し、水を大量に運んで来させる。
ベルタは倒れたアレシアを抱え起こして必死で水を飲ませようとした。一体何が起ったのか、ベルタには全く分からなかった。ただ、分かっているのは腕の中のアレシアの命が、消えそうだという事だ。真っ青な顔にはびっしりと汗が浮かび、手足が痙攣して唇が紫色に変色していた。
「アレシア様! しっかりなさって下さい!」
必死で水を飲ませようとするが、口の端から溢れてしまってどうにもならない。泣きながらベルタはアレシアの血の気の失われた頬を叩き、意を決して口移しで水を飲ませる。するとどうにか喉が動いて水を飲んだ。ベルタは必死でそれをくり返し、五回程飲ませると口の中に指を突っ込んで胃の中の物を吐かせた。周り中に吐瀉物の臭いが立ちこめ、ベルタのドレスも床も汚物に塗れたが、そんなことを気にしている余裕は無い。再び必死で水を飲ませる作業に戻り、また吐かせるが、どんどんアレシアの呼吸はか細くなるばかりだ。最悪の事態に折れそうになる心を奮い立たせ、必死でその作業を続けていると、騒ぎを聞きつけたキヨと手伝いに来ていたメイミが駆けつけた。
「一体どうしたんです!?」
「多分毒よ! この症状はそうとしか考えられない!」
倒れたアレシアと吐瀉物に塗れた惨状に悲鳴を上げるキヨに、ベルタは鋭く言い放った。
「まさか……っ!」
自分が確認した時は、毒の気配などみじんも感じなかったとキヨは狼狽え、アレシアの足下に転がったカップを咄嗟に拾い上げた。そしてその途端顔色を変えた。
「なんで!? 私が確認した時は大丈夫だったのにっ!」
熱くなった額は、そのカップに毒の痕跡がある事を知らせていた。
「毒の種類は!?」
駆け寄るメイミが食らい付くようにキヨに聞くが、キヨは頭を振るばかりだ。
「私は毒かどうかが分かるだけで、種類は分からないっ」
「かしてっ!」
メイミはキヨの手からカップをひったくると匂いを嗅いだ。花茶の匂いしかしないが、何かあるはずと必死で鼻を利かせる。
そこへ医者が漸く到着した。ベルタに水を飲ませて吐かせる作業を続けさせながら、初老の医師は脈を診たり瞳孔を覗いたりして状態を把握する。
「毒は何に盛られていました!?」
「お茶です! 中味は溢れて無いけど、これがそのカップ!」
キヨはメイミの手からカップをひったくって取り返し、医師に渡したが、医師もメイミと同じく毒の特定が出来ないらしく難しい顔で鼻をカップにくっつけていた。
「ポットにはもう無いのか!?」
医師の言葉にはっとしてキヨはカートの上のポットに飛びついた。しかし、額に熱は感じない。
「違う……違う! これは毒じゃない! 毒はお茶じゃない! じゃあ何なのっ!?」
パニック気味にキヨが叫んだとき、エルドシールとセリーヌが現れた。二人も惨状に血相を変えてアレシアに駆け寄る。
そして動揺しているキヨの肩を掴み、エルドシールは怒鳴った。
「キヨ! 落ち着け、お前が取り乱してどうする! 良いか、良く思い出せ、何を毒味したか」
「勿論全部よっ! 食事からなにから全部! 勿論花茶も調べたし、食器類も全部調べたわ!」
「それで、今毒を感じるところはあるか?」
「カップよ! 花茶が入っていたカップ! でもポットの花茶には毒が入ってない! カップにも毒は塗られてなかった!」
「砂糖は?」
「砂糖も確かめたわっ!」
半泣きになりながら叫ぶキヨの言葉に、それまで黙っていたセリーヌが動いた。
「砂糖……! ちょっと失礼!」
セリーヌはテーブルの上の砂糖壺を取り上げると、指を突っ込んで砂糖を舐めた。
「これです! これですわっ! 犯人は“甘美な誘惑”です!」
「なんだとっ!?」
医師が顔色を変えて立ち上がり、セリーヌに詰め寄る。
「間違いありません。僅かにですけど柑橘系の香りと、舌に残る苦みがあります!」
「確かに……!」
砂糖を舐めてみて重々しく頷く医師は、そして絶望的な顔をしてエルドシールを見た。
「陛下、毒の種類は分かりました。キネレイ草の根から抽出される砂糖に似た物質ですが、熱が加わると猛毒に変質するのです。そしてその解毒には、やはりキネレイ草が必要になります。しかし……」
「そのキネレイ草が、無いのだな?」
医師の表情にエルドシールが畳み掛けるように強張った顔で確認する。医師は苦い顔をして頷いた。
「母上は……あとどれくらいもつ?」
「一晩、もつかどうか……」
「一晩!? ねぇっ、どうにかしてそのキネレイ、手に入らないの!?」
激しい勢いでキヨは医師に喰ってかかったが、医師は難しい顔をして頭を振るばかりだ。
「キネレイ草と言うのは、南部でも特に熱い地域にしか自生していない、幻の草なんです。毒や薬に関するもので南部の植物はキシェラ男爵家の温室にもありますが、キネレイは稀少過ぎて……」
セリーヌも苦し気な顔をして頭を振った。ベルタは必死で未だにアレシアに水を飲ませて吐かせることを繰り返していたが、セリーヌの言葉を聞いて嗚咽し始めた。重苦しい雰囲気の中、エルドシールは汚物に塗れた母アレシアを抱き上げる。険しい顔をして、ベッドへと母を運ぶその姿に、重い沈黙が部屋を支配した。
「あぁあああっっ! あります! ありますよキネレイ!!」
不意に、その沈黙を破った者があった。メイミだ。
「セリーヌ様! 王宮の温室には珍しい植物がいっぱいって話したじゃないですか! 私探検した時に見付けたんです! 持って帰ったら大ババ様も喜ぶからこっそり引っこ抜こうと思ってて、すっかり忘れてましたっ!!」
興奮して叫ぶメイミに一同の視線が一気に集中する。
「どこなのそれはっ!?」
「案内しますっ!」
メイミは転がる様にして部屋を飛び出し、その後をキヨとセリーヌが追った。