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嵐の始まり5

 その部屋に入った途端、鼻を突いたのは消毒液と薬草の青く苦い臭いだった。ベッドと文机、衣装箱とソファがあるだけの侍女用のこざっぱりしたこざっぱりした、チェルネイアのものからすれば随分と小さな部屋は、入ればすぐに全部が見渡せた。ベッドの横に置かれたサイドテーブルの小さなランプの灯りだけでも、暗闇に慣れた目には十分だった。

 ベッドには、見知った顔の男が寝ている。その男はチェルネイアと目が合うと、呻きながら起き上がろうとし、尼僧がその傍らに駆け寄った。

「いけません。折角縫った傷が開いてしまいます」

「っ、有り難うございます、尼僧殿。何とお礼を申し上げて良いか……」

 尼僧は苦しそうに呻く男を再びうつ伏せに寝かせ、男の体に掛けてあった薄掛けを剥いだ。

「そう思われるのでしたら、絶対安静にお願いします。あなたが元気にならないことには私はベッドで眠れないのですから」

 男の背中には、痛々しい程に白い包帯が一面に巻かれていた。僅かに赤いシミが浮き出ているのが、遠目にも分かった。それを確認して僅かに尼僧の声が固くなる。チェルネイアは傷の事は知らされていなかったので、状況が飲み込めずに戸口に立ちすくんでいた。その間にも、男と尼僧の会話は続く。

「申し訳ありませんがお二人きりにすることは出来ません。この度の事は私の独断ですから、私には見届ける責任があります。あなたが約束して下さった事が守られるなら、他言は一切しません。承諾頂けますか?」

「……あなたを信じます、尼僧殿」

「では、チェルネイア姫」

 振り向いた尼僧に名を呼ばれ、はっとしてチェルネイアは顔をそちらに向ける。尼僧はすっと後ろに下がって、ベッドとは反対側に配置されているソファへと腰を下ろした。

 何となく、躊躇いながらもチェルネイアは足を踏み出し、ベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろした。間近で見ると、相当背中に大きな傷を負った事が分かる。滲んでいる血の形からすると、右肩から左脇に掛けてざっくりと斬られたらしい。実際の刀傷を負った事のないチェルネイアは、その現実の傷を目の前にして手が震えた。



「ごめん、チェルー。こんな夜中に呼び出して」

 モリーツの顔はランプの暖かな色に照らされているのに酷く青白く、それでも笑みさえ浮かべるその唇は色を失っていた。

「……どういう、こと? 背中に怪我をしたの?」

「うん、ヘマやっちゃって」

「相変わらずノロマね。それより、用はなんなの?」

 こんな時にまでへらへらしているモリーツに、チェルネイアは酷く苛立った。何故、こんな時まで人の機嫌をうかがうような笑みを浮かべるのか、全く理解出来なかった。

しかし、そのモリーツが、不意に真剣な目をして言った。

「チェルー、君の乳母は、生きている」

 突然の言葉に、チェルネイアは何を言われたのか理解するのに時間がかかった。そんなはずは無い。長い時間かけて確かめた、手紙のやりとりでの真実が間違っているはずが無かった。しかし、あの言葉は確かに“乳母”と自分しか今は知る者がいないはずの言葉だった。

 言葉の出ないチェルネイアの手を、モリーツは傷の痛みをこらえて腕を伸ばしてぎゅっと握った。

「本当だよ、僕は実際に逢って来た。『私の愛しい飴玉』、あの言葉は、君の乳母から聞いた言葉だよ。きっと君なら分かると思った。途中で色々あって、斬られちゃって、遅くなっちゃったけど」

 すまなそうに苦笑するモリーツの言葉に、まさか、と思いながらも溢れ出す感情が止まらなかった。

 本当に、本当に母はまだ生きているのだろうか?

 モリーツの言う通り、まだ母はこの世に生きて、私のことをあの懐かしい呼び方で語っているのだろうか?

 そう思うと、涙が溢れた。

 同時に、先日モリーツとつかの間交わした会話を思い出した。

「……まさか、あの時の私の言葉を聞いて、そんな無茶をしたっていうの? あなた、馬鹿じゃないの?」

「そうかな?」

「そうよ」

 単純に、悔しかった。自分がずっと苦しみ思い悩んでいた事を、たった数日で解決されてしまった事に、理不尽な憤りを感じて。しかも、それを自分が見下していたモリーツが成し遂げた事が、悔しかった。しかし、それを遥かに上回る喜びに、涙が止まらなかった。

 そんなチェルネイアにモリーツは静かな眼差しを向け、ゆっくりと口を開いた。

「でも、あのままだったらチェルーは、きっと取り返しのつかない事をしていたでしょう?」

「っ、何の事?」

 自暴自棄になって頭を占めていた計画を見透かすようなモリーツの発言に、チェルネイアは急に現実に引き戻されて涙を拭って相手を睨んだ。

「やっぱり図星だった」

「だから、何の事よっ」

 苛立つチェルネイアとは対照的に、モリーツは嬉しそうな顔をする。

「昔から図星を指されて誤摩化そうとすると、君は右の眉がピクピクするんだ」

「し、知らないわよ、そんなことっ」

 初めて知った自分の癖に狼狽えるチェルネイアに、またモリーツが嬉しそうな顔をする。そして再び真剣な顔になって、チェルネイアの手を握る手に力を込めた。

「チェルー。どうか早まった事をしないで。詳しい事は、まだ話せないけど。でも、本当に君の乳母は生きているから」

 もう一度真剣に告げられた言葉に、チェルネイアは信じたい、信じさせて欲しいと切実に思った。もう少し、もう少し母が生きているという実感が欲しかった。

「……乳母やは、他に何か言っていて?」

「泣き虫の飴玉を心配していたよ。飴玉が溶けてやしないかって。琥珀色した、透明な上等の飴玉みたな瞳……。本当だね、チェルーの瞳はそんな色だ」

 チェルネイアの脳裏に、懐かしい母の姿が浮かんだ。チェルネイアの瞳の色は、内戦でチェルネイアが生まれる前に死んだ父親譲りだった。

『そんなに泣いたら、私の大好きな飴玉が溶けて無くなってしまうわ。だからどうか泣き止んで』

 泣き虫だった幼い自分を、そう言っていつも優しく抱きしめてくれた。父譲りの瞳の色をいつも褒めてくれた、優しい笑顔が今でも鮮やかに蘇る。

 止まりかけたはずの涙が、再び滝のように溢れ出た。

「うぅ……、あんた、馬鹿よ。本当に、馬鹿。私、感謝なんかしないからっ」

 泣きながらこんな台詞、全く負け犬の遠吠えみたいで様にならないと思った。しかし、今まで必死で意地を張って生きて来たチェルネイアは、モリーツに弱さと涙を見られたことが恥ずかしくて悔しくて、本当は感謝したいのに出て来たのはそんな言葉だった。そんな心情を、またも見透かすようなモリーツの微笑みが憎らしい。

「うん、感謝なんかしなくていいよ」

「感謝はしないけど、借りを作るのは嫌いなの。私が正妃になったら、陛下に言ってご褒美をあげるわ」

「そんなこと、良いよ」

「私が嫌、なのっ」

「でも、僕は受け取れないよ。だって、僕はチェルーに借りを返しただけだもの」

 思いがけないモリーツの言葉に、チェルネイアは何の事だと顔を顰めた。

「……何よ、それ」

「チェルーが正妃様になったら、きっともうこんな風に親しく口を聞く事も出来なくなるね。これが、最後かもしれない。だから、良いかな」

「何が良いかな、なのよ」

 相変わらず自分だけは全て分かっていると言うような、いけすかない微笑みを浮かべて訳の分からない事を言うモリーツを、チェルネイアは睨みつけた。

 するとそれすらも予想済みだと言うように、モリーツは一層柔らかな笑みを浮かべた。

「チェルーは、僕の初恋だよ。ずっと好きだった。孤独な美しい僕の従姉妹。強がりで、でも本当は泣き虫な僕の従姉妹。僕は武人としては全く才能が無いゼットワース家の恥さらしだったけど、そんな僕が腐らずに文の分野で頑張って来れたのは君がいたから。君に相応しい男になりたい、いつか君を父上から解放してあげたいって、ずっと思ってた」

 微動だにせず、能面のような顔をして無反応な様子のチェルネイアに、モリーツは苦笑してそっと握ったチェルネイアの手を離した。

「傲慢も良いところだよね。こんなみそっかすの僕が、君に相応しい男になろうだなんて、君を救おうだなんて。でも、こうして、陛下付きの侍従になれたのも、自分に自信が持てるようになったのも、全部、元を辿れば君のお陰なんだ。だから、僕は借りを返しただけ。チェルーは僕の事なんか気にせず、幸せになって」

 黙って告白を聞いていたチェルネイアの瞳から、再び涙が溢れ出した。

「何よ。何なのよ、訳が分からないわ。あなた、何でそんなに馬鹿なの? そんな事、私知らない。知らない……っ! 勝手な事言わないでよ、そんな事の為にこんな傷まで負って、本当、あなたって救いようの無い馬鹿っ。馬鹿過ぎて、泣いちゃうじゃないっ」

 チェルネイアは両手で顔を覆って泣き始めた。捩じれた心が、軋みながらも戻ろうとしている。母以外には、この世に信じられる者など居ないと思っていた。母の愛以外に美しいものなど、無いと思っていた。世の中の人間は、自分を利用出来る駒か欲望のはけ口としてしか見ていないと思っていた。

「そんなに馬鹿馬鹿言わないでよ。さすがにちょっとへこむ」

 そんな事を言う相手に、チェルネイアはまだ素直にはなれずに悔し紛れに思わず相手の腕を叩いてしまった。



 後宮の地下の秘密の出入り口まで、尼僧はチェルネイアを送ってくれた。

「……あの、私をモリーツに会わせてくれて感謝しますわ」

 少し迷ったものの、モリーツに会えたのはこの尼僧の理解と協力なしには実現しなかったので最後にそう告げた。何故、慈母様に忠実だと思われるこの尼僧がこのような事をしたのかは不明だったが、なんとなくモリーツに肩入れしたんだろうと思った。

「いいえ。正直申し上げて、私はあなた様に良い印象を持っていませんでした。ですが、今は少し好きになりました」

「あなた……尼僧にしては随分な物言いね」

 地味というか、ともすれば貧相な容貌の尼僧は驚く程あけすけな物言いをして、笑った。

「恐れ入ります。では……」

 澄まして会釈した尼僧が再び秘密の抜け道の闇へと体を滑り込ませると、瞬時にそこは元通りの石の壁になった。時間にすれば二刻に満たない程のものだったが、まるで丸一日寝ずに動き回ったかのような疲労を感じた。

 チェルネイアは静かに歩き始める。

 まずは顔を冷やして瞼が腫れるのを防がなければ。そして、朝一番でカトリーヌに計画の中止を伝える。

 そう言えば、あの尼僧の名前は何だったかしら。機会があれば、また話してみたいわ。

 そんな事を思いながら自室へ戻るチェルネイアの脳裏の片隅には、ずっと優し気なモリーツの微笑みがあった。


いつも読んで下さって、有り難うございます。

嵐の始まりはこれにて終了です。

月曜から仕事が忙しくなるので、また更新がゆっくりになってしまいます、ごめんなさい。

次の更新は金曜日を予定しています。

今後もよろしくお願いします。


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