召還〜神子の降臨〜
ドラゴニア大陸には三大宗教が存在する。大陸の元となったという始祖竜を祀るガロ教、水の女神を信仰するリルル教、そして最大のものが創造神キアを仰ぐシーラ教である。
シーラとは古い言葉で全ての根源を意味する言葉で、ゼッタセルドはこのシーラ教を国教に定めていた。それというのもキア神の聖地がここにあったからだ。王都にある主神殿はこの聖地の上に立っている。
主神殿の地下にある泉はキア神の涙といわれ、代々の神子はここから現れた。
記録に残っている神子は四人。初代の神子は額に涙型の宝玉を抱き、世界を干上がらせた大旱魃から人々を救った。水の女神はこの初代神子の別称である。
二人目の神子は詳細は伝わっていないが、暗黒に包まれた世界に太陽を呼び戻したと言われている。
三人目の神子ハーナは大きな癒しの力で猛威を振るった恐ろしい疫病を退けた。
これらの逸話によってゼッタセルドはある種特別な国と認識されてきた。だからこそ暢気に十年以上内戦をやっていたとも言えるし、内戦中でも神殿内は平穏が辛うじて保たれていたのである。唯一警戒されているフェンリールも、内政に干渉されてサイゲル卿を王にでもされては困る、という利権を守りたい奸臣の警戒に過ぎない。
そして今宵、五人目の神子が召還されようとしていた。
普段は堅く閉ざされている泉への扉が開かれ、神官長グラスロー、国王エルドシールに続いて十人の選ばれた上級神官が地下への階段を下りて行く。響く足音と俄に沸いて来た緊張とにエルドシールは無意識に息を詰めた。
神秘の泉は三年に一度の大祭の時にしか神官長でも訪れることを許されない。当然エルドシールも存在は知っていても実際に目にするのは初めてである。
階段を下りきると、そこに広がった光景に思わず小さく感嘆の声を上げた。真っ暗な筈の洞窟には僅かに緑色を帯びた無数の光が瞬き、さながら夜空に瞬く星のようだった。白い石灰に縁取られた泉は柔らかに青白い輝きを放ち、これがキア神の涙かと幻想的な美しさに畏怖の念を覚える。
半信半疑だった神子召還が、己の中で現実味を帯びてくるのを感じる。そしてそこに現れるであろう神子に対する期待もじわりと増してゆく。
エルドシールが見守る中、詠唱が始まった。高く低く、幾重にも唱う声が洞窟に反響し、不思議な高揚感がその場を支配してゆく。祈りの最後の一節がまるで百人の祈りの様に共鳴した瞬間、強い光が泉から放たれた。
エルドシールが眩しさに思わず閉じた目を再び開くと、まず泉の中央に浮かぶ黒いものが目に入った。それが神子の頭だと気付くと同時に、その瞳が真っ直ぐ己を見ている事に気付いた。髪と同じく黒い瞳は泉の光を反射してきらきらと輝き、首から上だけを泉から出したまま、ゆっくりとその唇を開いた。
「私、裸なのよ。あなたのマントで良いから泉のほとりに置いて」
響いた声の内容が咄嗟に理解出来ず、エルドシールは目を丸くする。
「意味分からない?おかしいわね、言葉は通じてるはずなんだけど……」
「いや、分かる」
顔を顰めてどうしようかと悩む顔をする神子に慌ててエルドシールはマントを外し、先程までの自分の様に固まっている神官達の横をすり抜けて岸辺にマントを置いた。
「良かったわ。置いたら後ろ向いていて。そっちの人達も」
言われるまでもなくすぐさまエルドシールは後ろを向き、神官達も動揺を隠せない様子でわらわらと後ろを向く。
背後で水をかき分ける音が響き、ざばりと岸辺に上がる音と衣擦れの音がそれに続く。その場にいた全員が全身を耳にでもしたようにその音に集中し、振り向く事を許される時を待った。
「良いわよ」
その言葉にいち早く反応したのは神官長だった。振り向くなり跪いて深々と頭を垂れる。そして重々しい口調で口上を述べ始めた。
「神子様、ご降臨感謝致しまする。私は神官長を務めるグラスローでございます」
神官長に続いて次々と神官達が膝を折るのを尻目に、エルドシールは目の前の神子をじっと見つめていた。
肩に掛かるくらいの不揃いな真っ直ぐな黒髪、群青のマントを纏った素肌は浅黒く、晒された膝から下の脚は細いが儚さは感じられない。華奢というよりも少年の様な瑞々しい筋肉を感じさせ、特筆すべき美しさは無いものの印象的な意志の強そうな眼差しが余計に中性的な雰囲気を助長していた。
しかしエルドシールの目を釘付けにしたのは、露になった額にある宝玉である。濡れて張り付いていた髪のせいで先程は気付かなかった。神官達もしっかりその姿を見る前に平伏してしまったのでまだ気付いていないが、初代神子のみが頂いていたという涙型の宝玉が確かにその額に光り輝いていた。
「神官長、グラスローね。ところで私が跪くべき相手はこの世界に存在するのかしら?」
「恐れ多くもキア神の愛し子、神子様より尊き者はありませぬ」
「それは良かったわ。それでこの国では目上の人間に許可なく話しかける事を許されているのかしら?」
「……っ! 申し訳、ございません」
まさかの皮肉に神官長は額を床に擦り付けんばかりに平伏した。
「理解が早いわねグラスロー。年の功で許してあげるわ。皆、顔をお上げなさい」
恐縮しながらもゆっくりと神官長はじめ上級神官達の顔が上がり、そしてその瞳が驚愕に見開かれ、口からは感嘆の溜め息がこぼれる。彼らの視線は神子の額に輝く宝玉に集中していた。
それに気付いた神子があぁ、と頷いて額の宝玉に触れた。
「私を神子と証明するのはこの祝福の石だけよ」
その言葉の意味を量りかねた一同に戸惑った空気が流れる。その様子に神子はにこりと微笑んだ。
「つまり私には歴代の神子の様な力は一切無いの。普通の人間と同じよ。何故なら私はあなた方を助けるために来たわけではないからよ」