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つかの間の平和10

 その日、フィリシティアはまだ日が昇るか昇らないかという早朝に目が覚めてしまった。昨夜は昨夜で、なかなか寝付けなかった為に、完全な寝不足である。このような状態で陛下の前に出る等、考えられないとフィリシティアは焦ったが、焦ったところで余計に目が冴えてしまっただけだった。結局もう一度眠る事は叶わず、ベッドの中で己の情けなさに涙を滲ませた。それでもフィリシティアはハンナがやってくる前には、すっかり涙を引っ込めて何事も無かったかの様に振る舞った。

 フィリシティアは、ハンナと二人の王宮侍女によって整えられて行く自分の支度を、じっと鏡の中に見詰めた。ハンナはもっと浮かれていると思った主人の静かな様子に、心配げに何度も鏡の中の美しい顔を盗み見た。


「姫様、陛下がどちらへ姫様をお連れして下さるのか、楽しみでございますね」


 ハンナは主人の気持ちを引き上げる様に、明るい声で言った。


「……ねぇ、ハンナ。私、変ではない? 何時もと同じかしら?」


「え? はい、姫様は何時もとお変わりなく、お美しくていらっしゃいますよ」


 不安げな主人の声にハンナは慌てて力強く頷き、励ます様に微笑んだ。無表情だったフィリシティアはそれでようやく表情を和らげ、上向いた機嫌に少しばかり弾んだ声でハンナに、今日初めての指示を出した。


「そう。それなら良いわ。ハンナ、確か紅珊瑚の髪飾りがあったわね。あれを出してちょうだい」


「は、はい!では、ドレスも別の物を出して参ります!」


 既に白地に青薔薇の模様のドレスを身に付け、青薔薇の造花を髪に飾っていたフィリシティアだったが、時間にはまだ余裕があるので約束の刻限までに間に合わないという事はない。ハンナは慌てて王宮侍女二人を引き連れて、紅珊瑚の髪飾りとそれに合うドレスの捜索に向かった。





 春宮殿の使用人は、滞在中のアレシア付きの侍女数名の他は全て侍従で揃えられていた。男の使用人と言えば年嵩の執事や庭師等しか知らなかったフィリシティアは、当初かなり戸惑った。春宮殿に仕える王宮侍従達は秘書的役割をこなす王の侍従達とは違い、宮殿の住環境や食事を整える事が仕事である。王宮侍女と同じで、中、下級貴族の家督を継げない次男以下がなることが多かった。

 その内の一人であろう、自分より幾分幼く見える声変わり前の少年侍従が先導の役をすると聞いて、フィリシティアは密かに安堵した。以前の先導はいずれも背の高い、年上の青年侍従であったため、慣れないフィリシティアはなんとなく恐怖を感じていた。年上の若い貴族の男性を見る機会は確かにあったが、夜会等なら常に父が傍にいた。直接口を聞くわけでもない身分が下の王宮侍従が、昼日中、護衛の兵もすぐ近くにいる状況でフィリシティアに危害を加えることなどあり得ないのだが、異性とほぼ二人きりのような、この先導されて部屋に向かう時間が、フィリシティアは酷く苦手だった。


「レイゼン公爵令嬢、フィリシティア様ご到着です」


 声変わり前の明るい声を響かせ、少年侍従が到着を告げると、居間の扉がゆっくりと開いた。

 朝の光の溢れる室内で立っている人物に、フィリシティアの胸は早鐘を打ち始めた。一歩毎に高鳴って行く胸の鼓動に、フィリシティアは息を詰めて王の前へ進み出、火照る頬を隠す様に裾を摘んで優雅に膝を折り、深々とお辞儀をした。


「レイゼン公爵が次女、フィリシティア、ただいま陛下の御前に参りました。謹んで朝のご挨拶を申し上げます」


「私からも朝の挨拶を申し上げよう、フィリシティア姫。顔を上げて、我が手を取られよ」


 フィリシティアは増々頬を紅潮させ、おずおずと差し出された王の手に、自分の手を重ねた。


「そなたは後宮の庭園が殊の外お気に召したようだと聞き及んでいるが、それに相違ないだろうか?」


「はい。とても美しいお庭で、時を忘れて過ごしてしまいます」


「それは良かった。あの庭は私の独断でかなり手を入れている。そなたさえ良ければ私が改めて案内したいと思うが、如何だろうか?」


「はい!」


 フィリシティアは余りにも嬉しくて思わず大きな声で返事をしてしまい、すぐにしまったと扇子で口元を隠し、俯いた。


「……とても嬉しゅうございます」


「では、参ろう」


 王からは微かに笑うような気配がして、フィリシティアは恥ずかしさの余り気を失ってしまうかと思った。


 あぁ、またやってしまったわ! きっと、陛下にはしたない女と思われてしまったに違いないわ……


 折角王に手を引かれ庭園に向かったものの、道中フィリシティアは後悔と己の情けなさに囚われて王に話しかけられてもまともに返事が出来ず、余計落ち込んだ。

 そんなフィリシティアを見かねたのか、王は庭園に入ってすぐのベンチに彼女を誘った。つい昨日、フィリシティアとセリーヌが話したベンチだ。


「そなたは本当に無口だな。私も人の事は言えぬが。見たところ何か気落ちしているようだが?」


「っ、あの……陛下、申し訳、ありません……」


 心配しているかの様な王の問いに、フィリシティアはなんと答えて良いか分からず、申し訳なさで涙が滲んだ。それに、これ以上何か言って、はしたない女だと王に思われたくなかった。

俯くフィリシティアに王は静かに溜め息を吐いた。


「話してはもらえぬか。仕方無い、では私の話を聞いて頂こう。予め言っておくが、私は話す事が得意では無いから面白くはないかも知れぬぞ?」


「そんなこと……! 陛下のお話し下さることなら、何でも嬉しく思います」


 殿方に対して徹底的に受け身であるよう教育されたフィリシティアは、王の言葉にほっとして、ようやく顔を上げた。勿論、王の話を聞けるのも嬉しかった。


「ならば遠慮無く。そなたの父、レイゼン公爵の理想の女性は、もの言わぬ花のような女らしいが、私にはその考えが良く分からぬ。もの言わぬ花は、花でしかない。私はもの言う花の方が魅力的に感じるが、そなたはそう思わぬか?」


 突然、父の事を言われてフィリシティアは目を丸くした。しかも、絶対的に正しいと思っていた父の言うことに、絶対的な唯一の方である国王陛下が異議を唱えておられる。

 フィリシティアの混乱を察したのか、王は僅かに眉根を寄せて首を傾げた。


「急に言われても、返答の仕様が無いか。そなた、薔薇が好きか?」


「……はい」


 単純な今度の問いには、フィリシティアはちゃんと答える事が出来た。すると、王も少し安堵したかのように雰囲気を和らげ、フィリシティアもそれを感じ取っておずおずと肩に入った力を抜いた。


「では、その薔薇がそなたに話しかけて来たら、そなたはどう思う? 例えば、ごきげんよう、姫君。今日は良い天気ですね、と話しかけて来たら?」


「薔薇が、ですか?」


「そうだ。実際、かの神子ハーナ様は植物の声が聞こえる方だったと言う」


「まぁ……」


「それで、そなたは薔薇に話しかけられたら、どう思う?」


 王の問いかけは、少しばかり突拍子も無かったが、フィリシティアは一生懸命それを想像してみた。薔薇が話しかけるというのはやはり想像出来なかったが、薔薇の花の上にちょこんと座った可愛らしい薔薇の精に話しかけられる様は想像出来た。自然と、フィリシティアの口元に笑みが浮かぶ。


「……嬉しい、と思います」


「私も嬉しいと思うだろうな」


 そう言った王の瞳が、フィリシティアには優しく映った。まるで血の色の様で恐ろしかった王の瞳の色は、今では真っ赤に熟れた、あの王の植えた木に実る林檎の様に慕わしい。王は唇で微笑まず、その瞳で微笑むのだとフィリシティアは知った。

 王は、私がもの言う花であることを望まれている。フィリシティアはそう感じたが、何を話して良いか分からない。そんなフィリシティアの内心を察したのか、王はふと、フィリシティアの銀の髪を飾る美麗な透かし彫りを施した櫛型の紅珊瑚の飾りに目を留めた


「その紅珊瑚、そなたの髪に良く映えるな。とても良く似合っている。紅色がそなたは好きか?」


 紅珊瑚は紅玉程には硬質ではなく、どこか温もりを感じさせる色合いで、フィリシティア姫の染まった頬の色に似ていた。


「はい、ありがとうございます。あの……」


 王との逢瀬に自分で選んだ紅珊瑚の髪飾りを褒められて、フィリシティアは増々頬を赤らめて喜びに胸を高鳴らせた。

 何故この髪飾りを選んだのか、王にお伝えしたい。そんな気持ちがフィリシティアの中に沸き起こるが、無意識にそんな事ははしたないと歯止めが掛かってしまい、口籠ってしまう。


「……ゆっくりで良い」


「は、い。前は、私はそれ程、紅色は好きではありませんでした」


 王に励まされて、フィリシティアはゆっくりと話し始めた。


「そうか。では、紅色が好きになるきっかけが何かあったのだな」


「はい。……陛下の髪と、瞳が、とてもお美しいので、好きになりました」


 そう告げたフィリシティアの言葉に王は僅かに目を見張り、ほんのりと耳朶の辺りを赤くした。


「そういえば、そなたは私の髪を褒めてくれたな。では、私は紅珊瑚の精にきっと感謝されていることだろう。こうしてそなたの髪を飾ることが出来て、紅珊瑚も喜んでいるだろうから」


 先ほどよりは格段に気持ちが解れたらしいフィリシティアの嬉しそうな顔を見て、王は立ち上がった。


「では、そろそろそなたを案内致そう」


 差し出された王の手に、今度ははにかみながらもフィリシティアは迷い無く自分の手を重ねた。


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