つかの間の平和9
「……セリーヌ様?」
物思いに耽っていたセリーヌに、不意に声を掛ける者があった。
セリーヌの目に飛び込んで来たのは、日の光に透ける白く輝く髪をした、美しい妖精だった。セリーヌは驚きに呼吸を忘れた。ここが神子の遺産の庭だということもあって、本物の妖精かと思ったが、すぐにそれが生身の人間だと気付いた。
「ごきげんよう、フィリシティア様。あなたもお散歩ですか?」
「はい」
日に透けて溶けてしまう様に儚い風情の佳人に、セリーヌはため息をついた。
本当に、美しい人。生きているのが不思議に思うくらいに。
この庭を見るまでは、セリーヌは彼女の応援をするつもりだったが、今となっては心が揺らいでいた。この妖精には、王妃として政治に関わる能力は無いだろう。そう思うと、余計に自分ならばという気持ちが湧いて来てしまう。
「あの……セリーヌ様。少しお話させて頂いても構いませんでしょうか?」
「え……? えぇ、構いませんわ。そこのベンチに座りましょうか」
思いがけず相手から誘われてしまい、セリーヌは少し戸惑ったが、好感を持っている相手であれば断る理由も無く、快く誘いを受けた。
姫君が嬉しそうな表情をふわりと整った顔に拡げると、硬質な印象が和らいで年相応の幼さを感じさせる。
内気な質の姫君は、緊張しているのが美しい動作の端々に窺えて、セリーヌは密かに苦笑した。セリーヌと姫君では、同じ公爵令嬢でも格段の差がある。セリーヌ相手に緊張などしなくても良いだろうに、その初々しい様子はセリーヌには予想外だった。あのレイゼン公爵の娘なら、きっと横柄で高圧的だと思い込んでいたので、その落差に余計にこの姫君に好感を抱いてしまうのかもしれない。
姫君の、何か聞きたい事があるらしいのだが、なかなか言い出せない様子が可愛らしい。その姿をしばらく眺めていたかったが、流石に悪趣味だと思ってセリーヌから声を掛けた。
「何か、私にお話したいことがおありですか?」
「ぁ……、はい。お聞きしたい事が、あるのです」
「私にお答え出来ますことなら、何でもお答え致しましょう。どうぞお聞きになって?」
「とても、恥ずかしいのですけれど、先日のお茶会で……その、陛下が……」
姫君はみるみる白い頬を赤くし、居たたまれないといった様子で、俯いた。
「陛下が?」
セリーヌが促してやると、姫君はおずおずとセリーヌの顔を見て、意を決して再び話し始めた。
「陛下が、セリーヌ様の髪をお褒めになられましたでしょう?」
「あぁ、そんな事もありましたね」
「それで、その……私、その時、本当に失礼なことではありますけれど、ぼんやりしておりました」
「えぇ、存じておりますわ」
その記憶はまだ新しい。あの時のチェルネイア姫も傑作だったが、ぼうっとエルドシールを見詰めるフィリシティア姫の様子も、セリーヌにとっては忘れがたい光景だった。
「お恥ずかしい限りです……」
「そんな事ありませんわ。とても可愛らしいと私は思いましたし、慈母様もそうお思いになられたと思いますよ」
からかうつもりは無かったが、セリーヌが正直に伝えると姫君は目に見えて更に赤くなり、狼狽えて
視線を逸らした。
「……そ、それで、なのですけれど、陛下が、どのようなお言葉でセリーヌ様の髪をお褒めになったのか、教えて頂きたいのです」
セリーヌは、一瞬質問の意味が分からなかった。普通、恋する方が他の女性を褒めた言葉なんて、知りたくないと思うのが女心では無かったかしらと首を傾げた。セリーヌ自身は恋とは無縁だったが、恋愛小説好きの侍女のおかげで恋愛に絡むあれこれはそこそこ知っていた。
「……フィリシティア様は、不思議な事をお尋ねになるのね」
「不思議、ですか?」
「えぇ。何故、そんな事をお知りになりたいのです?」
姫君はきょとんと目を瞬かせ、困惑して首を傾げた。
「何故、と言われましても……。陛下のおっしゃったお言葉を取り零すなど、失礼なことですし……ぁ、それに、陛下のお好きなものを知りたい、からですわ」
途中で不意に気付いた様に、姫君はぽん、と小さな花が咲いたように微笑んだ。
「陛下のお好きなもの、ですか?」
「はい。褒め言葉に使うということは、それを良いものと陛下が感じていらっしゃるということですから」
成る程、とセリーヌは思った。つまり、姫君はセリーヌに贈られた褒め言葉が知りたいのではなく、エルドシールの好きなものが知りたいだけなのだ。全く嫉妬という言葉を知らなげな目の前の少女をまじまじ見詰め、これは本当に妖精なのでは、とセリーヌは思った。
「陛下は私の髪を、豊かな大地の色と褒めて下さいました」
「豊かな、大地の色……」
「実際は褒め過ぎだと思いますわ。栄養の豊富な土の色は、私の髪よりずっと濃い色をしていますから。黒に近いのです」
「土に色の違いがあるのですか?」
目を丸くする姫君に、セリーヌは内心苦笑した。普通の貴族の姫君は、土の色の違いなぞ知らなくて当然だ。知っている自分が変わっているのだ。
「ありますわ。今度よくよく注意してご覧になってみて下さい。この庭園の土の色も、場所によって少しずつ色が違うはずです」
「まぁ……私、ちっとも気付きませんでした」
神妙に頷く姫君に、セリーヌはふっと微笑んで悪戯めいた口調で告げた。
「ちなみに、陛下がチェルネイア姫の髪を褒めた言葉は上質の鹿の毛皮です」
セリーヌの言葉に、姫君は一拍置いてはにかんだ笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして、フィリシティア様。そろそろ参りましょうか。だいぶ日も傾いて来ましたし」
「はい」
結構長い事自分はこの庭園で一人物思いに耽っていたのだと、日の傾きからセリーヌは不意に気付いた。そしてそんな自分より先に来ていた姫君が、相当長いことこの庭園に居た事に気付く。確かにこの庭は妖精の長期滞在にも耐え得る美しさだ。
「セリーヌ様」
「何でしょう?」
ベンチから立ち上がって門へ向かいかけたところで、セリーヌは姫君に呼び止められた。
「今度お部屋にお邪魔しても構わないでしょうか?」
「……えぇ、構いませんわ。歓迎致します」
思いがけず妖精に懐かれたセリーヌは、内心少し微妙な気持ちだったが、微笑んで頷いた。今、セリーヌの心は王妃となる事に気持ちが傾き始めていた。今更何とエルドシールに言うのかという事もあったが、それ以上に目の前の妖精に対して自分の打算的な動機が非常に後ろめたかった。
素直に喜ぶ姫君を前に、セリーヌは複雑な気分だった。男性の優越性が高く、政治的な能力を全く求められないこの国の王妃の座には、セリーヌの様に権力を持つ事を目的として王妃の座を欲する女は望まれていない。むしろフィリシティア姫のように全く無知で、全てを男性に頼る汚れ無き永遠の乙女のような存在が望ましい。男に何処までも都合のいい女性像だが、それがこの国の貴族社会の常識であった。レイゼン公爵程その考えを徹底している者は少ないが、セリーヌの父でさえ娘可愛さと、いずれキシェラ男爵家を継ぐ準備の為に学問を許してくれたに過ぎない。
もしこれでフィリシティア姫が、本当に父のレイゼン公爵に言われるままの空っぽな娘だったら、セリーヌはこんな事は思わなかっただろう。目の前の妖精じみた少女は、エルドシールに恋をしているのだ。恋故にエルドシールの妻、王妃になりたいと望んでいるから、自分の打算が後ろめたい。
全く厄介な事になったものだわ、と、セリーヌは内心で深々とため息をついた。