つかの間の平和8
「セリーヌ様! お嬢様! やりましたよ! ちょっとだけだけど、フィリシティア姫の侍女と仲良くなりました〜! 今日、これからハンナさんとキヨさんと一緒にお散歩行って来ます!」
元気よく部屋に駆け込んで来たメイミに、セリーヌは目をぱちくりさせた。書き物の手を止めて、首を傾げる。
「……じゃあ今フィリシティア姫は何をしていらっしゃるのかしら」
チェルネイア姫は陛下との逢瀬から戻って来てはいるだろうが、二人が会っているとは思えないし、アレシア様は今日は面会の予定がいっぱいだと言っていた。あの姫君を侍女が一人にするとは思えないし、あの姫君が一人で行動するとも思えなかった。
「姫君は後宮の庭園にいらっしゃっているようです。一人で散策されるのがお気に入りみたいで……、あ! 丁度良いからお嬢様も行かれては? 偶然を装っての出会い……ロマンスの始まりですわ……!」
途中から思考が飛ぶメイミにセリーヌは苦笑したが、確かに良い機会だと思った。それにしても、あの内気な姫君が一人で散策とは意外だ。
「ロマンスはともかく……良くやったわ、メイミ。流石は私の侍女だわ」
「セリーヌ様の為ですもの、これくらい軽いです! では、行って来ますね!」
飛び跳ねる鞠の様に飛び出して行くメイミを見送り、セリーヌは書き物を片付けて話には聞いていた後宮の庭園に向かった。
「一体なんなの!? この滅茶苦茶な庭は!」
王が言っていた神子の遺産の庭を一目見た途端、セリーヌは思わず怒鳴った。
季節も、それぞれの植物に合った風土も全て無視して、全ての植物が全盛期という状況に、感動するよりも先にセリーヌは怒りが込み上げてしまったのだ。
栽培がとても難しい筈の北国の木が、普通に茂って花を咲かせているのが真っ先に目に入ったからだ。真夏のゼッタセルドでは、それは絶対にあり得ない光景だ。苦労して品種改良を続け、どうにかこうにか最近夏を越えられるものが出来たと母の実家から知らせが来たばかりだったから、余計に腹立たしい。
シュスというこの肌の白い木は、とても貴重な木なのだ。
それは石化病という難病に関係がある。ある日突然身体の末端、手の指や足の指が動かなくなり、だんだんと身体の中心に向かって麻痺が進む。麻痺した部分はまるで石の様に固くなり、ついには体中が石の様に固くなって心臓が止まる。
一度この病に掛かると治癒は絶望的、シュスの木の皮を煎じたものが唯一病の進行を止める薬で、それ以外に患者が生き延びる方法は現在見付かっていない。昔は交易で大量に北方から入って来たシュスの煎じ薬は、国が内戦で疲弊して交易が滞っている為に流通量がかつての十分の一にまで減っていた。少ない薬を巡って、その価格は高騰するばかりだ。
キシェラ家がその栽培に乗り出したのは、大ババ様がこの病を患ったことが切っ掛けだった。いくら貴族といえども、それほど裕福というわけでは無いキシェラ家にとってシュスの煎じ薬は高過ぎたのだ。そこで、キシェラ家は比較的安価で手に入るシュスの種を大量に購入し、親戚であるガルニシア公爵家に出資してもらってシュスの栽培を始めた。欲しい人間はいくらでもいるので、軌道に乗れば金を回収出来るし、助かる人も増える。難しいことは分かっていたが、ただただ高価な輸入もののシュスの煎じ薬を買い続けるよりはキシェラ家の良き未来に繋がると、大ババ様が決断したからだ。
神子の遺産の土地をただの庭園にしとくなんて、何て馬鹿ばっかりなの!?
栽培が難しい薬になる木や薬草を植えたら、この国はどこの国より素晴らしい薬の国になるのに!
季節も関係無く、新鮮な薬草が手に入るとしたら、こんなに魅力的な事ってあるかしら?
ガルニシア公爵家のセリーヌの部屋のバルコニーは、実は畑と化していた。シュスは難し過ぎて到底無理だったが、いくつかの薬草に関してはセリーヌ自身も交配を繰り返して品種改良を試みていたから、その苦労は身を持って知っていた。
そんな苦労を嘲笑うかのように、此処には多種多様な木々と草花が青々と生い茂っている。怒りが去ると、なんだか無力感に襲われてがっくり来てしまったセリーヌは、当初の目的を忘れて入ってすぐのベンチに座り込んだ。
どうせなら、世界中の土地に祝福を与えてくれればこんな苦労をする必要も無く、何処でも誰でも薬が手に入って、皆幸せなのに。何故こんな中途半端な広さの土地に祝福をお与えになったの?
それも後宮の女達の心を慰める事だけを目的に存在しているなんて……
神子様を悪く言うつもりは無いが、“全ての民を慈しむ神子”という存在と矛盾するようで、出来るなら納得のいく説明が欲しいとセリーヌは思った。
しかし、すぐにその思いにセリーヌは頭を振った。
「いいえ、そもそも神子様がそれを望まれたとは思えないわ」
そんな事の為に神子様が祝福をお与えになったとは思えない。
では、何の為に?
でも……もし本来の目的をないがしろにしているなら神殿が黙っているとは思えない。
やはり、本当にこれが神子様の目的なの?
「あぁ〜、もう。考えれば考える程分からないわ」
元より少な過ぎる情報では、正しい答えを導こうにも検証する術も無い。
余りにも漠然とし過ぎていて、答えを求めるのは無理だとセリーヌは早々にサジを投げた。
でも……そうね、私が王妃になったら、この庭は実験の為の畑にするわ。
どんな植物でも育つなら、交配も容易に出来るし、もしかしたら育つ速度も普通よりも早いのかもしれない。そうならばもっと効率良く早くに品種改良出来る。
あぁ、でも普通の土地も必要だから、すぐ隣りにも畑を作って……。正妃一人を守ると王もおっしゃっていたから、あんなに大きな後宮は必要無いわ。だったら今閉鎖されている部分を研究棟にして、優秀な学者を集めて……。
そこまで考えて、セリーヌははっとした。
正妃になれば、反発はあってもきっとそれは実現不可能ではない。
王は、神子の残した知識を学んで、何を成すのかと聞いた。
そして、最初の日に傀儡の王の王妃として、何を誓うのか、そう聞いた。
もしかして、こういう事なのかしら?
傀儡の王から脱する為の力が欲しいのではなく、王妃としてこの国の為に何が出来るか、そう言う事?
あぁ、私としたことが、すっかり忘れていたわ!
王妃は、女の身で公に権力を握る事のできる唯一の地位。
王妃という地位につきものの様々な煩わしさを差し引いても得るものがあるなら、望んでみても良いかもしれない。
セリーヌは立ち上がると、草花の生い茂る中を進み、シュスの白い木肌に手を当てた。
手の平から伝わってくるのは生きる喜びに満ちた歓喜の感情だ。
故郷を遠く離れた異郷で、悲しみと苦痛の感情ばかりを伝えて来たシュスの芽や苗木達を思い出し、セリーヌは涙が滲んだ。
この国を、植物の楽園にしたい。
それがこの国を、民を、幸せに導く筈。
その為に、王妃の地位を望んでも許されるだろうか?
もの言わぬ植物の心を感じ取る能力。それがキシェラ家の女に伝わる神子の遺産だった。