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それぞれの前夜3

 ハンナは呼びつけられた書斎で、息を殺して立ちすくんでいた。レイゼン公爵は使用人が何か粗相をすると、苛烈な罰を与える。勿論公爵自身が罰を与えるのではない。実際に罰を与えるのは、執事のバルだったが。公爵は使用人を空気の様に扱う。


 ハンナの家は代々公爵に仕えて来た。男は下男として、女は厨房方で仕えて来たので、侍女というのは破格の待遇だ。

 だが、それは公爵に認められたからではない。ハンナが家族思いで、長患いの母がいるからだ。公爵は人間の心理を利用して使う事に長けていた。

 フィリシティアの侍女になったのは、三年前のことだ。王の正妃に我が娘をとレイゼン公爵が積極的に動き始めた時期の少し前である。ハンナは侍女としての教育の他に身につけるように言われた事がある。

 それは毒薬の知識だ。表向きフィリシティアの身を守るためと公爵は言ったが、そんなことは建前だとハンナには分かっていた。


「私の白薔薇、フィリシティアは誰よりも美しく、穢れなく、清らかで、誰よりもキア神の授けたまうたゼッタセルドの王妃に相応しい。ハンナ、お前もそう思うであろう?」


 書類に目を通していた公爵は徐に目を上げて宙を見ながら話し始めた。その視線の先には娘の姿でも浮かんでいるのだろう。


「はい、仰せの通りでございます」


 名を呼ばれてようやく細い吐息を吐き出し、ハンナは答えた。


「陰気な卑しい血の母を持つ醜い娘も、血に飢えたあの男が姪に仕立て上げた阿婆擦れ女も、私の可愛いフィリシティアの敵ではない。だが、王はまだ年若く、判断をお間違えになることもある。王は真面目な方だからな。万が一にでも関係を持てばそれを盾にする

可能性もある。良いか、ハンナ。何度も言ったことだがもしも、王が醜女や阿婆擦れ女に惑わされておしまいになると感じた時は……分かっているな?」


「……はい」


 分かりたくない。それでもそう答えなければならない。

 ハンナは足が震え出すのを堪える事ができなかった。


「恐ろしいか? だが、それは王の為、ひいてはこの国の為の正義なのだよ、ハンナ。そうだ、王のご生母だが、これも王を惑わせる様なら制裁の対象と心得よ。仮にも慈母の称号を持つお方であれば、国の為に死するなら恨みはしまい。むしろハンナ、お前に感謝するであろう」


 薄暗いロウソクの光に浮かび上がる公爵の痩せた顔は、ハンナにはまるで悪魔の様に見えた。ぎょろりとした目をギラギラさせて、不気味に笑う横顔に、ハンナの声は凍り付いて何も言う事が出来なかった。


「そうそう、王が万が一フィリシティアと関係を持てば色々とやりやすくなる。なに、実際にそういうことが無くて構わぬ。上手くやれば無用な殺生を避けられるぞ?」


 ハンナの恐怖に気付いたのか、公爵はようやくハンナの方へ顔を向け、優しげな声で宥めた。ハンナは涙の滲む瞳を伏せて、干上がった喉から必死に声を絞り出す。


「……ご期待に、添えるよう、頑張ります……」


「お前はフィリシティアに良く仕えてくれている。褒美としてお前の母を良い医者に診せてやろう。これからも良く仕えることだ。さすればお前の母も長生き出来よう」


(母さん……!! 助けて……!)


「ありがとう、ございます……」


 内心の悲鳴を押し殺してハンナは息も絶え絶えに礼を述べ、逃げる様にして廊下に転がり出た。

 ハンナはただただ恐ろしくてならなかった。


 ハンナは侍女のドレスを身に着けるだけでも、心躍るよりも恐れを感じる様な純朴な娘だった。

 母の水仕事で荒れた手が好きだった。母がまだ元気だった頃、鼻歌を歌いながら野菜の皮を魔法の様に調子良く次々と剥いてゆく姿を眺めるのが、大好きだった。

 病気になった母の為に給金の良い侍女にして貰えた事には、家族全員が公爵に感謝している。父も母も、それから弟も妹も、みんな喜んでくれた。特に母は礼儀作法や読み書きを習わせて貰える事に涙を流して喜んだ。それは、一段上の階級の男性との結婚で下働きの階級から抜け出せる幸運の切符に見えたのだろう。ハンナは父の様に陽気で力持ちの男との結婚を夢見ていたが、母の願いならと諦める程に親思いの、どこにでもいる素朴な娘だった。


(母さん、どうしよう、私、恐ろしい事をしてしまうかもしれない……!

 どうしたら良いの?

 お願い、助けて父さん、母さん……!)


 心の中で悲鳴を上げながらも、実際にはハンナは何一つ父にも母にも言う事など出来ない。

 侍女に取り立てられた娘を誇らしげに自慢する愛情深い両親に、毒殺を暗に命じられたなどと口が裂けても言えない。

 両親に話したところで待っているのは更なる地獄だ。

 そんな恐ろしい事をするぐらいならと、両親は自分を連れて逃げてくれるかもしれない。だが、そうすれば安定した生活を失い、あっという間に病気の母は死ぬだろう。幼い弟や妹はどうなるのか?

 かといって毒を盛ったり、恐れ多くも国王陛下に薬を盛って罠に嵌めるなど考えただけで心臓が縮み上がる。成功するのも恐ろしいが、失敗すれば家族がどんな仕打を受けるか分からない。

 考えれば考える程、ハンナは雁字搦めにされて身動きが取れなくなっていった。

 

 ふらふらしながらハンナがフィリシティア姫の居室に戻ると、姫は癇癪を爆発させていた。


「ハンナ!! 何をしていたのよっ!」


「ひ…っ、も、申し訳ありません、公爵様に呼ばれていました」


 扉を開けると同時に投げつけられた本が腕に命中し、ハンナは思わず悲鳴を上げてその場に平伏した。


「お父様に?」


「はい。王宮に上がっても姫様に良く仕えるようにと」


「そう、それなら仕方がありませんわ。それより、瑪瑙のブローチは何処?」


 公爵に与えられた恐怖を引き摺り、未だに震える身体を叱咤してハンナはどうにか立ち上がる。

 あのブローチは確か金具の調子が悪くて修理に出した後、衣装部屋の奥に仕舞ったはず。


「少々、お待ち下さい」


 苛々して爪を噛む主に頭を下げて足早に衣装部屋に向かった。目的の物を見付けるとほっとして小箱を手に主の元に戻り、両膝をついて恭しく献上する。

 主は箱を引ったくる様に取り上げると蓋を開け、その中にちゃんとそれがあるのを確認して美しい顔を綻ばせた。

 機嫌が直った主は、寝る前に蜂蜜を入れた花茶をハンナに用意させ、早々にベッドに入った。

 ハンナもまた明日に備えて早めに床に入るが、先程の左腕の打撲が思ったより酷く、じんじんと熱を持って痛むのもあって中々寝付けなかった。


 このままでは眠れそうもないと、同僚を起こさない様に注意しながらハンナは起き出し、台所に向かった。汲み置きの水を溜めておく瓶から柄杓で水をすくい、持参した大きめのハンカチを濡らす。

 腕をまくり上げて腫れた部分に濡れたハンカチを当てて、暫くぼんやりと暗闇を見つめた。

 何も考えたくないのに、気が付くと込み上げてくるのは先の見えない不安と公爵の悪魔の様な笑い顔で、ハンナは浅くなる呼吸の苦しさに胸をおさえた。

 こんな暗闇にいたら余計に悪い事ばかり考えてしまう、と、ハンナは温くなった布をもう一度水で冷やし、それを持って部屋に戻る事にした。


 三階にある侍女部屋に戻る途中、ハンナは少し気になって遠回りをして姫の部屋の前を通った。

 癇癪持ちで、八つ当たりばかりする姫だったが、ハンナは姫が嫌いではなかった。ハンナにとってフィリシティア姫は何処から見ても完璧な貴族の姫君だった。その高慢さすら美しい。人間の種類が自分とは違うのだと、それが当然なのだと意識するまでもなく思っていたので、酷い仕打を受けていると思った事も無かった。

 それに姫の我が儘は、何故か妹や弟のそれを思い出させた。もっとも妹や弟だったら叱り飛ばすところだが。母上に顧みられず、姉君にも邪険にされて、寂しさを暴力にして爆発させてしまう主は子供なのだろう。そして、それはハンナにとっては理解出来る感情だった。少なくとも、公爵などよりはずっと分かりやすかった。

 辿り着いた部屋の前で、そっと扉に耳を当ててみると、微かなすすり泣きが聞こえた。プライドが高い姫はきっと私などには知られたくないだろうと思うものの、ハンナは躊躇った末にそっと扉を叩いた。


「姫様、ハンナです」


 暫くして、微かに入ってという声が聞こえたので、ハンナはそっと扉を開ける。

 入ってすぐの飾り棚の上に手燭台を置き、ベッドの上に身を起こしている人影に静かに近付いた。顔は見えないけれど、きっと泣いていたはずだ。


「こんな夜中に、何の用なの?」


「はい、今夜は少し寝苦しいようなので、姫様はどうしていらっしゃるかと心配になりまして……水で冷やした布をお持ち致しました。顔を冷やしますと、少しは眠りやすくなります」


「……」


 暗くて表情は良く分からないが、姫は無言で布を受け取り、顔を覆うように拡げた。


「どうですか?」


「……………怖いの」


「……はい?」


 余りに小さな声に、言葉を拾い損ねたハンナは控え目に聞き返す。


「……怖いの。お父様は何も心配ないというけれど、怖いの。国王陛下は、美しい方だけれど、まるで鉄の仮面を被っているように冷たい表情の方よ。そんな方を、どうやって愛したら良いの?」


 暗がりの中、濡れた布の下で泣いている気配が感じられた。ふと、姫が手に何かを握りしめているのが見えた。遠い手燭台の光を反射するそれは、あの瑪瑙のブローチだ。確か幼少期に母上から贈られたという、品質としては姫の持つ宝飾品の中では最も価値の低い部類のそれを握りしめて泣いていたのか。そう思うとハンナはつられて涙が滲んだ。

 普段決して目下の者に弱さを見せない姫君が、こんな風に弱音を吐くとは。先の見えない不安と恐怖に怯えているのは、立場は違えど同じなのだ。であれば少なくとも、二つ年上の自分がしっかりしなければ。


「大丈夫ですわ、姫様は誰もが見蕩れてしまうほどお美しいのですから、姫様が微笑まれればきっと国王陛下の凍ったお心も溶けるでしょう。姫様程のお方が何を不安に思う事があるのか、私の愚かな頭では検討がつきません。私の方が怖いです、姫様。何しろ私は三年前までただの下女。姫様の様な高貴な方ばかりの王宮では、きっと私の心臓はたちまちに壊れてしまいます。現に今夜も恐ろしくて寝付けずにいました。私には姫様だけが頼りでございます。」


「………仕方ありませんわね。不出来な侍女でも私の侍女ですから、主人の私が面倒を見るのは当然の義務です。お父様もどうして王宮に上がる侍女にあなたを選んだのか分かりませんけれど、私とお父様に恥をかかせないように精進しなさい」


「はい、肝に銘じます」


 すっかり落ち着いて何時もの調子を取り戻した姫に、ハンナは内心で安堵の溜め息を吐いた。


「もう、良いわ。さっさと下がって寝なさい」


 突き返されたすっかり温くなった布を受け取り、ハンナは静かに部屋を後にした。


 公爵様に言われた事は、一旦忘れよう。雇い主は公爵様だけれど、私の主人は姫様なのだから、とにかく姫様の為だけを考えよう。


 実際、王宮に上がるなんて恐れ多い事この上なく、公爵様に言われた事を考える余裕などハンナには無いのだ。ハンナは頭が特に良いわけでも無いし、下手に何かしてハンナが犯人だとバレれば困るのは姫様、公爵様だ。だったら周りの警戒が厳し過ぎて何も出来ませんでした、というのも不自然では無い。

 少しだけ気分が明るくなったハンナは、今度は床に入るなり瞬く間に眠りに落ちた。



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