それぞれの前夜1
王宮へ正妃候補として上がる日を明日に控え、セリーヌ嬢は憂鬱で仕方が無かった。セリーヌ嬢本人も父の公爵同様に全く乗り気では無い。
公爵家の食堂では、暖炉の前の長椅子で寛ぐ食後の二人の姿があった。
「あぁ……魔女の森に帰りたい……」
「すまぬ。だが形だけだ。二ヶ月後には帰って来れるから辛抱してくれ」
深緑のドレスを纏う娘の肩を、立派な白い鬚の老紳士がそっと叩いた。
娘は茶色の髪を無造作に纏めただけの茶色の髪の束で、老紳士の顔を叩く勢いで振り向いた。暗緑色の瞳はぶしつけな程じろじろと疑わしげに老紳士を見つめる。
「本当に、本当に帰ってこられるんでしょうね?」
「うむ……その、王に選ばれなければ、な」
娘はセリーヌ嬢、そして娘の剣幕にたじたじになっている老紳士はガルニシア公爵である。
「それ、本当ですよね? 父上の力で無理矢理正妃とかにならないですよね?」
「それは絶対に無い」
はっきり否定する父に、娘も納得したのか表情を和らげる。
「それなら安心だわ。フィリシティア姫もチェルネイア姫もすこぶるつきの美人だし、さっさと白旗掲げて逃げ帰って来ようかしら」
「これセリーヌ! ちゃんと期間中はそれらしく振る舞いなさい。そうでなければ納得しない連中が多いのだ」
「あ〜、もう。父上の我が儘を聞くのもこれっきりですからね!」
「……」
妻そっくりの捨て台詞を吐いてぷりぷりしながら部屋を出てゆく娘の後ろ姿を見送り、公爵は白い鬚を撫でながら困ったものだと呟いた。
そばかすだらけの四角い顔も、ちょこんと小さな鼻も、父の公爵からすれば愛嬌一杯で可愛らしくてならないのだが、性格だけはもう少し穏やかであればと願わぬ日は無い。
ガルニシア公爵の娘、セリーヌは殆ど社交界に出てこない。それは容姿に引け目を感じて、または母の身分の低さを気にして引きこもっているのだというのが大方の見方だったが、真実とは程遠い。
セリーヌ嬢は実はとんだじゃじゃ馬である。知識欲が旺盛なので頭が良いというのは本当だが、それ以上に女性上位の家風の母の実家の影響を色濃く受けていて父親の言う事を素直に聞いた試しが無い。
父の顔を立て、そして平穏な生活のために、母の実家から連れて来た侍女数名と父の前以外では大人しやかな深窓の令嬢を演じてはいる。だが、それは一時的なものだから我慢出来るのだ。
父のガルニシア公爵にしてみれば、こんなじゃじゃ馬娘が正妃になった日には毎日心配で寿命が縮む、というのが本音である。
部屋に戻ると、すっかり荷造りを終えた侍女のメイミが待っていた。この後に及んで行きたくないと愚痴をこぼすセリーヌに、メイミは福々しい丸い顔に笑みを浮かべて励ました。
「セリーヌ様、二ヶ月なんてすぐですよ。それに王宮で生活なんて普通じゃ経験出来ないんですから、気分を切り替えて楽しんじゃいましょう? 王宮の温室には珍しい外国の植物が沢山あるって噂ですし」
正妃候補には一人だけ侍女を連れて行く事が許されている。セリーヌは気心の知れた気の合うメイミを選んだ。
「そうね、メイミの言う通りだわ。うん、王宮の温室は確かに興味深いわ。良いモノがあったらこっそり貰っちゃいましょうか」
「良いですね! そんな手土産があったら魔女の森の大ババ様もきっと喜ばれますわ」
魔女の森とはセリーヌが子供時代を過ごした母の実家、キシェラ男爵家の領地にある森のことだ。男爵家と公爵家では家格に差があり過ぎるが、セリーヌの母は後妻であったために余り煩く言われなかった。病で亡くなった先妻は同格の公爵家から迎えており、その先妻との間に跡継ぎを設けていたからだ。フィリシティアもチェルネイアも姫と呼ばれるのに対してセリーヌが嬢と呼ばれるのも、母の出自が低いからである。
キシェラ男爵家には表向きの貴族の館然とした屋敷の他に森の中に屋敷がある。内戦で国内が乱れていた頃、セリーヌは母共々祖母の住む森の屋敷に避難し、物心ついた頃から少女時代の約十二年を過ごした。
キシェラ家は代々女性上位の家系で、長女に婿を取るのが習わしであった。表向き男爵家の家長はセリーヌの義理の伯父だが、実質的な家長は妻の伯母であり、セリーヌの祖母大ババ様が未だに最高権力を握る。
セリーヌはこの大ババ様にその跳ねっ返りぶりを可愛がられて、毎日森で泥まみれになって遊び転げて育った。そして伯母夫妻に娘が生まれなかったので、その息子のラッセと結婚して次代の家長にと望まれていたのである。正妃候補の話が持ち上がらなければ、一年前にラッセと結婚していたはずだ。
ちなみにメイミはラッセの乳兄弟だ。
セリーヌは父は好きだったが、父が属する貴族社会に馴染めなかった。セリーヌの幸せは育った魔女の森の日々にあり、当然正妃には興味など微塵も無い。かといって、ラッセが好きかと言えば四つ年下の従兄弟は可愛い弟という感覚でしかない。なにせラッセと最後に会ったのは四年前で、セリーヌの中には十二歳の従兄弟の姿しかない。結婚に関しても共に育ったから既に家族同然で、ラッセと結婚するのもまぁ良いか、程度の認識でしかない。
セリーヌは二十歳という年齢にしては、驚く程そっちの情緒が育っていなかった。