慈母と神子1
アレシアとキヨは基本的にお互い自分の事は自分でする。侍女の手助けが必要なドレスの着付けも髪を結い上げることも無い。尼僧衣を着るのも頭巾を身につけるのも当然自分でやる。慈母という地位で出仕しているアレシアは社交の場に出る必要は無かったし、社交の場を主催することも今のところ特に無い。
正妃候補達が王宮に上がれば忙しくなるだろうが、それまでは一切の面会希望も断ることにして王宮の生活に慣れる事を最優先させる事に決めた。
勿論、それを可能にしたのは王である。お披露目の儀の折りにエルドシールが正妃候補達が王宮に上がる前に十分に休息を取って欲しい旨を皆の前で伝えた。王の言葉は母を気遣う息子としては当然と言えば当然で、流石に遠慮して面会の申し入れの希望も無かった。贈り物は幾つか届いていたが、どれもそれほど大きなものではない。贈り物は面会時に直接手渡して願望を伝えない事には賄賂の意味をたいして成さないのだ。よって、本当にアレシアはのんびりしており、キヨがいれば十分であった。そして目下のところキヨの最も大事な仕事は毒見である。
毒見と言っても実際に口にすることはない。毒の入ったものを食べようとすると、額の宝玉が熱くなって危険を知らせるのである。今までに発見した毒はどれも死に至る様な毒では無かったので、まぁ挨拶みたいなものだとアレシアは言い、キヨはさすが王宮と顔を引き攣らせた。
「宝玉が無かったら、どんなに良い条件を提示されても王宮なんかに住みたくないです」
疲れた顔でぼやくキヨに、キヨが首実検済みの香草茶を飲みながらアレシアはゆったりと微笑んだ。
「ほほ……、この程度なら可愛いもの。大方、私が体調を崩して正妃選定に関わる事を辞退する事を狙っているのでしょう。もしくは、辞退しなければ今度は本当に致死量の毒を盛るぞという警告か。
そこまででなくとも、体調不良で不安を煽り、誰か有力な者に頼るような心理状態に追い込んで有利な選定方法を引き出そう、とか。
特定は出来ませんが、いずれかの理由でしょう」
ちなみに毒入りクッキーやらスープやらはベルタが回収し、医者に分析させた後で内密に処分された。
大事の前の小事に過ぎないと王には知らせていない。王もこれくらいの事は予想済みだろうと言う。
いくら致死量じゃないとはいえ、毒が盛られたのだ。それを小事と言い切って平然とするアレシアと、その対応が当然という態度で処理を請け負うベルタを見てキヨは内心冷や汗を滝の様に流していた。
予想を上回る殺伐とした内部事情に、正直キヨは自分の無謀を後悔しそうだった。もしかして自分はとんでもなく楽観的で、恐ろしく無謀な事をエルドシールとアレシアにさせようとしているんじゃないだろうか。
今更な後悔をしてももう遅い。事態はもう引き返せないところまで来ている。
エルドシールは臣下に自分の基準で正妃を選ぶって言っちゃってるし、アレシアも選定方法についてやる気まんまんで準備も進んでいる。
(私が焚き付けて始めたんだから、最後まで私は自信満々の顔をしていなきゃ! 毒喰らわば皿までよっ!)
キヨは自分を奮い立たせて心の中で気合いを入れ直す。
それにしても、と空になったアレシアのカップを再びお茶で満たしながらキヨはちらりとアレシアを盗み見た。アレシアはそろそろ四十になるとは思えない程若々しく美しい。
顔立ちは、親子だと誰もが分かる程エルドシールにそっくりである。すっとした鼻梁に繊細な顎のライン、少し下唇の厚い形の良い意志の強そうな口元、彫りの深さが陰影の美しさを見せ、キャバクラ嬢も真っ青なボリュームたっぷりの睫毛とくっきり美しい二重まぶた。
存在感のある大きな瞳は灰色が掛かった様なくすんだ緑色で、頭巾から僅かに見える髪は柔らかなダークブロンドだ。修道院での生活で日に焼けて白い肌に多少シミそばかす、シワが見られるものの、かえってそれが穏やかな笑みを常に浮かべる彼女の溢れ出る様な心根の優しさを引き立て、親しみやすさを増している。
同じ顔立ちでも、無愛想な息子とは随分な違いだ。髪や瞳の色彩の印象の違いはあるだろうが、表情というのがこれ程人の印象を変えるのだというとても分かりやすい見本だな、とキヨは思った。
ローレッセン王の妾妃は美女ぞろいだったというから、ただの美女に一目惚れするわけがない。きっとこの天使がラッパでも吹いて周りに飛び回りそうな優しい笑顔に惚れたに違いない。
ところで、アレシアと少し会話するだけでキヨはアレシアが一通りでなく頭の良い人だと気付いた。勿論エルドシールからアレシアのことは聞いていたから母親の我が子を守る本能の様な賢さがあるとは思っていた。が、どうも話しているとアレシアにはそれ以上の洞察力や攻撃にも討って出られる知恵があるように思えてならない。
毒にも堂々として動じないアレシアなら後宮でも十分戦い抜けた様な気がする。悠然とお茶を飲む姿を見るにつけ、逃げ一方でやって来たアレシアの姿勢に違和感を覚えて首を傾げてしまう。
「慈母様、質問しても宜しいですか?」
「なんでしょう?」
「慈母様は何故、今まで戦わず逃げる事を選択してきたのですか?」
「そうですねぇ……。戦って、犠牲を覚悟してまで得ようと思う価値のあるものが無かったから、かしら。息子が王になることよりも、贅沢な暮らしよりも、私にはただただ息子と娘の命が大事だった。
幼子は本当に些細な事で命を落とすもの。後宮ならば特に。妊娠中も含めてエルは実際三回程死にかけました。レンカも妊娠中に一回。
幸いレンカは女の子でしたから、生まれてからは命を狙われることは少なかったですけれどね。自分で身を守れない幼子二人を抱えたままでは戦おうにも剣を握る事すら出来ませんし、逃げる事しか考えられませんでした。
それにエルを生んだ時、私自身がグラスロー様に泣きついてしまうような子供でした。あの時既に私は十九でしたから年齢的には大人でしたけれど、精神的には本当に未熟で……。今同じ十九のエルの方が遥かに精神的には大人でしょうね」
穏やかに話すアレシアは思った以上に恐ろしい状況をくぐり抜けて来たのだとキヨは知った。
妊娠中にエルドシールやレンカが死にかけたというなら、アレシア自身も死にかけたということだろう。今現在ですら気の抜けない状況であるのに、これ程ゆったり構えていられるのは比べ物にならないくらい過酷な状況を経験したという過去を持つからかもしれない。
数年前、十九の自分だったら、そんな状況でどう生き延びただろう? 頼る者もいない後宮で十九の自分に子供二人を守りきれたとしたら、それは奇跡に違いないと思った。
「……失礼ですが、慈母様のご家族は?」
「私の生まれた家は、もうこの世にはありません。父母は私が十の時に流行病で亡くなり、父の古い友人であったグラスロー様を頼って私は神殿の見習い尼僧になりました。子供は私一人でしたので家名を継ぐ男子もいません。本来なら私に婿を取るところでしょうが、今となってはそれも無理ですから古い名家ではありましたけれど実質断絶ですわね。そういえば神子様のご家族は? 天上界に残していらしたのでしょう? 心配ではありませんか?」
不意に話を振られてキヨは返答に詰まった。神子はキア神の住まう天上界から遣わされるというのが一般的に信じられていることらしい。
「……そういった未練の無い者の中からキア神は神子を選ぶそうです。私は父を知らず、母とも六歳で別れたきりです。祖父と住んでいたこともありましたけれど、その祖父も数年前に亡くなりました」
「そうですか……天上界でも、悲しみや苦しみがあるのですね……」
アレシアにはキヨの生い立ちは予想外だったのか、痛ましげな顔をしてほうっと小さく溜め息を吐いた。 アレシアと違ってキヨはまだ過去を振り返るのは辛過ぎて、話を打ち切る様に軽く頭を振った。
「それで、どうして今回は戦う気になったのですか?」
「あら、それを神子様がお尋ねになるの?」
「確かに説得したのは私ですけれど……でも、今のお話を聞いて何故説得出来たのか分からなくなってしまいました」
はっきり言って自分だったら、そんな何度も死にかけた場所には絶対戻ってきたくないとキヨは思った。キヨの言葉にアレシアは少し驚いた顔をしてから、柔らかな笑みを浮かべた。
「キヨはキア神の神子様でいらっしゃるけれども、その様に戸惑ってしまう程に幼くていらっしゃるのですね」
幼いと言われてキヨは赤面して俯いた。エルドシールには実年齢を言ってあるが、こちらの世界では見た目とそぐわない実年齢で色々面倒だから十五ということになっている。
「これまで私は命さえ無事ならと、息をひそめて生きてきました。子供達の命の事ばかり考えて、その幸せについては殆ど考えてこなかった。言い換えれば命さえあれば幸せなど二の次。今思えば生き延びるのに必死過ぎたのでしょう。それを間違っていたとは思いません。実際命を落としてしまえばそれで全てが終わりですから」
「私も、そう思います」
記憶は殆どないが、幼い頃死にかけたキヨは大きく頷いた。生きているからこそ、キヨはキア神にも出会う事が出来た。
「でも、もうエルは私が守ってやらなければ生きて行けない幼子ではない。神子様はそれを気付かせてくれました。本当はあの子が自分の意志で王になると言った時、気付くべきことでしたけれど」
「え…エディは、いえ、エルドシール様は自分で王になるって言ったんですか!?」
エルドシールに持っていた印象とはかけ離れたその事実にキヨは驚き、つい勝手に決めた愛称が飛び出す。あの性格からしててっきり運命に流されるままに王様になったのだろうとキヨは思っていた。
驚くキヨにアレシアも目を丸くして驚く。
「神子様はあの子をエディと呼ばれるのですね」
「す、すみません」
そこに驚くとは思わなかったキヨは、珍しく狼狽えて顔を赤くした。
「いいえ、謝る事はありません。可愛らしい呼び名ですわ」
確かにエルよりもエディの方が可愛い気がするとキヨは思った。そしてそんな可愛い愛称を付けちゃった自分を地に沈めたくなるキヨだった。
「そう、私もびっくりしましたよ。あの子が真剣な顔をして王になりますと私に告げたときは。あの子は人の前に出るよりも裏方として黙々と頑張る様な性格でしたし」
「私は王となってからのエルドシール様しか存じ上げませんが、確かにそういった役回りがしっくり来る方だと思います」
外見はともかく性格はいたって真面目で地味だ、とキヨは頷く。
「えぇ、間違っても権力を欲する様な性格ではありませんでしたし王に向いているとも思いませんでしたから、あの時は随分貴族達を恨みました。なぜ私達親子の事などずっと忘れ去っていてくれなかったのかと。
思い出されてしまい、見つけ出されてしまったからには王になる以外の道はあの子にはありませんでした。それでも子供ながらにあの子は、逃れられない運命だからという理由では無く、自分の意志でその道を選び取って歩き出したのでしょうね。それなのに私はまだ耳を塞ぎ、目を閉じて踞っていた。だから私はあの子の力になる事を考えるよりも、弱点にならない様に修道院に閉じこもっていたのです」
一口、お茶を飲んでから静かにカップを置いて、アレシアは身体を改めてキヨに向けて座り直した。
「ただ生き延びるだけの人生なら、エルの人生は生きていながら死んでいるようなもの。たとえ志半ばで倒れようとも、あの子本人が選びとった道ならばあの子の人生は一瞬だとしても光り輝くでしょう。神子様があの子の行く道を照らして下さったのも、きっと神の思し召し……」
そのアレシアの深く静かな眼差しと、告げられた言葉の重さに、キヨは頭を殴られた様な衝撃を覚えた。