暗躍する神子1
修道院に着いたのはかなり夜も更けた頃で、その晩は修道院の外にある巡礼者のための宿泊施設に泊まることになった。
巡礼者の宿泊施設は僧侶なら誰でも無料で使う事が出来る。一般の者は神殿で禊を行い、巡礼証を貰えば使用可能だ。期限は二年と結構長い。これがあれば、一般の者は立ち入る事のできない修道院内へもある程度立ち入る事が許されるし、宿泊施設では一日一回に限り食事も無料で食べることができる。
ただし、巡礼証を得るためにはそれ相応のお布施が必要とされる。お布施であるからどの程度払うかは本来個々人の自由であるが、一応年収の十分の一が目安とされていた。
エルドシールも母を訪れる時は必ず主神殿で禊をし、かなりまとまった金をお布施として納めるようにしていた。その代わりといっては何だが、連れて行かざるをえない護衛達も巡礼証無しでも宿泊施設を利用できる許可を特別に貰っていた。
修道院の朝は早い。エルドシールは早朝の礼拝には参加するつもりでいたので遅めの夕食を取るとすぐに床に着いた。起床予定時間を告げるとキヨは乗り馴れない馬車のせいで尻が痛くてたまらないし、そんなに早く起きれないと文句を言っていたが、態度の割にはひ弱だなと正直な感想を述べたところ絶対起きてやると息巻いていた。予想通り負けず嫌いのようだ。
明けて翌日、まだ夜の闇が微妙に残る早朝、宣言通り不機嫌な顔をしながらも予定通り起床したキヨを伴い、エルドシールは修道院の門をくぐった。
門を開けた顔見知りの老尼僧はエルドシールに連れられた若い尼僧に驚いたようだったが、何も聞かずに笑顔で迎え入れてくれた。隣でキヨがふっと緊張を解くのを感じてエルドシールも思わず微笑んだ。
聖堂の末席で早朝礼拝に参加して遠目で母の姿を確認したエルドシールは、何時もと変らぬ様子にほっと安堵の吐息を吐いた。手紙のやりとりは頻繁にしていたが、母の姿を目にするのは殆ど一年ぶりである。キヨはと言えば、先程までの不機嫌な表情は消えて物珍しそうに礼拝の様子と聖堂の彫刻や絵画などを見ていた。
礼拝が終わると一旦宿泊施設に戻って朝食を取り、再び修道院の門をくぐる。
いよいよ母にキヨを引き合わせる時が来た。修道院長室へと先導する尼僧の後にエルドシールとキヨが続く。道すがら、エルドシールはだんだんと緊張して来る自分に顔を顰め、腹が痛くなりそうだと思った。
キヨの立てた計画には、母も巻き込む必要があった。エルドシールは母上は巻き込んで欲しくないと再三言ったのだが、信用出来る人間が少な過ぎる、今までボケッとしてたツケなんだから我慢しろと押し切られた。
しかしながら、いくらキヨでも母は首を縦に振らないだろうとエルドシールは思っていた。母アレシアは相当な頑固者で、エルドシールの知る限り一歩たりとも修道院からは二度と出ないと言い続けて来たし、実際それを頑なに守り続けて来た。王宮に来れば否応無しに様々な事に心煩わされ、命の危険も増すだろう。何も知らなかった十四の頃は一緒に王宮に来て欲しいと願ったものだが、今では是非とも修道院から一歩も出ずに平穏の内に暮らしていて欲しいと思う。
だから結果的にキヨの計画は諦めざるをえない状況になるだろうと予想し、そうなればあんな無茶をせずに済むとほっとする反面、残念だという気持ちが沸き上がる複雑な気分に陥っていた。
エルドシールとしても計画が上手くいったら、これ程嬉しいことはないのは確かなのである。様々に思いを巡らせていると、あっという間に目的地についてしまった。
「修道院長様、面会希望者をお連れしました」
「お入りなさい」
ノックの音に続いて案内係の尼僧の声が響く。中からは落ち着いた、しかし張りのある若々しい声が入室を許可した。
「よく来ましたね。エルドシール。そして新しき妹」
何時もと変らぬ母の笑顔にエルドシールは息子としての笑顔を返し、礼儀作法にのっとって膝を折った。
「慈母様には恙無きご様子、まことに重畳。今日は神官長グラスロー様よりお預かりした尼僧見習いキヨを送り届けに参りました」
慈母とは位の高い尼僧に対する尊称である。そして修道院内では俗世の地位は無効、もっとも身分が高いのは現在修道院長であるアレシアで、エルドシールは一番下である。そして親子というのは俗世での関係であるので、二人きりにならない限り親子として会話する事は無い。修道院内で妹といえば後輩尼僧、弟といえば後輩僧侶のことで、息子や娘は存在しない。とはいえ、俗世の地位やしがらみを修道院内に持ち込む者は少なくない。エルドシールのように厳格に守っている方が稀である。
エルドシールに倣ってキヨも膝を折り、深々と頭を下げる。
「慈母様、尼僧見習いキヨにございます。未熟な我が身を妹として受け入れて下さった事、深く感謝致します。早速ではございますが、神官長より内密のお話をお預かりして参りました。お人払いをお願い出来ますでしょうか?」
キヨの言葉にアレシアは驚いた顔をしたが、すぐに頷いて部屋の外に控えていた尼僧に人払いを命じた。
ここまでは予定通りである。
「あなたも部屋の外へお願い出来ますか? 不届きものがいないとも限りませんから」
朗らかに告げられたキヨの言葉は完全に予定外である。エルドシールはキヨと母を二人きりにすることに不安を感じ、驚いた顔をしている母を心配げにちらりと見たが、断るのも不自然なため渋い顔をしながらも了承し、修道院長室の前で警護の代わりを務めた。
腕組みして厳しい顔で仁王立ちしている姿は、なまじ容姿が良いだけに怒れる闘神のようで、うっかりそのエルドシールの姿を見てしまった尼僧達をぎょっとさせた。その実、微かに漏れ聞こえて来る会話を扉に耳を押し当てて聞きたい、という衝動を必死で抑えているだけだとは誰も気付かない。
そして数十分後、再び開かれた扉の向こうに立っていたのは泣いた形跡を残す母の笑顔と、神子スマイルを纏ったキヨだった。
「慈母様は例の件ご了承下さいました」
晴れやかに告げられた言葉に、エルドシールが固まったのは言うまでもない。
副宰相ドールーズ伯爵は柄にも無く鼻歌でも歌いたい程に上機嫌であった。先程宰相レイゼン公爵に呼ばれ、養女を一人迎える様にと言い渡されたのである。詳細はこうだ。
近くご生母様が国王陛下の正妃選びの手伝い、及び婚儀にご出席なさる為に王宮に上がられる。この度のことは還俗ではなく、陛下の願いを聞き入れ、尼僧として一時的な出仕という形をとる。それに伴って何時も身の回りの世話をしている尼僧見習いの娘を侍女として連れて行きたいが、娘は平民なので王宮に上がるには身分が足りない。そこで適当な貴族の養女に迎えることで体裁を整えよ、という主旨の書簡が陛下からレイゼン公爵に届けられた。ちなみにご生母はれっきとした貴族の血を引いている。ただし随分昔に廃れてしまった名家の末裔で、実態は平民同然である。
その書簡の最後にドールーズ伯爵なら家族も無いようだし、形だけの父にするには面倒が無くてよいのではないかと書かれていた。
通常家族のある貴族が養子を迎える際には、相続などで後々問題が起きないように最低十人の立会人を立て、事細かに養子に与えられる権利を決めなければならない。
ちなみに出家して僧籍に入れば、一切の権利を失う。侍女はいずれご生母と共に修道院に戻るから、本当に一時的な形だけの養女なので面倒な手続きは避けられればそれに越した事は無い。
レイゼン公爵にしても何ら懐の痛まない陛下の依頼を快く受けて、恩を売っておく事に越した事はない。便宜を図ったのがレイゼン公爵と知れば、娘フィリシティアに対するご生母の心証も良くなるであろう。ドールーズが自分の一派であることも都合が良い。形だけとはいえ父になるのだから機会があれば養女に迎える侍女に、フィリシティアをご生母に売り込む様に吹き込めと遠回しに指示を出した。
そんなレイゼン公爵を暢気なものだと内心嘲笑いながら、ドールーズは養子縁組の書類を整えるべく迅速に動いた。一日でも早く娘を養女に向かえ、側室となるべく教育を施さねばならない。
そう、ドールーズはエルドシールが自分の策を受け入れて行動を始めたと判断したのである。ドールーズに直接知らせが来ないのも慎重なエルドシールらしいと疑問にも思わず、養女に迎える予定の娘の手の上で転がされているとは知る由もなかった。