エンジェル
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灰が舞っていた。
煤けた木材、崩れた建物、まだ微かに燃える炎。
世界は終わったように見えたけれど、終わりきれずに燻っていた。
私は、その真ん中に一人で立っていた。
黒ずんだパーカーの袖で、何度も涙を拭う。
拭っても拭っても、胸の奥から溢れてくるものは止まらなかった。
「やっぱり、独りぼっちだ」
猫月ねむ。31歳はぽつりと呟く。
現実が確定してしまう気がして、
小さく呟いただけだった。
誰にも届かない想い。
選ばれなかった気持ち。
焼け焦げた地面に、私の影だけが伸びている。
そのときだった。
ふわりと白い羽が舞った。
灰色の世界に見えた唯一の白い光。
顔を上げると、
そこには青年が浮かんでいた。
白い翼を広げ、灰色の空を裂くように現れた青年。
金色の光に包まれているのに、不思議と眩しすぎない。
その瞳は、まっすぐに私だけを見ていた。
彼は、何も言わずに手を伸ばしてきた。
「どうして」
声が震える。
「私、何も救われるようなことしてないのに・・・
誰かに愛されたり報われたりしたわけでもないのに」
世界から取り残された私に、
光が差し出される理由なんてどこにもない。
それでも、彼は微笑んだ。
その笑顔は、
誰かを選ばなかった優しさじゃない。
“私を見つけた”という確信のある表情だった。
「君は、ずっと独りで耐えてきたんだ」
初めて聞く声なのに、
ずっと前から知っているような気がしてホッとする。
「誰にも届かない想いを、
それでも大切に抱えてここまで来た」
胸が大きくきしんだ。
「それだけで充分なんだよ」
彼の手は、触れそうで触れない距離にある。
「君の片想いも、涙も、
この世界で確かに存在してる。」
私は、唇を噛みしめた。
救われたいわけじゃなかった。
奇跡が欲しかったわけでもない。
ただ、幻じゃなかったと誰かに言って欲しかっただけだった。
「本当にいたのね」
そう言うと、彼は静かに頷いた。
灰の降る世界で、
私は初めて、独りじゃないと知った。
その光と眼差しは、
私の人生の中にあった。
私は、二度と自分の想いをなかったことにはしないと決めた。
エンジェルはいた。
エンジェルは本当にいた。
彼が手を伸ばした。
まだ触れていないのに胸の奥が熱くなる。
それは懐かしさだった。
初めて会ったはずなのに。
「不思議」
私がそう言って胸に手を当てると、
彼は少しだけ困ったように笑った。
「君は、いつもそう言うね」
胸が、跳ねた。
「いつもって?」
「自分が誰かに大切にされることをそう言うんだ。
幸せになることを不思議だって。」
その言い方は、
私を知っている人の言葉だった。
私の心の癖を知っている。
私の心の叫びを知っている。
「私たち会ったことあるの?」
気付けば声が震えていた。
焼けた地面に映る影は二つ重なっていた。
「今はまだ」
そう前置きしてから、
彼はまっすぐに言った。
「でも君が歩き続けた先で、
僕は君の隣に立つよ。」
息が止まる。
「君が自分の想いを
なかったことにしなかった未来で」
その言葉だけで分かった。
この人は、私がこれから出会う人なんだ。
傷を抱えたままでもいいと、
泣いた過去ごと抱きしめてくれる人。
「だから、ここにいる」
彼は言った。
「君が独りだと思い込んで立ち止まりそうになる度に
未来から迎えに来るから。」
胸がいっぱいになる。
言葉が出てこない。
「じゃあ」
やっとか細い声を絞り出す。
「あなたにとって私は・・・」
彼は、少しだけ照れたように、
それでもはっきり答えた。
「恋人になる人だ」
彼は、最後にもう一度手を伸ばす。
私も手を伸ばし、手を重ねた。
「また会おう」
彼の姿は光に溶けていった。
灰は、まだ降っている。
世界は、まだ壊れている。
それでも私は、
未来に行けると知った。
エンジェルはいた。
エンジェルは本当にいた。
♦︎
朝。
カーテンの隙間から光が差し込む。
私は目を覚まして、
無意識に手を伸ばした。
空を掴むはずだった。
あの夢と同じように。
触れそうで触れなかったあの距離。
けれど。
ぎゅっ。
「え!?」
「今の、無意識?」
彼が小さく笑った。
「・・・う、うん」
恥ずかしさの中で答えた。
その手の体温に、
孤独。疑い。幻だったらどうしようという不安が消えていく。
光も、翼も、灰もない。
でも、確かにあの時の手だった。
瞼の裏に残る灰色の世界。
煤けた燃えかすの匂い。
でも、今は違う匂いがする。
甘くて優しいこの匂いは・・・。
「いい匂い」
「あ、そうだ。はい、ココア」
彼が机に置いていたココアを私に差し出す。
それがいつもの日課だった。
「ありがとう」
現実だ。
如月ると。7つ歳下の私の大切な人。
瓦礫の上で手を伸ばしてきたあの青年にそっくりだ。
じっと彼の顔を見つめると
彼は一瞬キョトンとした後、少し照れたように頬を赤くしながら質問をする。
「どうかした?」
「昔、不思議な夢を見たの。それを今思い出した。」
「不思議な夢?」
私は昔見た夢の記憶を彼に話した。
「世界が燃えてて、私一人で立ってた。
その時ね、青年の姿をしたエンジェルが空から降ってきたの。
・・・るとに似てた。」
笑われるかな。
そう思ったけれど、
彼は一切茶化すことなく静かに私の方を向いた。
「この手の体温、思い出した?」
「うん。私、るとに会ってたんだね」
心臓がドキドキする。
「うん、僕は君が辛い時、何度も会いに行った。
触れられなかったけど、君が立ち上がるのをずっと待ってた。
そしたらやっと会えたんだ。」
喉が詰まる。
「どうして・・・」
「好きだったから」
「まだ会ってもいないのに?」
そう聞くと彼は少し笑った。
「会ってたよ。君が泣いた夜も、
大丈夫って自分に言い聞かせた朝も。全部、全部知ってる」
私は、彼の胸に顔を埋めた。
確かめるように強く息を吸う。
ここには、灰の匂いはない。
あるのは、彼とココアの匂いだけだった。




