第9話 「報告できない報告」
警視庁・捜査会議室。
夜遅くにもかかわらず、
室内には緊張した空気が漂っていた。
氷室は資料を机に並べ、
深呼吸してから口を開いた。
「……報告します。
昨夜、工場地帯の倉庫において“被疑者と思われる人物”を目撃しました」
上司の武田課長が腕を組む。
「その人物とは?」
氷室は、言い淀む。
本当は名前を言いたくない。
言ってしまえば、
捜査そのものが“常識の外”へ飛び出してしまう。
だが、もう隠す理由はなかった。
「……城ヶ崎悠。
東京地裁の裁判官です」
会議室の空気が、一瞬止まった。
法の守り手である裁判官。
その名前が容疑にかかるというだけで、衝撃は大きい。
武田課長が低い声で問う。
「氷室……お前、正気か?
裁判官を犯人扱いするなら、それ相応の証拠が必要だぞ」
「証拠は……ありません」
その瞬間、会議室の温度が下がった。
「じゃあ、なぜそんなことを?」
氷室は言葉を選ばず、正直に言うしかなかった。
「――人が“消えた”んです」
会議室の視線が一斉に氷室へ突き刺さる。
彼は震える手で資料を指した。
「倉庫には、複数の人間がいた形跡がある。
縄、引きずり跡、倒れた痕跡……
確かに“そこにいたはず”なんです」
武田課長は黙ったまま氷室を見る。
氷室は続けた。
「だが、遺体も血痕も指紋も、
爪痕ひとつ残っていない。
人が“一瞬で消えた”としか……説明がつかない」
一瞬、会議室の空気がざわつく。
課長が声を潜める。
「……それを“裁判官”の仕業だと言うのか?」
「見たんです。
倉庫から出てくる城ヶ崎を」
氷室の声は震えていた。
「ただ……ただ出てきたわけじゃない。
あの時……
世界から音が消えたんです」
「音が……消えた?」
「はい。
風も、車の走る音も、遠くの工場の稼働音も、
すべて一瞬で消えた。
僕の心臓の鼓動すら、本当に……消えていた」
氷室の言葉に、会議室の空気が変わった。
誰もが否定したい。
だが氷室の顔は、嘘をついている顔ではなかった。
武田課長は重い沈黙の後、呟く。
「……常識では、説明できないな」
氷室は静かに頷いた。
「はい。
人間の仕業とは思えません。
ですが──
城ヶ崎悠の前だけ、世界がおかしくなるんです」
会議室の空気がさらに張り詰める。
◆
その時──
会議室の扉がノックされた。
捜査員が駆け込んでくる。
「か、課長! 新しい情報が!」
武田課長が眉をひそめる。
「何だ」
捜査員は震える手でタブレットを差し出した。
「数時間前……
別の倉庫が“突然消えた”との通報がありました」
「消えた?」
「はい……!
建物ごと、跡形もなく……ただの空き地に……」
会議室に、氷が落ちたような沈黙が走った。
氷室の背筋が凍りつく。
(……まただ。
あの“静寂”のあとと同じだ)
課長が低く呟いた。
「氷室。
……お前の報告、否定できなくなってきたな」
氷室は拳を強く握った。
(やっぱり……
城ヶ崎悠は事件に関わっている)
だが氷室はまだ知らない。
その“新しく消えた倉庫”の近くで──
城ヶ崎悠の姿が複数の目撃者によって報告されていることを。
そして……
そのうちの一人は、
氷室のよく知る人物だった。
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