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第8話 「消えた倉庫」

氷室は、

夜の工業地帯へ車を停めた。


捜査線上に浮かんだ “一つの倉庫”。

過去の被害者――そして昨夜失踪した鹿島弁護士が

最後に目撃された方向。


氷室は胸の奥でざわつくものを感じていた。


(ここだ……

 嫌な気配が、濃すぎる)


夜風は穏やかなのに、

倉庫の周囲だけ空気が淀んでいるように思えた。


歩を進めると、

倉庫の入口に淡く光る“靴跡のような”影が見えた。


(……靴跡?)


だが近づくと背筋が凍る。


それは靴跡ではない。

床に落ちた“影”が、

光源もないのにそこだけ濃く沈んでいた。


氷室の呼吸が止まる。


(……この影、形が……人の……?)


だが風が吹くと、影はすっと消えた。


錯覚なのか。

しかし錯覚にしては“濃すぎた”。


氷室は拳銃に手をかけ、

倉庫の扉に手をかけた。


ガラ──


その瞬間。


倉庫の中から、

“何も聞こえない”。


いや。


何も“聞こえなくさせられて”いる。


氷室の鼓膜が、圧迫される。


(……なんだこれは……?)


空気が歪むように、

世界の“音”が一瞬で消失していた。


氷室は歯を食いしばって中に足を踏み入れた。



倉庫の中は暗い。

懐中電灯で照らすと、

そこにあるはずの「人間」の姿はどこにもない。


ただ……

空間に残る“異常な静けさ”だけ。


そして何より、氷室は気づいた。


(……ここに“誰か”がいた)


床にわずかな擦れ跡。

空気の流れが乱れた線。

複数の人間がいた形跡。


なのに──


血痕すらない。

道具ひとつ落ちていない。


(やっぱり……人間の“消失”なんて……

 自然に起きるはずがない)


氷室は倉庫を照らしながら歩いた。


と、その時。


倉庫の奥、

非常灯の薄い緑の光の中に、

“人の影”が一瞬だけ揺れた。


氷室の心臓が跳ねる。


「……誰だ!」


拳銃を構え、懐中電灯の光を向ける。


光が届いた瞬間──

そこにはもう誰もいなかった。


だが。


風もないのに、

黒い影だけがゆっくり移動していった。


人間の動きではない。


氷室は喉がひりついた。


(こんな動き……人間にできるわけが……)


影は倉庫の出口へ向かっていた。


氷室は追った。


倉庫を飛び出すと、

夜の路地の向こうに“誰か”の背中が見えた。


黒いコート。

乱れのない姿勢。

整った後ろ姿。


氷室はその“影の奥の人物”を知っていた。


(……城ヶ崎……裁判官)


息が止まった。


悠は振り返らない。

歩幅は一定。

だが氷室には理解できた。


(あの男……

 人が消えた直後のこの倉庫から出てきた……?)


偶然ではない。

氷室の直感は叫んでいた。


悠の背中に向かって叫ぼうとした瞬間──


“空気”が、ふっと止まった。


風が消えた。

音が消えた。

街灯の下の埃すら止まったように見えた。


まるで“世界そのものが”

城ヶ崎悠を中心に止まったかのように。


氷室の指先が痺れる。


(……なんだ……この圧)


悠はゆっくり立ち止まり、

ゆっくり首だけ振り返った。


その目は静かで、

怒りも、焦りも、

何ひとつ読み取れない。


ただ──

見透かす目。


氷室の呼吸が止まりそうになる。


悠は何も言わない。

近づきもしない。

ただ、真っ直ぐに氷室を見ていた。


その瞬間。


風が吹き戻り、

ビルの電灯が瞬き、

夜の音が一気に戻ってきた。


まるで“さっきまでの静寂”が幻のように。


だが氷室の動悸は止まらなかった。


(……あいつは、

 ただの裁判官じゃない)


悠は視線を外し、

何事もなかったかのように歩き去っていく。


氷室は拳銃を握りしめながら、

冷たい汗を流した。


(あいつは……

 事件の“外側”じゃない……)

(事件が追っているものの“中心にいる”)


夜の静寂が、

氷室を包んだ。



遠ざかる悠の背中。


その足音は──

やはり、最後まで一度も響かなかった。


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