第8話 「消えた倉庫」
氷室は、
夜の工業地帯へ車を停めた。
捜査線上に浮かんだ “一つの倉庫”。
過去の被害者――そして昨夜失踪した鹿島弁護士が
最後に目撃された方向。
氷室は胸の奥でざわつくものを感じていた。
(ここだ……
嫌な気配が、濃すぎる)
夜風は穏やかなのに、
倉庫の周囲だけ空気が淀んでいるように思えた。
歩を進めると、
倉庫の入口に淡く光る“靴跡のような”影が見えた。
(……靴跡?)
だが近づくと背筋が凍る。
それは靴跡ではない。
床に落ちた“影”が、
光源もないのにそこだけ濃く沈んでいた。
氷室の呼吸が止まる。
(……この影、形が……人の……?)
だが風が吹くと、影はすっと消えた。
錯覚なのか。
しかし錯覚にしては“濃すぎた”。
氷室は拳銃に手をかけ、
倉庫の扉に手をかけた。
ガラ──
その瞬間。
倉庫の中から、
“何も聞こえない”。
いや。
何も“聞こえなくさせられて”いる。
氷室の鼓膜が、圧迫される。
(……なんだこれは……?)
空気が歪むように、
世界の“音”が一瞬で消失していた。
氷室は歯を食いしばって中に足を踏み入れた。
◆
倉庫の中は暗い。
懐中電灯で照らすと、
そこにあるはずの「人間」の姿はどこにもない。
ただ……
空間に残る“異常な静けさ”だけ。
そして何より、氷室は気づいた。
(……ここに“誰か”がいた)
床にわずかな擦れ跡。
空気の流れが乱れた線。
複数の人間がいた形跡。
なのに──
血痕すらない。
道具ひとつ落ちていない。
(やっぱり……人間の“消失”なんて……
自然に起きるはずがない)
氷室は倉庫を照らしながら歩いた。
と、その時。
倉庫の奥、
非常灯の薄い緑の光の中に、
“人の影”が一瞬だけ揺れた。
氷室の心臓が跳ねる。
「……誰だ!」
拳銃を構え、懐中電灯の光を向ける。
光が届いた瞬間──
そこにはもう誰もいなかった。
だが。
風もないのに、
黒い影だけがゆっくり移動していった。
人間の動きではない。
氷室は喉がひりついた。
(こんな動き……人間にできるわけが……)
影は倉庫の出口へ向かっていた。
氷室は追った。
倉庫を飛び出すと、
夜の路地の向こうに“誰か”の背中が見えた。
黒いコート。
乱れのない姿勢。
整った後ろ姿。
氷室はその“影の奥の人物”を知っていた。
(……城ヶ崎……裁判官)
息が止まった。
悠は振り返らない。
歩幅は一定。
だが氷室には理解できた。
(あの男……
人が消えた直後のこの倉庫から出てきた……?)
偶然ではない。
氷室の直感は叫んでいた。
悠の背中に向かって叫ぼうとした瞬間──
“空気”が、ふっと止まった。
風が消えた。
音が消えた。
街灯の下の埃すら止まったように見えた。
まるで“世界そのものが”
城ヶ崎悠を中心に止まったかのように。
氷室の指先が痺れる。
(……なんだ……この圧)
悠はゆっくり立ち止まり、
ゆっくり首だけ振り返った。
その目は静かで、
怒りも、焦りも、
何ひとつ読み取れない。
ただ──
見透かす目。
氷室の呼吸が止まりそうになる。
悠は何も言わない。
近づきもしない。
ただ、真っ直ぐに氷室を見ていた。
その瞬間。
風が吹き戻り、
ビルの電灯が瞬き、
夜の音が一気に戻ってきた。
まるで“さっきまでの静寂”が幻のように。
だが氷室の動悸は止まらなかった。
(……あいつは、
ただの裁判官じゃない)
悠は視線を外し、
何事もなかったかのように歩き去っていく。
氷室は拳銃を握りしめながら、
冷たい汗を流した。
(あいつは……
事件の“外側”じゃない……)
(事件が追っているものの“中心にいる”)
夜の静寂が、
氷室を包んだ。
◆
遠ざかる悠の背中。
その足音は──
やはり、最後まで一度も響かなかった。
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