第6話 「正義の影」
深夜の裁判所は、
昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
蛍光灯が最小限の明かりだけ点いており、
廊下は薄い青の光に沈んでいる。
氷室は懐中電灯を片手に、
重い扉を押し開けた。
「……やはり、ここの空気はおかしいな」
彼の感覚は、
事件に関わる“異常な静けさ”が
この建物にも漂っていることを告げていた。
警備員が近づいてきて、氷室に軽く会釈した。
「こんな時間に警察の方が来られるとは……
なにか、事件が?」
氷室は名刺を見せ、淡々と答える。
「失踪者の足取りを追っています。
裁判所関係者が続けて姿を消していますので」
警備員の顔に不安が走る。
「……まさか、弁護士の鹿島先生も?」
「ええ。
消えた時間帯と場所の関係性を調べています」
そう言って廊下を進むと──
ふと、視界の端に“よく見知った影”が写った。
黒いロングコート、眼鏡、端正な輪郭。
裁判官・城ヶ崎悠。
悠は一人で書類を抱え、
別棟へ向かっているようだった。
氷室は声をかけようとしたが、
その一瞬。
悠の歩き方に、氷室は違和感を覚えた。
(……音が、ない?)
深夜の廊下は無音に近いが、
靴音くらいは響くものだ。
だが悠からは、
まるで足が床に触れていないかのような“静けさ”があった。
(いや、まさか……気のせいだ)
理性が否定する一方で、
感覚は確かに告げていた。
氷室は迷いながら声をかけた。
「城ヶ崎裁判官」
悠が振り返る。
ゆっくり、静かに。
「……氷室警部補。
こんな時間にお勤めですか」
氷室は少し間を置いて答える。
「弁護士・鹿島の件で、
裁判所に何か手がかりがないかと思いまして」
「そうですか」
悠の表情は穏やかだ。
だがその穏やかさが、逆に“壁”のように感じられた。
氷室は、
悠の周囲の空気が妙に“密”であることに気づいた。
沈黙の中に、圧迫感がある。
(何だ、この感じは……)
氷室は平静を装いながら質問した。
「城ヶ崎さんは……鹿島弁護士の様子を
最後に見た人物のひとりだと伺っています」
「ええ。
彼は、ひどく怯えていました」
怯えていた──
その言葉には、一切の感情がない。
ただ事実を述べるだけの、冷たい音。
「……なぜ怯えていると感じたんです?」
「わかりますよ。
人を見る仕事ですから」
どこか“含み”を持たせた言い方だった。
氷室の直感が、強く疼く。
(やはり……何かを知っている)
「鹿島はあなたに、何か言っていませんでしたか?」
「さあ」
悠は静かに首を傾げた。
「……彼は怯えていた。
ただ、それだけです」
その時──
裁判所の奥から“風の抜ける音”がした。
夜の建物で風が吹くことなど滅多にない。
氷室は反射的にそちらへ身を向けたが、
ほんの一瞬、
視界の端で“悠の表情がわずかに強張った”ように見えた。
だが振り返ったときには、
もういつもの冷静な顔に戻っていた。
「失礼。私は業務がありますので」
悠は静かに歩き出した。
その足音は──
最後まで、氷室には聞こえなかった。
◆
廊下の角まで歩いたところで、
悠は立ち止まり、
ほんの微かに息を吐いた。
(……氷室警部補。
やはり、鋭い)
“静寂”はまだ、
この建物から離れない。
夜が呼んでいる。
裁かなければならない者が、
まだ残っているから。
悠は表情を変えぬまま、
消えるように廊下の奥へと消えていった。
◆
氷室はしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸に残った違和感は、
拭っても拭い切れない。
(……あの男は、ただの裁判官じゃない)
氷室は確信に近い何かを覚えた。
“音の欠落”
“静寂の異常”
“順番に消える関係者”
“裁判所にまとわりつく影”
そして──
異常に静かな裁判官・城ヶ崎悠
氷室の胸に、初めて“疑念”が形を成した。
(もしや……
あの男が“中心”にいるのではないか)
夜の幕が静かに降りていく。
氷室の中で、
事件の像がゆっくりと組み上がり始めていた。
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