第5話 「静寂の到来」
鹿島が姿を消す十数分前──。
夕陽が沈み、街が夜に沈み始めた頃、
鹿島は人気のない裏通りを歩いていた。
足取りは不自然に早いが、
時折立ち止まり、
背後を確認するように振り返る。
胸の奥で、心臓が痛いほど跳ねていた。
(いけない……行くべきじゃない……)
そう思いながらも、
足は勝手に“あの場所”へ向かっていく。
数日前。
鹿島が証人・菅原と接触した倉庫。
その記憶が、
耳の奥でこびりついていた。
(見なきゃ……いけない)
(確かめないと……もう俺は……)
歯を食いしばった瞬間。
風が止んだ。
まるで世界が息を潜めたように、
ふっと音が消える。
鹿島の体が硬直する。
(……きた)
背中を冷たい指で撫でられるような感覚。
足元の砂が風で転がる音も、
遠くの車の走行音も、
全部消えた。
鹿島はゆっくり後ろを振り向いた。
暗い通路。
街灯の光が届かない隙間。
その闇の中に──
“人の形”があった。
姿は見えない。
輪郭すら曖昧だ。
ただ、そこだけ
光が吸い込まれるように暗かった。
(……あれだ)
鹿島の足が震えた。
身を引きたいのに動けない。
声を出したいのに喉が固まっている。
その“影”は、
音もなく一歩近づいた。
その瞬間──
鹿島の呼吸が止まった。
空気が凍りつくような静寂。
鼓膜の奥がギシ、と軋む。
影の中から、
まるで耳の裏で囁かれたような声が漏れた。
「──あなたは、何を見た?」
鹿島の喉が勝手に言葉を吐き出す。
「み、見てない……! 俺は、何も……!」
影はさらに近づく。
距離は十歩。
五歩。
三歩。
鹿島の視界が揺れた。
(やめて、来るな……!)
「あなたの行いは、消えない」
「や……やめて……!」
「そして──
あなたが見たものも……消えない」
その瞬間、鹿島は悟った。
(ああ……“菅原と同じだ”)
影が最後の一歩を踏み出した。
空気が弾けるように揺れたかと思うと、
世界から音が完全に消えた。
鹿島の叫び声が、
声帯を震わせる前に消失する。
影が、鹿島の肩に触れた。
そして次の瞬間──
鹿島の姿は、
その場から“音ごと”消えた。
何も残らない。
足跡も、衣服の繊維も、
空気の乱れすら。
ただ、
静寂だけが残った。
◆
「……またか」
同じ頃。
氷室は警察署の屋上で
報告書を握りつぶしそうになっていた。
「氷室さん、鹿島弁護士が……失踪しました」
若い刑事が青ざめた顔で言う。
氷室は深く息を吸い、
夜の街を見下ろした。
(やはり……動いた)
事件の“順番”は確実に進んでいる。
裁判関係者、証言者、弁護士。
次に狙われるのは──
(……裁く側か)
氷室の胸がざわつく。
「全員に通達だ。
今回の失踪は、前の案件と“同一犯”の可能性が高い。
そして──
“裁判所周辺を最優先で調べろ”」
若い刑事は驚いた。
「裁判所……?」
「順番でいけば、次に何かが起きるのは“そこ”だ」
氷室は言い切った。
根拠は薄い。
だが、直感が異様な不快感を訴えている。
そこに、“何か”が潜んでいると。
胸の奥で、冷たいものが広がった。
◆
裁判所の廊下を、
城ヶ崎悠はゆっくりと歩いていた。
鹿島が消えたという報せを受けてから、
胸のざわつきは消えない。
(夜は……また誰かを連れていった)
悠の歩調は静かだが、
その奥には鋭い緊張が潜んでいた。
夜の扉がひらく音が、
どこかで微かに響いた気がした。
そして──
悠は気づく。
(“あれ”は、まだ終わっていない)
静寂が、
また人を呑み込んだのだ。
裁かなければならない。
誰が、
何を、
どのように。
城ヶ崎悠の足が、
まっすぐ闇へ向かっていく。
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