第4話 「崩れゆく口元」
裁判所から見える小さな公園の端に、
弁護士・鹿島は背を丸めるように座っていた。
昼の喧騒が少し離れたこの場所には届かない。
風に揺れる木の葉だけが音を立てている。
手に握っているペットボトルの水は、
もうぬるくなっていた。
(……昨日の夜から、一度も眠れていない)
目の奥がじりじりと痛む。
だが、閉じようとしてもまぶたが震えてしまう。
鹿島は首を押さえ、深呼吸を繰り返した。
(あの証人……なぜ、突然消えた?)
(いや……わかってる。わかってるはずなんだ)
頭に浮かぶのは、
あの日、倉庫で交わしたやり取り。
自分が依頼人のために“ギリギリの線”を渡った瞬間。
証人に金を渡し、
虚偽に近い証言を依頼した夜。
“最後に見た”証人の顔。
そして──その数日後の失踪。
鹿島の喉が、ひきつけるように鳴った。
(でも……なぜ“あんな消え方”なんだ)
普通じゃない。
連絡が取れない程度ではない。
家には生活の痕跡が残されたまま。
財布、携帯、日用品──すべてそこにある。
ただ人間だけが、
空気に溶けるように消えている。
鹿島の震える指先が、ズボンの生地を掴んだ。
(何かに……触れた。
俺は“知らないもの”を見たんじゃないか)
公園の向こうで、
子どもたちの笑い声が遠く聞こえた。
その平和な音が逆に胸を刺した。
肩越しに、
誰かの気配を感じたのはその時だ。
鹿島は反射的に振り返った。
だがそこには誰もいない。
(まただ……)
昨日の夜から、何度も感じる“視線”。
気のせいだと自分に言い聞かせるほど、
その感覚は強まっていった。
「鹿島先生?」
背後から声がして、鹿島は跳ねるように立ち上がった。
振り返ると、
昨日の裁判を担当した書記官が立っていた。
「あ……ああ……君か……」
「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
鹿島は曖昧に笑い、手で顔を覆った。
「少し……寝不足でね。だいじょう……ぶだ」
声は震えていた。
書記官は心配そうに言葉を続ける。
「実は……裁判長が、
あなたの証人について“気にしていた”と聞きまして」
鹿島の心臓が跳ねた。
「き……気に……?」
「はい。失踪の件を含めて、
あなたが何か隠しているのでは、と」
言った瞬間、
書記官自身が「あっ」と口を押えた。
「す、すみません! 裁判長の真意までは……!」
鹿島は、ゆっくり立ち上がった。
(気づかれた……?)
(いや、違う。まだ確証はないはずだ……
だが……あの裁判官は……)
鹿島の脳裏に、昨日の城ヶ崎悠の“目”が浮かぶ。
凪のように静かで、
一点の濁りもない“裁く目”。
(あれは……“見通している目”だ)
(俺の嘘も、証人の裏も……全部)
足がふらつき、ベンチに手をついた。
書記官が慌てて駆け寄る。
「鹿島先生! 本当に大丈夫ですか?」
「……すまない。
少し、休ませてくれ」
そう言うと鹿島はゆっくり公園を離れた。
歩きながら、胸に手を当てる。
(逃げたい……)
(でも、逃げられない……)
昼の光は眩しいのに、
視界のどこかに必ず“影”が混ざる。
鹿島は何度も振り返った。
誰もいない。
ただ、それでも──
気配だけが皮膚にまとわりつくように離れなかった。
◆
その頃。
裁判所の地下駐車場で、
城ヶ崎悠は車の鍵を指に絡めながら、
ゆっくりと歩いていた。
(……鹿島の様子)
彼は今日の法廷で気づいていた。
鹿島の口元がわずかに震え、
証言書を持つ手が汗で湿っていたこと。
そして──
昼前に交わした言葉の違和感。
(彼は“何かを恐れている”)
裁判の展開ではない。
判決でもない。
法廷でも、警察でもない。
もっと別の“存在”を。
悠の指先が止まる。
車の横に立ったまま、
夜の欠片のような冷たい感覚が
胸の奥で静かに膨らんでいく。
(彼の恐怖の中心に……何がある?)
と、その時。
携帯が震えた。
画面には、
裁判所からの内部連絡が表示されている。
“弁護士・鹿島 所在不明”
悠の視線がわずかに揺れた。
(……早すぎる)
胸の奥で、
“ざわつき”がまた大きくなる。
悠は車に乗らず、
そのまま駐車場を後にした。
(夜が……動き始めている)
沈む夕陽の中へと、
静かに歩き出した。
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