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第3話 「消えた足音」

夜の警察署には、昼よりも重い空気が漂っていた。

蛍光灯の白い光だけが、

静まり返ったフロアを均等に照らしている。

その中で、氷室はひとり机に向かい、

事件資料を何度もめくっていた。


(同じだ。何度見ても、全部同じだ)


被害者たちは、

“裁判にかけられる直前の人間”、

あるいは“立証の鍵になる人物”。

それなのに──


「なぜ一つも痕跡がない……?」


椅子にもたれながら天井を見上げると、

蛍光灯の光がじり、と揺れた。


その瞬間、氷室の脳裏に

ある光景がよみがえった。


昨日の現場。

異常な静けさ。

まるで、その場所だけ“時が止まっていたような”空気。


(あれは……“自然な静けさ”じゃなかった)


部下が言っていた通り、

足跡も、争った跡も、

物が動かされた形跡すらない。


消えたのは人間だけ。

現場には、

“何も起きなかった痕跡”だけが残っていた。


(そんな処理が……できるのか?)


氷室は机から立ち上がり、

捜査資料を片手に歩き出した。

無言で廊下を進み、資料室の扉を開ける。


棚の間を抜け、古い事件ファイルの列に目を走らせる。

やがて、ひとつのファイルを取り出した。


数年前の未解決事件。

そこにも、似た特徴があった。

ただ、そのときはまだ

“偶然の範囲”とされたままだった。


(いや……これは偶然なんかじゃない)


ファイルを開いた瞬間、

氷室の視界に飛び込んできた文字があった。


「音の欠落」


鑑識担当が残した走り書き。

通常の事件現場とは、

“空気の密度が違った”という報告メモ。


氷室の心臓が、ひとつ強く脈打った。


(……同じだ)


数年前の未解決事件。

最近起きている事件。

どちらにも共通していたのは

「静けさの異常」。


「氷室さん」

後ろから声がした。


振り返ると、若い刑事が立っていた。

手には今日の現場写真を持っている。


「追加の鑑識報告が届きました。

 やっぱり今回も……音の残留が極端に少ないと」


氷室の目が鋭く光る。


「音の……残留?」

「ええ。録音器を使って、周囲の音圧変化を測ったら、

 事件前後の差がほとんどないんです。

 誰かが大きく動いた形跡も、暴れた形跡も……」


若い刑事は言葉を選ぶように続けた。


「まるで……最初から誰もいなかったみたいで」


氷室はゆっくり呼吸を整えた。

だが、胸の奥では

明らかに何かが形を成し始めていた。


(人間の“足音”が消える……?)

(争いが起きた痕跡もなく……?)


(……そんなことが可能なのは)


いや、考えるにはまだ早い。

根拠が足りない。

だが、氷室の勘は告げていた。


(犯人は……普通じゃない)


「氷室さん、どうします?

 次の手がかり、ありますか?」


「ある」

氷室は低い声で言った。


「“次に狙われる可能性のある人物”を洗い出せ」


若い刑事が驚いたように目を見開く。


「犯人の動機がまだ……」

「動機じゃない」

氷室は短く遮った。


「“順番”だ」


静寂の裏に隠れた、

歪んだ規則。

事件が起きるたびに

ゆっくりと近づいてくる“誰かの意思”。


それが、氷室の背筋を冷たく撫でた。



その頃──


裁判所から離れた夜の路地を、

悠は静かに歩いていた。

街灯の光の届かない細い道。

遠くの車の音が、空気に薄く滲んでいる。


昼間のざわつきはまだ消えていなかった。

胸の奥で、

重さを伴って響き続けている。


(……弁護人の、あの目)


怯えではない。

嘘を隠す者の目でもない。


もっと複雑で、

もっと濁っている。


独りでは抱えきれない罪悪感の色。

そして──

誰かに“触れられた”痕跡。


(彼は、何を知っている?)


悠は気づく。

昨日の“夜”は終わっていない。

まだ、どこかで続いている。


足を止める。

風が止まり、世界の音が遠ざかる。


倉庫の影の奥に、

誰かの気配がかすかに揺れた。


悠は目を静かに細めた。


(また……始まる)


夜の闇は、

まだ彼を手放すつもりはなかった。


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