第3話「影を喰う者」
氷室の周囲の空気が歪む。
“それ”は音もなく揺れ、
人の形をしているようで、実際には形を持たない。
姿は薄い影。
だが、影よりも脆く、
霧よりも濃く、
“世界のひび割れ”のように見えた。
城ヶ崎の警告が、家中に響いている。
「氷室!! 絶対に触れるな!
そいつは 影すら喰う! 」
氷室が息を呑む間もなく、
“それ”は音もなく一歩、近づいてきた。
足音がない。
空気の揺れだけが、じわりと迫る。
氷室は身構え、妹を庇うように立ちはだかる。
「こいつが……彩花を追ってきたのか……!」
彩花の体が震える。
「ちがう……
お兄ちゃん……それ、さっきまで影を追って……
でも……途中で……
影を“食べた”の……」
氷室は一瞬、理解が追いつかず固まった。
(影を……“食べた”?)
その言葉の意味を問い返す暇はなかった。
◆
“それ”の背後の空間が、
じわりと“へこんだ”。
空気が裂ける。
薄黒いノイズのようなものが舞い散る。
そして“それ”の輪郭が、
まるで二重に揺れ始める。
城ヶ崎が部屋に飛び込んできた。
「氷室、下がれ!!
そいつは影とは別次元のものだ!
影すら餌にする存在……
“向こう側の捕食者”だ!!」
氷室は妹を抱えて後退する。
「捕食者……?
お前らの世界の化け物みたいなものか?」
城ヶ崎は氷室の前に立ち、
敵を見据えながら答えた。
「違う。
化け物と呼べるほど“存在として安定していない”。
あれは形を持つ必要がない。
ただ“近いもの”から順に喰らうだけの存在……」
“捕食者”の影がブルリと震えた。
城ヶ崎の声が低く鋭くなる。
「まずは影、
次に影と関わるもの──
つまり、氷室と彩花さんだ」
氷室の背筋を冷気が這い上がる。
(彩花は……狙われていた……
影じゃなくて、“こいつ”に……?)
捕食者が揺れる。
空間のひび割れが“口”のように開き、
無音の深黒が覗く。
怯えた彩花の声。
「お兄ちゃん……逃げないと……
あれ、音も……光も……何もかも……食べちゃう……!」
城ヶ崎が叫ぶ。
「氷室! 彩花さんを抱えて外へ!
この家の中は“捕食者の領域”に飲み込まれつつある!」
「お前はどうする!?」
「……私は、こいつを止める」
「勝てるのか!?」
城ヶ崎は、わずかに笑った。
その瞳は恐怖の影すら宿していない。
「勝てなければ、
この世界ごと飲まれるだけです」
氷室は短く息を呑んだ。
(もう……疑っている場合じゃない)
氷室は妹を抱き、出口へ走る。
その瞬間──
捕食者の“手のような影”が氷室に伸びた。
霧のような黒い線。
触れた壁が一瞬で“無”に還る。
「くっ……!!」
氷室の足がもつれた。
妹を抱えたまま倒れかける。
その瞬間──
城ヶ崎が左手をかざし、
空気が逆巻いた。
「そこまでだ……!」
風が壁を打つような轟音。
音なき空間に、唯一の音が生まれた。
捕食者の“腕”が、城ヶ崎の前で弾け飛ぶ。
氷室は目を見開いた。
(こいつ……
影を押し返すどころじゃない……
“こっちの存在を守る力”すら持ってる……!?)
城ヶ崎が氷室に怒鳴る。
「行け!! 氷室!!
早く彩花さんを外に!!」
氷室は歯を食いしばり、
壊れた家の外へと走り出す。
彩花を抱えたまま、
夜の冷気に飛び出す。
外に出た瞬間、
耳が痛くなるほど音が戻った。
風の音。
車の走行音。
遠くの犬の鳴き声。
(音が……戻った……!?)
外はまだ“こちらの世界”だ。
氷室は彩花を地面に下ろし、
玄関方向を振り返る。
家の中に──
音がない。
静寂が一層濃く、黒い霧のように渦巻いている。
城ヶ崎の姿は見えない。
氷室は拳を握った。
「城ヶ崎……!」
彩花が震える声で言う。
「お兄ちゃん……
やだ……城ヶ崎さん……
死んじゃう……」
氷室は妹を抱き寄せ、
家の中の暗闇を見据えた。
「死なせねぇよ……
あいつは……俺たちを守るために来たんだ……」
家の奥から、
突如、鋭い振動が響いた。
空気が震え、
光が瞬き、
静寂が砕ける。
捕食者の咆哮──
ではない。
城ヶ崎の力が“反転”した音だ。
氷室は確信した。
(城ヶ崎が……本気を出した……)
しかしその直後、
家の中の“闇”が膨張した。
黒い霧が空へと伸び、
夜空が引きちぎられるように裂ける。
彩花が悲鳴を上げる。
「なに……これ……!」
氷室は悟った。
(捕食者は影とは違う……
今の城ヶ崎でも押さえ込める相手じゃない……)
家全体が、
黒い闇に飲まれ始めた。
そして──
城ヶ崎の叫びが聞こえた。
「氷室!! 絶対に中へ戻るな!!
これは……“私を喰う”つもりだ!!」
氷室の心臓が止まった。
(城ヶ崎が……喰われる……!?)
その瞬間、
家の中心から、
漆黒の“腕”が空を引き裂いた。




