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第1章 静寂の街 ■第1話 「無音の朝」

朝の法廷には、独特の匂いがある。

古い木材の香りと、新しく印刷された資料の紙の匂い。

それが、かすかに混ざり合って漂っている。

城ヶ崎悠じょうがさき・ゆうは、

その匂いの中にいると心が落ち着いた。


いつもと同じ朝。

いつもと同じ位置で、いつもと同じように。

彼は黒い法服の袖を整え、開廷時間を待っていた。


傍聴席には静かなざわめきがある。

今日の被告人は、数週間前からニュースを賑わせていた人物だった。

悠の視線が向く先では、弁護士が落ち着かない様子で手元の資料をまとめている。

その表情にはどこか焦りがあった。


──重い事件だ。

しかし、悠にとって事件の重さは

判断を揺らす理由にはならない。

正確に、規則どおりに。

淡々と秩序を積み上げ、結論を導く。

それだけが彼の役目だった。


「裁判長、まもなく被告人が到着します」


書記官の言葉に、悠は小さく頷いた。

椅子に腰を下ろすと、法服の裾が静かに揺れた。


その瞬間──

ふと、胸の奥で何かが“ざわり”と動いた。


理由はわからない。

しかし、長年の経験で悟る。

この“ざわつき”は、滅多に起きない種類のものだ。


扉が開き、護送中の被告人が姿を見せた。

だが、法廷が一斉に注目した中で

悠だけは、別の場所を見ていた。


──あの弁護士。

その表情は、隠しきれない後ろめたさと

何かの恐怖が入り混じっていた。


「……?」


不可解な違和感だけが、悠の中に残った。



昼の開廷が終わると同時に、悠は裁判所を後にした。

外は秋の光が落ち、街は柔らかな陰影に包まれていた。

普段なら、彼はそのまま自宅に帰り、

判例や資料を読みながら静かに夜を過ごす。


だが今日は違った。


足が、自然と裁判所とは反対の方向へ向かっていた。


街を歩くうちに、夕陽は沈み、

道路を照らすのは街灯の白い光だけになっていく。

それでも悠は迷わなかった。

むしろ、目的地に近づくほど呼吸が深くなる。


夜の匂いが濃くなる路地を抜けると、

空気が一段と静かになった。


──ここだ。


古びた倉庫の前で足が止まる。

扉は閉ざされているが、人の気配はない。

それを確認すると、悠はゆっくりと手袋をはめた。


音は一切しなかった。

呼吸の音すら、闇に吸い込まれていくようだった。


倉庫の中に踏み入ると、

薄暗闇に溶けるように一人の男が蹲っていた。

昼間、法廷に現れるはずだった“ある人物”。


悠は静かに近づき、低い声で囁いた。


「あなたが今日、法廷に立つことはありません」


男が驚きの声を上げるよりも早く、

悠の手は無駄のない動きで男を制した。


暴力ではない。

怒りでも、憎悪でもない。


ただ、そこには

「判断」

だけがあった。


淡々と、手続きのように。

世界から音が消えるほど静かに。


やがて倉庫には、

最初から何も起きなかったかのような沈黙が広がった。


悠は姿勢を正し、手袋を外す。

表情には感情の影はない。


「──判決を言い渡します」


その言葉だけが、倉庫の闇に落ちた。



同じ頃。

別の場所で警察無線が慌ただしく飛び交っていた。


「またか……! 現場はどこだ?」

刑事の氷室は舌打ちした。

ここ数ヶ月、同じ特徴を持つ不可解な事件が続いている。

どれも、裁判が近い人物ばかり。

法で裁けるはずの人間が、

法廷に立つ前に“消えて”しまっている。


「今回も……無傷か?」

現場に到着した部下が呟く。


氷室の眉がわずかに動いた。

事件のたびに残される奇妙な痕跡──

いや、“痕跡の無さ”。


まるで、犯人が

世界からその人間だけを抜き取ったかのように

跡が残らない。


「……化け物め」


氷室の低い声が闇に溶けた。


その頃、倉庫を出た悠は誰にも気付かれず

静かに夜道を歩いていた。


彼の表情には

昼の裁判官としての冷静さがそのまま残っている。


ただひとつ──

胸の奥のざわつきだけが、消えていなかった。


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