第1章 静寂の街 ■第1話 「無音の朝」
朝の法廷には、独特の匂いがある。
古い木材の香りと、新しく印刷された資料の紙の匂い。
それが、かすかに混ざり合って漂っている。
城ヶ崎悠は、
その匂いの中にいると心が落ち着いた。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ位置で、いつもと同じように。
彼は黒い法服の袖を整え、開廷時間を待っていた。
傍聴席には静かなざわめきがある。
今日の被告人は、数週間前からニュースを賑わせていた人物だった。
悠の視線が向く先では、弁護士が落ち着かない様子で手元の資料をまとめている。
その表情にはどこか焦りがあった。
──重い事件だ。
しかし、悠にとって事件の重さは
判断を揺らす理由にはならない。
正確に、規則どおりに。
淡々と秩序を積み上げ、結論を導く。
それだけが彼の役目だった。
「裁判長、まもなく被告人が到着します」
書記官の言葉に、悠は小さく頷いた。
椅子に腰を下ろすと、法服の裾が静かに揺れた。
その瞬間──
ふと、胸の奥で何かが“ざわり”と動いた。
理由はわからない。
しかし、長年の経験で悟る。
この“ざわつき”は、滅多に起きない種類のものだ。
扉が開き、護送中の被告人が姿を見せた。
だが、法廷が一斉に注目した中で
悠だけは、別の場所を見ていた。
──あの弁護士。
その表情は、隠しきれない後ろめたさと
何かの恐怖が入り混じっていた。
「……?」
不可解な違和感だけが、悠の中に残った。
◆
昼の開廷が終わると同時に、悠は裁判所を後にした。
外は秋の光が落ち、街は柔らかな陰影に包まれていた。
普段なら、彼はそのまま自宅に帰り、
判例や資料を読みながら静かに夜を過ごす。
だが今日は違った。
足が、自然と裁判所とは反対の方向へ向かっていた。
街を歩くうちに、夕陽は沈み、
道路を照らすのは街灯の白い光だけになっていく。
それでも悠は迷わなかった。
むしろ、目的地に近づくほど呼吸が深くなる。
夜の匂いが濃くなる路地を抜けると、
空気が一段と静かになった。
──ここだ。
古びた倉庫の前で足が止まる。
扉は閉ざされているが、人の気配はない。
それを確認すると、悠はゆっくりと手袋をはめた。
音は一切しなかった。
呼吸の音すら、闇に吸い込まれていくようだった。
倉庫の中に踏み入ると、
薄暗闇に溶けるように一人の男が蹲っていた。
昼間、法廷に現れるはずだった“ある人物”。
悠は静かに近づき、低い声で囁いた。
「あなたが今日、法廷に立つことはありません」
男が驚きの声を上げるよりも早く、
悠の手は無駄のない動きで男を制した。
暴力ではない。
怒りでも、憎悪でもない。
ただ、そこには
「判断」
だけがあった。
淡々と、手続きのように。
世界から音が消えるほど静かに。
やがて倉庫には、
最初から何も起きなかったかのような沈黙が広がった。
悠は姿勢を正し、手袋を外す。
表情には感情の影はない。
「──判決を言い渡します」
その言葉だけが、倉庫の闇に落ちた。
◆
同じ頃。
別の場所で警察無線が慌ただしく飛び交っていた。
「またか……! 現場はどこだ?」
刑事の氷室は舌打ちした。
ここ数ヶ月、同じ特徴を持つ不可解な事件が続いている。
どれも、裁判が近い人物ばかり。
法で裁けるはずの人間が、
法廷に立つ前に“消えて”しまっている。
「今回も……無傷か?」
現場に到着した部下が呟く。
氷室の眉がわずかに動いた。
事件のたびに残される奇妙な痕跡──
いや、“痕跡の無さ”。
まるで、犯人が
世界からその人間だけを抜き取ったかのように
跡が残らない。
「……化け物め」
氷室の低い声が闇に溶けた。
その頃、倉庫を出た悠は誰にも気付かれず
静かに夜道を歩いていた。
彼の表情には
昼の裁判官としての冷静さがそのまま残っている。
ただひとつ──
胸の奥のざわつきだけが、消えていなかった。
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