第1章 第2話「行軍」
訓練場に吹く風が、汗に濡れた迷彩服を少し冷やしたころだった。
マディガンの号令にあわせ、兵たちが二列の横隊に整列する。
先ほどまで砂を蹴っていたその顔は、まだ若い。
だが頬には土埃が付き、どこか締まったようにも見えた。
その時、駐屯地本庁舎から中隊付きの副官が小走りにこちらに向かってきた。
軽い敬礼をローデルへ送り、口元だけを動かして何かを伝える。
「わかった。」
ローデルは短く答え、副官を送り出すとマディガンのほうを振り返った。
「少し中隊本部に行ってくる。訓練を続けてくれ。」
「承知しました。小隊長。」
マディガンが力強く返事をすると、ローデルは軽く頷き、早足で訓練場を後にした。
それからおよそ20分程が経っただろうか。
訓練は続き、何人かは肩で息をしている。
マディガンは例によって怒声を飛ばしながらも、わずかに視線を駐屯地本庁舎に向けている。
やがて戻ってくるローレルを見て、俺は息を浅くした。
制服に着替えているところを見ると、中隊長からの呼び出しだろうか。
整った制服の襟元を軽く引きながら歩いてくる顔は、わずかに硬い。
近づく足音を兵たちも感じ取ったのか、マディガンを含め全員の視線が集まる。
「これより、我が小隊はドルナ村へ出動する。」
ローデルがそう言った瞬間、整列した兵士たちの空気がぴしりと張りつめた。
訓練場の砂ぼこりが緩慢に落ちていく中で、誰も声を上げない。
ただ、各自の視線がわずかに揺れた。
「州警から、家畜大量死の報告があった。探知局の監視網は正常値を示しているが、師団司令部は万が一を見越して我々に出動を命じている。」
ローデルはいつも以上に言葉を選ぶように話していた。顎の線が硬く、何度か喉が上下しているのが見える。
「準備は一時間。標準装備に加え、防護装備と探知計を持参。弾薬は規定量。マディガン軍曹、補給と車両の手配を頼む。」
「了解!聞いたなお前ら、かかれ!」
マディガンが答えると、兵たちが一斉に動き出す。
砂利を踏む音、靴底が駐屯地の舗装を叩く音が一斉に響く。
武器庫の中は、金属と油の匂いに満ちていた。
弾倉を確認する乾いた音、遊底を引く甲高い音がそこかしこで繰り返される。
「やれやれ、また肝試しかよ。」
タナーが弾帯を巻きながら小さくつぶやき、セオが眉を顰める。
「やめろよ・・・変なこと言うなよ。」
「冗談だっての、探知局のデカブツが黙ってるならただの野生動物だろ。」
「そうであることを祈ろう。」
エドリックが苦笑しながら、肩のストラップをくいと締めた。
その横で、マディガンが視線を走らせ、僅かに唇をゆがませた。
「少尉。」
マディガンが俺に声をかけてきた。
その顔は笑ってもいなければ、深刻でもない。
いつもの戦場用の顔だ。
「隊員の動きに問題はありません。・・・ただ、肝に銘じておいてください。探知局の数字なんざ当てにならん時もあります。」
「心得ています。」
自然と口がそう動いた。
自分で言っておいて、その冷静さに少しだけ胸が冷える。
小隊は、護送車に乗り込んだ。
車内は薄暗く、油と埃の匂いが鼻につく。
金属の床がガタンと震え、小銃の機関部が軽く鳴った。
タナーがセオの脇腹を肘で突く。
「さっきの続きだが・・・死んだら借金帳消しだな。」
「縁起でもないこと言うな。」
「でもそしたら家族も払わずに済む。いいことじゃねえか?」
「タナー!」
マディガンが短く叱責すると、タナーは「へいへい。」と肩をすくめた。
それを機に、車内は沈黙に落ちていく。
ローデルは奥の席で腕を組み、ずっと黙っている。
顎のあたりに汗がひと筋落ちるのが見える。
俺は狭い窓から流れる景色をぼんやり眺めながら、頭の奥で地図を思い浮かべていた。
ドルナ村、人口五百人程度の小さな集落。
周囲は鬱蒼とした森と丘に囲まれ、交通網はほとんど旧道頼りだったか。
・・・魔族の足跡が、未だに数多く埋まっていると言われる土地だ。
壊滅的な被害を受けながらも、生き残った人間たちは再び都市を築き、法を整え、魔法を縛り、こうして現代に繋げている。
だが、二百年という年月が経とうと、人間の営みが残した小さな空白には、いつまでも恐怖が潜んでいる気がした。
車両は緩やかな坂道を上り、森へ入っていく。
木々の間を流れる冷たい空気が、一瞬だけ車内に流れ込んだ。