忘却の聖女 ~記憶を失った私は、もう誰のものでもない~
主人公セレナが求めるのは、ただ自分らしく生きることだけ。のんびりとした辺境ライフと、真の幸せを見つけていく主人公の成長をお楽しみください。
華やかなシャンデリアが煌めく大舞踏会場。王国最大の社交の場に、今宵も貴族たちの笑い声と音楽が響いていた。
「皆様、お静まりください」
突然響いた王太子アルベルトの声に、会場がざわめいた。金髪碧眼の美貌を持つ王太子は、壇上に立つと威厳のある声で宣言した。
「本日、重要な発表がございます。セレナ・ド・ヴィルフォール公爵令嬢との婚約を、ここに破棄いたします」
会場が静寂に包まれた。そして次の瞬間、どよめきが会場を駆け巡る。
「セレナ・ド・ヴィルフォール。前へ出なさい」
深いエメラルドグリーンのドレスに身を包んだ美しい女性が、人々の視線を浴びながらゆっくりと前に歩み出た。プラチナブロンドの髪を優雅にまとめ上げ、紫水晶のような瞳を持つセレナは、この王国でも指折りの美女だった。
「セレナ・ド・ヴィルフォール。貴女は聖女候補であるリリー様に対し、数々の嫌がらせと中傷を行いました。その罪により、ヴィルフォール公爵家の爵位剥奪、そして王国からの永久追放を言い渡します」
会場の貴族たちがざわめいた。しかし、その多くは非難ではなく、むしろ溜飲を下げるような表情を浮かべていた。完璧すぎるセレナを疎ましく思っていた者も少なくなかったのだ。
「許しを請え!」「聖女様に謝罪しろ!」
群衆の中から罵声が飛んだ。セレナは人々の怒りの視線を浴びながら、しかし不思議なほど平静だった。
アルベルト王太子の隣には、薄いピンクの髪に青い瞳の可憐な少女が立っていた。聖女候補のリリーだ。彼女は涙を浮かべながら、震える声で言った。
「セレナ様……どうして私を憎むのですか?私は何も……」
「答えなさい、セレナ!」王太子の声が会場に響く。「貴女の罪を認め、リリーに謝罪するのです!」
セレナは静かに顔を上げた。そして——
「……どなた?」
会場が静まり返った。セレナの紫水晶の瞳は、どこか焦点が定まらず、うつろだった。
「貴方がたは……どちら様でしょうか?ここは……どこですの?」
王太子の顔が青ざめた。「何を言っている。私だ、アルベルトだ!貴女の婚約者の!」
「こんやく……しゃ?」セレナは首を傾げた。「申し訳ございませんが、存じ上げません。私は……私は一体……」
セレナの膝が崩れ落ちた。侍女たちが慌てて駆け寄る。
「セレナ様!」
「お嬢様、しっかりしてください!」
会場は大混乱に陥った。完璧だったはずの断罪劇が、予想もしない展開を迎えたのだ。
* * *
三日後、セレナは王都から馬車で運ばれ、辺境の小さな村に身を寄せることになった。記憶を失った彼女を哀れんだ村の神官マルクが、彼女を引き取ったのだ。
「記憶はまだ戻りませんか?」
白髭を蓄えた初老の神官が、質素な部屋で横になるセレナに優しく声をかけた。
「はい……何も思い出せません。ただ、基本的なことは覚えているようで……文字も読めますし、日常の作法も身についているのですが」
セレナは申し訳なさそうに微笑んだ。その笑顔に、マルク神官は胸を打たれた。
「無理をなさらずに。時が解決してくれるでしょう」
しかし、セレナの心の奥では、別の声がささやいていた。
『記憶喪失? 馬鹿らしい。全て覚えているわ』
セレナ・ド・ヴィルフォール。ヴィルフォール公爵家の一人娘にして、王国最高峰の魔導師。五歳で高等魔法を習得し、十歳で王立図書館の全書籍を読破。十五歳で王太子アルベルトとの婚約が決まった、完璧な令嬢だった。
だが、その完璧さゆえに多くの嫉妬を買い、陰謀の標的となった。特に、新たに現れた「聖女候補」リリーとその取り巻きたちによって、セレナの立場は徐々に悪化していった。
『本当の聖女は私だったのに』
セレナは天井を見つめながら、過去を思い返していた。
三年前、王国に災厄が訪れると予言された時、神殿の占い師たちは「聖女の出現」を告げた。その時、最初に選ばれたのはセレナだった。彼女の持つ強大な魔力と神聖術の才能は、まさに聖女にふさわしいものだった。
しかし、宮廷の政治的思惑によって、占いの結果は隠蔽された。代わりに「庶民出身の聖女」として、リリーが選ばれたのだ。民衆に寄り添う聖女の方が、政治的に利用価値が高いと判断されたからだ。
それからのセレナは、表向きは王太子妃候補として華やかな生活を送りながら、裏では真の聖女として王国を守る任務を遂行していた。魔獣の討伐、呪いの解除、疫病の治療——すべてセレナが行った功績だったが、それらは全てリリーの手柄として発表された。
『私は道具だった。王国を守るための、誰にも知られることのない道具』
そして、ついに限界が来た。リリーを支持する派閥が、セレナを完全に排除するため、濡れ衣を着せて追放したのだ。
「でも、もういいわ」
セレナは小さくつぶやいた。
「セレナ・ド・ヴィルフォールは死んだ。もう、あの名前に縛られることはない」
* * *
セレナが辺境の村で暮らし始めて一ヶ月が経った頃、村に不思議な変化が起こり始めた。
「また村の畑の作物が豊作ですって」
「セレナさんが教えてくれた栽培方法のおかげね」
「それに、病気の子どもたちも皆元気になって」
村人たちは、記憶を失った美しい女性を「セレナさん」と呼び、慕っていた。彼女は自分の記憶は失っているはずなのに、なぜか魔法や医術、農業に関する深い知識を持っていた。
「これは……高等回復魔法ですね」
村を訪れた元王国騎士のガレスが、セレナの治療を見て驚愕した。彼は騎士団を退役後、この辺境で静かに暮らしていた。
「そうなのですか?私にはよくわからないのですが……自然と体が覚えていたようで」
セレナは困ったような笑顔を浮かべたが、ガレスの目は鋭かった。
『この魔法の精度と強さ……ただの貴族令嬢のレベルではない』
その夜、ガレスはマルク神官を訪ねた。
「神官様、セレナ殿について話があります」
「何でしょうか?」
「あの方は、普通の人ではありません。あれほどの魔法技術を持つ者は、王国でも数えるほどしかいない」
マルク神官も、実は同じことを考えていた。セレナの知識は、あまりにも膨大で専門的すぎた。
「もしかして、あの方は……」
「ええ。セレナ・ド・ヴィルフォール公爵令嬢。間違いないでしょう」
二人は顔を見合わせた。だが、なぜ彼女がここにいるのか、そして本当に記憶を失っているのかは、まだ謎だった。
* * *
セレナが村で平穏に暮らしていたある日、王都から緊急の使者が各地に派遣された。
「大変です!王都に巨大な魔獣が現れました!」
使者の知らせに、村人たちは震え上がった。
「魔獣?そんな……聖女様がいらっしゃるではありませんか」
「それが……リリー様の力では歯が立たないのです。王太子殿下も、騎士団も……」
使者の表情は絶望に満ちていた。
「魔獣の名は『災禍の巨龍』。古代から封印されていた魔獣が、突然復活したのです。王都は既に半分が破壊され、避難民が各地に逃れています」
ガレスとマルク神官は顔を青くした。災禍の巨龍——それは伝説にのみ語り継がれる、最強クラスの魔獣だった。
「そんな魔獣を倒せる者など……」
その時、セレナが静かに口を開いた。
「災禍の巨龍ですか」
「え?」
「古代魔法『封印の楔』でのみ封じることができる存在ですね。しかし、その魔法を行使するには……」
セレナは言いかけて、はっと口を閉じた。
「あ、すみません。なぜか知識が出てきて……」
使者、ガレス、マルク神官は、セレナを見つめた。
「もしかして……あなたは……」
使者が震える声で尋ねた時、村の外から巨大な咆哮が響いた。
「うそだろ……」
ガレスが青ざめた。空に巨大な影が見えたのだ。災禍の巨龍が、この辺境まで追ってきたのだ。
「皆さん、避難してください」
セレナが立ち上がった。その瞬間、彼女の雰囲気が一変した。迷いがちだった瞳に、強い意志の光が宿る。
「セレナさん!」
「大丈夫です。私が……何とかします」
セレナは村の外に向かった。そして、災禍の巨龍と対峙する。
「久しいわね。三年前に私が封印したのに、もう復活するなんて」
セレナの口から、記憶を失っているはずの人間の言葉とは思えない発言が飛び出した。
そして彼女は右手を天に向けて掲げた。
「古代魔法第七位階——『封印の楔』」
空間が震え、光の楔が巨龍を貫いた。魔獣は咆哮を上げて消滅していく。
「終わったわ」
セレナは振り返ると、呆然とする村人たちに微笑みかけた。
「あ、皆さん。もう大丈夫ですよ」
* * *
その夜、村の集会所にセレナ、ガレス、マルク神官、そして王都からの使者が集まった。
「もう隠すつもりはありません」
セレナは静かに口を開いた。
「私はセレナ・ド・ヴィルフォール。記憶喪失など、最初から演技でした」
一同は息を呑んだ。
「なぜ……なぜそんなことを?」
使者が震える声で尋ねた。
「私は疲れたのです。王国のため、人々のため、常に犠牲になり続けることに」
セレナの瞳に、深い悲しみが宿った。
「私は三年間、真の聖女として王国を守ってきました。しかし、その功績は全てリリーのものとされ、私は陰で働き続けるだけでした。そして最後には、濡れ衣を着せられて追放された」
「そんな……」
「ガレスさんは元騎士団でしたね。災禍の巨龍が三年前に封印されたこと、覚えていませんか?」
ガレスは記憶を探った。確かに三年前、突如として魔獣の活動が静まったことがあった。
「まさか……あれは」
「私です。他にも疫病の流行を止めたのも、北方の魔族の侵攻を防いだのも、全て私でした」
セレナは立ち上がった。
「でも、もうその生活は終わりです。セレナ・ド・ヴィルフォールは舞踏会の夜に死にました。今の私は、ただの村の住人です」
使者が慌てて立ち上がった。
「そんな!王国はあなたを必要としています!王太子殿下も、今回のことで全てを理解されました!どうか戻ってください!」
「戻る?」
セレナは首を振った。
「私を追放したのは王国です。今更戻れと言われても、従う義理はありません」
* * *
セレナが災禍の巨龍を倒したという知らせは、またたく間に王国中に広まった。同時に、彼女の過去の功績についても調査が進み、真実が明らかになっていった。
王都では大騒動が起きていた。
「何ということだ……」
王太子アルベルトは、調査報告書を読みながら愕然としていた。セレナの真の功績の数々、そして彼女を陥れるために仕組まれた陰謀の詳細が、そこには記されていた。
「リリー……君は知っていたのか?」
聖女リリーは青ざめて俯いていた。
「私は……私は何も……」
「嘘をつくな!」
アルベルトの怒声が響いた。調査により、リリーも陰謀に加担していたことが判明していた。
「セレナ様を陥れるため、あなたも積極的に嘘の証言をしていた。なぜだ!」
「だって……だって私は本物の聖女になりたかったの!セレナ様がいる限り、私は偽物のままだった!」
リリーの本性が露わになった。彼女もまた、セレナの地位を奪うため、積極的に陰謀に加担していたのだ。
王国の貴族たちも大慌てだった。セレナを迫害していた者たちは、今度は手のひらを返して彼女の帰還を懇願し始めた。
「セレナ様にお詫びを!」
「何としてもお戻りいただかねば!」
しかし、当のセレナからの返答は冷たかった。
「お断りします」
王都から派遣された使節団に対し、セレナははっきりと答えた。
「私はもう、王国の人間ではありません。セレナ・ド・ヴィルフォールという名前も、もう使うつもりはありません」
「しかし!王国の危機の際には!」
「私が危機に陥った時、王国は私を見捨てました。今度は私が王国を見捨てる番です」
使節団は絶句した。
* * *
それから一年が経った。
辺境の村は、今や「賢女の村」として知られるようになっていた。セレナ——今は単に「先生」と呼ばれる彼女——の指導により、村は見違えるほど発展していた。
「先生、新しい魔法陣の調整が完了しました」
元騎士のガレスが、セレナに報告する。彼は今や村の守備隊長として働いていた。
「ありがとうガレスさん。これで村の防御は完璧ですね」
セレナは満足そうに微笑んだ。彼女は村に最新の魔法技術を導入し、自然と調和した理想的な共同体を築き上げていた。
「先生、王都から また使者が来ています」
「お断りしてください。もう何度も言っているはずです」
セレナは冷たく答えた。王国は今でも、定期的に彼女の帰還を求める使者を送ってきていた。
「しかし今度は、王太子殿下ご自身が……」
「なおさらお断りです」
その時、村の入り口から馬の嘶きが聞こえた。金髪の男性が一人、馬から降りてこちらに向かってくる。
「セレナ!」
アルベルト王太子だった。彼は一人で、護衛も連れずにここまで来たのだ。
「話をさせてくれ!頼む!」
「……」
セレナは振り返らなかった。
「私は間違っていた!君を裏切った!だから——」
「王太子殿下」
セレナがゆっくりと振り返った。その表情は、かつてアルベルトが知っていたセレナとは全く違っていた。
「貴方はどちら様でしょうか?」
「何を……僕だ、アルベルトだ!君の婚約者だった!」
「こんやく、しゃ?」
セレナは首を傾げた。それは、一年前の舞踏会での仕草と全く同じだった。
「申し訳ございませんが、存じ上げません」
アルベルトの顔が青ざめた。
「嘘だろう?君は記憶喪失なんて演技していたんだろう?」
「ええ、そうですわ」
セレナはあっさりと認めた。
「でも今は違います。私は本当に忘れてしまいました」
「忘れた?何を?」
「セレナ・ド・ヴィルフォールという人のことを。そんな人は、もうどこにもいませんから」
アルベルトは絶句した。
「君は……君は僕のことを愛していたじゃないか!」
「愛?」
セレナは不思議そうな顔をした。
「私が愛したのは、私を一人の人間として見てくれる人でした。でも貴方は違った。私を道具としか見ていなかった」
「そんなことは——」
「では、お尋ねします。私の好きな花は何でしょう?私の好きな食べ物は?私が何に悩み、何を恐れていたか、ご存知でしたか?」
アルベルトは答えられなかった。
「貴方は私の能力しか見ていなかった。私という人間には、一度も興味を持たなかった」
セレナは背を向けた。
「だから私は、本当の私を見てくれる人たちと共に生きることにしました」
* * *
夕日が辺境の村を染める中、セレナは村の丘の上に立っていた。マルク神官が隣に立つ。
「後悔はありませんか?」
老神官が静かに尋ねた。
「どのことでしょう?」
「王国を捨てたこと、地位を捨てたこと……そして愛を捨てたこと」
セレナは微笑んだ。
「神官様、私は何も捨てていません。初めて手に入れたのです」
「何を?」
「自分自身を」
風が草原を渡り、セレナの髪を揺らした。
「私はずっと、誰かのために生きてきました。国のため、民のため、婚約者のため……でも本当の私は、一体何を望んでいたのでしょう?」
セレナは空を見上げた。
「今、初めてわかりました。私は自分のために生きたかった。自分を愛してくれる人たちのために生きたかった」
村の下から、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。セレナの魔法で病気を治してもらった子どもたちだ。
「セレナ先生ー!」
「今度は何の魔法を教えてくれるのー?」
セレナは手を振って応えた。
「私は今、本当に幸せです」
マルク神官は優しく微笑んだ。
「それが一番ですね」
その時、村の入り口から最後の使者がやってきた。王国の現状を報告するためだった。リリーは聖女の地位を剥奪され、アルベルト王太子も王位継承権を一時停止されていた。王国は混乱の中にあった。
「セレナ様、最後のお願いです!王国をお救いください!」
使者は土下座をして懇願した。
セレナは振り返ることなく答えた。
「王国のことは、王国の人々が何とかするでしょう。私には関係のないことです」
「しかし……」
「尋ねる相手を間違えていますよ」
セレナはゆっくりと振り返った。
「あの頃の私?……忘れてしまったわ。そんな人、もうどこにもいないから」
夕日が沈み、辺境の村に平和な夜が訪れた。セレナは新しい人生を歩み始めていた。もう二度と、誰かの道具になることはない。自分自身として、愛する人たちと共に生きていく——それが彼女の選んだ道だった。
月明かりの下、セレナは村の図書館で新しい魔法の研究を続けていた。世界の真理を探求し、村の人々の役に立つ魔法を開発する。それが今の彼女の生きがいだった。
「おやすみなさい、先生」
村の子どもたちが窓の外から手を振った。
「おやすみなさい。また明日ね」
セレナは微笑みながら手を振り返した。
彼女の新しい物語は、まだ始まったばかりだった。
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