第三章ep.1 子毛の町《こげのまち》
街道はもう暗く目を凝らしても遠くは見えない。暗闇なら定吉より盲目の石のほうが一日の長があるはずだが、定吉は辺りが暗くなってもさほど困っていないようだ。
「こう暗くては、どちらが案内してるのか分からないな、俺のほうが危なっかしいよ」
と定吉は言うが、石はそんな風に思えない。
「定吉暗い道を歩くのはかなり慣れてるようだね」
オウ、オウ、オウ、と遠くで野犬の群れが鳴く声がしている。
「まだ日が落ちて間もないのに、もう鳴いてる。獣も満月でざわついてるみたいだ」
街道に沿って港口と広がる野っ原に目をやりながら、定吉は言う。所々から野良犬の鳴き声に呼応するように、他の動物の鳴き声もした。
人が多い昼間は動物も人に近づいて来ないが、夜になると人が襲われることもあるそうだ。だいたいは、女性や子供が襲われることが多いらしい。咬まれた傷から破傷風で亡くなる事もあると定吉は話した。
「定吉さんは、ソの郷に来てもう長いのか?」
「石さんのほうが年上だろ?呼び捨てにしてくれよ」
二人の距離が少し近づく。
「じゃあそうするよ。で、もう此処は長いのか?」
普段は、他人事に首を突っ込んで詮索する気はないが、定吉の過去は何故か気になった。話をするほどこんな辺鄙な果てに、居るような男じゃないと思う。
「そうだなぁ、妙が五つだから・・八年くらいかなぁ」
「その前は、どこに?」
「江戸だよ。大概、大工職人は大工町に居たけど、俺に仕事を教えてくれた親方が江戸城の修繕の国役を務めてたから、俺は親方の近くで城前の江戸前島に住んでたんだ」
「じゃあ江戸城に入ったこともあるのか?」
「入った事はあるけど、頭を上げるなんてもってのほかで、ずっと頭を下げて歩いて作業場に行くもんだから、首がおかしくなったよ」
「へぇ(笑い)、大変だな」
......定吉に感じる違和感、その理由が石に分からない。
「多の屋の旦那とはずっと前から知り合だったのかい?」
「いつからか忘れたけど、そんなに昔じゃない、よく話すようになったのは、ソの河の工事が始まってからかな?」
定吉は真っ暗な空を見上げる。並んで歩きながら、石はずっと感じる違和感の理由を考えていた。
...江戸城の普請も請け負うような職人。この男、わざわざ江戸から何故やってきたんだ?..
石の中で疑問は広がる。
「そういや、江戸に歌舞伎っていう見世物があるらしいが、あんた見たことはあるかい?」
「歌舞伎の舞台は見たことが無いなあ、町で歌舞伎役者が歩いてるのを見たことはあるけど。羽振り良さげな派手で一風変わった格好で、男の花魁みたいだと思ったな」
定吉の目に、子毛の町の明かりが見えた。
「へぇ、変わってんだな役者ってのは、河原まわりで住んでるから、江戸で歌舞伎役者を河原乞食って呼んでるって聞いたから、ひでぇ貧乏なんだと思ってたが金回りは良いんだな」
「ピンからキリまで居るだろうけど、凄い人気の役者がいるからね。興行となれば立ち見でも入れないくらい盛況らしい。パトロンも居るから、金回りは良いんじゃないかな。御上に影響力を持ってる役者もいるみたいだよ」
「人気の役者は色男が多いから若い娘から婆さんまで夢中で、出待ち、追っかけ、ストーカーまでなんでもありだね。役者を巡る色恋で、刃傷沙汰の事件もあるくらいだから」
と定吉が話すと石は呆れた。
「はぁ、...触らぬ神に祟りなしだな、色恋に首突っ込んだらロクな事が有りゃしねぇ。どうせ役者は商売なんだから、女も実らねえ恋に身を焦がしても無駄だろうによぉ」
「女が事件を起こすより、女房を取られたとか、女が貢いだ金を返せ、娘を孕まされて責任取れで、夫や彼氏、父親が相手の役者に怒鳴り込んでいって事件を起こすほうが多かったよ。町方の旦那も色恋沙汰なんで苦労してたみたいだ」
.....町方の旦那が苦労してた...
その言葉が妙に引っかかる。
「そりゃあ、町方同心も大変だ。思いだしたが、最近は歌舞伎役者が世間で人気が有りすぎて、《《御公議》》は『良民』って呼び方に変えたって聞いたが、本当かな?」
「そうだなぁ、歌舞伎役者を河原乞食って呼ぶ人達は居ないな、御公議が『良民』って呼び方をしてるかどうかは知らないけど、大抵は役者の屋号で呼ぶことが多いよ。石さんは歌舞伎に興味があるのかい?」
「あしは温泉巡りが旅の目的だが、弦は江戸で歌舞伎を見るのが楽しみでな、それであんたが江戸に居たっていうから聞いてみた」
「ああそれで、人づてには歌舞伎は良いもんだって聞いたから、弦さんが見れるといいな」
「ああ、毎日、毎日、耳が痛えほど行きてぇって言うもんだから、カブキカブキって耳鳴りがすらぁ、ちぃと静かにしてもらう為に早く連れていかなきゃなんねぇんだ」
定吉は笑ってる。石は顔を伏せ考えた。
...庶民は幕府のやつらの事を言うときは大抵御上だ。公議なんて言葉を知らねえやつだっている。
定吉は何者だ?、町方同心の御用聞き(目明し、岡っ引き)か?、そうなら、わざわざ江戸からこんな辺鄙な場所まで何しに来たんだ?..
物腰、知識と教養の高さ。定吉の職人としての技量は作り物を見ればわかるが、それ以外の身についたものがどこから来たものか分かる気がした。
「お前さん、江戸でなんの仕事をしてたんだ?」
「俺かい?職人だよ。大工仕事をしてたさ」
「家族は?」
「江戸に兄弟がいるよ、母親の面倒を見てくれてる」
子毛の町の棒鼻(入り口)の立て札が見えた。山向こうに太陽は隠れてしまい辺りは真っ暗だ。
「石さんの生まれはどこだい?」
「あしは..わかんねえな。物心つく頃には預けられた家にいたしな、親の顔も知らねえ」
石は素っ気なく話した。
「そうか、悪いこと聞いたかな?」
定吉は済まなさそうにしている。
「よせやい、そんな話はごまんとある話だ。気にするほどのことじゃねえだろ」
町の独特の匂いや雰囲気、人の声が聞こえて強く大きくなっていく、子毛の宿場に辿り着いたのが分かった。
「お前さん、あしを追っかけて来た時に子毛に用事があるとか言ってたが、人にでも会うのか?」
「買い物だよ、岩に矢穴を開ける鉄杭やらの仕事道具がいるから、直卸してくれる店に行くつもりだよ」
二人は棒鼻の立て札の前に着いた。
「じゃあ、俺は先に入るよ。まだ案内人は来てないようだけど...しばらく居ようか?」
「子供扱いするんじゃねえよ、あしのほうが年上なんだぜ」
石がニヤリと笑う。
「そうだな」と、定吉も笑い返し、先に町の入り口を抜けて行った。
...あいつは、よく分わからねえ。信用ならねえ奴とは思わないが、御用聞きかもしれん、それなら商売がら口が上手いのは当たり前だろう。用心しておいたほうが良さそうだ。
...なにせあしは、上方に問い合わせりゃすぐわかる、凶状持ち(指名手配者)だからな...。
石は棒鼻の立て札の前に座り込み、助五郎が寄こすと言った案内人を待つことにした。
すれ違う家路へとつく町人のなかを、定吉は目的の店へと向かい歩いていく。ふと見ると遠くに助五郎の甥の八助の姿が見えた。
八助は、定吉に気付いてないみたいだが・・
..珍しいな、あいつ何してるんだ...
大体この時間だと助五郎の屋敷に居るか、飯屋で酒を浴びるほど飲んでいることが多い八助が、まだ素面で脇目も振らずに小走りに走ってる。
「おい、定吉」
背後から男が声をかけてきた。
「弥切さん。何か御用でしょうか?」
定吉は声の主に背を向けたまま皮肉をこめて言う。弥切と呼ばれた男は、特に気にした様子も無い。
「珍しいな、助五郎に呼ばれる以外は郷に引き籠もってるお前が、こんな時間に何してる?」
ゆっくりと定吉が振り向いた。
「人を送って来たんだよ。ついでの用事を済ませばすぐに帰るさ」
「用事ってなんだ?」
「言う必要があるのか?」
「ああそうだ、言え」
弥切は薄ら笑いを浮かべているが、目からその感情は読み取れない。
「仕事道具をいつもの道具屋で買うだけだよ」
「じゃあ、送って来たのは誰だ?」
「・・・」
聞きたかったのは用事じゃなく、そっちだったのだろう。定吉は黙り込んだ。弥切に言うべきか迷う。
「お前、話さなきゃ帰れねえぞ?無駄な事をするな。時間が勿体ない、早く言え」
定吉はため息をついた。
「知り合ったばかりの人だ。多の屋の旦那に呼ばれたらしいから、あんたのほうが知ってるんじゃないのか?」
弥切はその言葉に頭を巡らせる。そういえば多の屋の屋敷を出る際に、助五郎が八助を何処かへ使いにやらせていたのを思い出した。
「どんな奴だ、名前は?、どんな風体をしてる?」
石が多の屋に行くのならどのみち弥切は知るだろう。隠す必要はないと定吉は思った。
助五郎一家は親分が助五郎、ナンバー2の若頭は右馬、その舎弟に鬼造と弥切。これが裏社会の常識になっている。
たが、本当は違う。
一家の頭は助五郎、裏は弥切が仕切る。子毛の町で情報通の者達はそう認識している。
助五郎は、自分をおやっさんと呼ぶのを右馬だけに許している。他は、ダンナもしくは親分。確かに右馬は最も近い側近だが、生粋の八九三の右馬は暴力装置としては有能だが、賭場や金貸し等の頭を使う裏仕事を仕切る能力は無い。
裏仕事を一手に引き受ける弥切には、子毛やソの郷、この辺り一帯で起きた事の全ての情報が耳に入る。弥切が本当のナンバー2と云われている所以だ。
「盲目の按摩さんだよ。歳は俺やあんたより上だ、もういいか?」
「名前は?」
「..石」
...名前を聞くと弥切は表情を変えた。
「どうかしたのか?」
急に顔色を変えた弥切を不審に思う定吉。
「なんでもねぇ。あぁそうだ、お前に言っとかなきゃならない、例の話だが、尾張藩に持ち込むのはナシだ」
今度は定吉の表情がサッと変わる。少し青ざめたようだ。
「どうしてだ?」
「もう助五郎が和久家に手を回して、尾張奉行にまで賄賂が渡ってる。もう少しで俺の手下が捕らえられる所だったぜ。あれ以上の詮索は無理だな」
二人の間に冷たい絶望的な風が流れた。
「時間がかかり過ぎた。お前が子毛に居た時に仕掛けておくべきだった定吉。子毛をダンナが離れていた三ヶ月の間に、尾張藩とはズブズブの仲で話はついてたんだよ」
「...それじゃぁ、陶様は、無駄死にだ。納得いかない。弥切、あんたは俺に約束しただろう?」
定吉が拳を握りしめる。
「知らねえな。命あっての物種だ、俺はこんなところで死ぬ気はねえ、此処が引き時って事だろう」
定吉の弥切を見る眼球が血走って、目が据わっている。
「なんだ?」
「嘆願書を渡してくれ」
二人の間に凍った風が吹いている。弥切は、冗談のように答えた。
「そりゃ無理だ、俺は持って無い」
「...どこにやっ」
「焼いた。灰になって風に吹かれてどっかへ飛んでいっちまった。探すのは手伝わねえが、場所が知りたきゃ教えてやるよ」
定吉の言葉に被せるように絶望的な言葉を吐く弥切。怒りで遠くに聞こえる街の喧騒は定吉の耳に届かない。静寂が包み、定吉が拳を握り締め一歩踏み出すのを、ニヤニヤと見守る弥切。
「このヤロウ!」
定吉が怒りを吐き出す。弥切の表情は変わらない、薄ら笑いを浮かべ今の状況を楽しんでいるかのようだ。
「来いよ、どうせお前は俺に勝てないが相手になってもいい。ただし、ここで騒ぎを起こせばダンナの耳に入るだろうよ。言い訳を考えなきゃな定吉。嘆願書の話をダンナにすることするか?、お前が持ってた事にするぜ。ああ、由が持ってる事にしてもいいな?」
由の名前出されて、我を忘れかけていた定吉の足が止まる。
「そんな取って付けたような作り話を、信じるはずがないだろう」
「信じるかどうかなんて関係ねえな。簡単なことだ、お前の素性をバラした後そうだな....お前が由とデキてると話すことにするか?おそらくダンナは怒り狂うだろうが、その後お前は五体満足で明日を迎えてると思うか?」
弥切の言葉に、定吉は立ち尽くす。
「由も、ただではすまないかもな。どうする?やるか定吉さん?選ばせてやる....あ、帰るのか?」
定吉は、力なく弥切に背を向けた。
「おい、店に用事があるんじゃなかったのかよ?」
弥切が定吉の背中に声をかけたが、定吉は無言のまま去って行った。
弥切はショボくれた定吉が去って行くのをしばらく眺めていた。弥切にも多少の悔しい気持ちはある。
初めて見た時の若く初々しい陶の姿が脳裏をよぎった、ほんの一瞬だったが...。
次の瞬間には冷徹な心を取り戻し、定吉や陶に対するわずかな憐憫は消えていた。そして、定吉の言葉を思い返す。
...盲目の按摩、名前は石。
自分が仕切る裏仕事のため屋敷を出て来たが、定吉が送って来たという石という男のことが気になった。しばらく迷っていたが、結局、屋敷に戻ることにした弥切。男が弥切に声をかけてくる。
「代貸し、どちらへ?」
手下の棄八は尋ねた。弥切は棄八を振り向いて、
「棄八、町中で俺を呼ぶときは考えろ。それより今日の賭場はお前が算段(段取り)しておけ、俺も後から行く」
弥切はそう言うと棄八の返事を聞く前に走り去って行った。
この小説には人の命を軽視したり侮辱するような(特に盲目の人や女性に対して)物言い、または乱暴な表現、人を貶める蔑称や男女問わず人や物、地域に対しても差別的な表現がありますが、作者はそれを良しとしているわけではありません。作品のイメージを大事にするために故意に使っている表現ですのでご了承ください。不快だと思うのであれば読まないようにしてください。読む人の選択に任せるものです。