第二章ep.2 盲目《もうもく》と妙《たえ》
【店終い‐みせじまい】
助五郎達が街道から見えなくなった後の水茶屋は、急に騒がしくなった。
「早いけど、もう店終いにするわ。支度ができたら家に案内するわね」
と由が言った。
「わたしもお手伝いします」
弦は袖をまくり水茶屋のなかに入ると、由に聞きながら、お椀や小鉢を片付けている。
助五郎と約束した以上、子毛に行って挨拶を済ませなければ面倒の事になるのは分かってる。石にとっては、店を早く閉めて家に帰るのは好都合だ。
石は助五郎たちが居なくなった後に、「頼みがあるんだ」とは言ったものの、ほぼ初対面の由にどう切り出したらいいのか分からず困っていた。
「なに? 早く言って」
由が催促する。
「ん、うん。あのなぁ・・・弦だけで良いんだ。今夜、お前さんの家に泊めちゃくれねえだろうか?」
それに、弦と由が同時に返した
「それは構わないけど、石さんはどうするの?」
「なに言ってるんですか? いっさんはどうするんですか」
...あしは良いの
「弦には、ゆっくり足を伸ばして寝れる場所が要るんだよ。子毛に行けば宿もあるだろうが、おまえは連れては行けねえ。たった今、助五郎に嫌われたんでな」
「では野宿で構いません。今から出発して町を過ぎたら、道すがらのどこかのお堂の軒先でもお借りして今夜は過ごしましょう」
「いや、それじゃ体の疲れはとれねえだろう。無茶言うな」
「大丈夫です。この身体の事は、わたしが一番知ってますから。まだ夜通しでも歩けます」
石は、ため息を吐き、呆れて首を振った。
「いいか、ここで倒れかけたばかりじゃねえか? 無理に決まってる」
石と弦の言い合いが険悪になり、妙もキョロキョロして二人を見比べている。
「もう喧嘩しない、いいから二人ともおいで。妙も喜ぶし、狭い家だけど二人くらいは大丈夫だから、任せて」
弦は、自分達の言い合いに脅えている妙に気付き「ごめんね」と言って抱き寄せた。
「・・・そうだな。うん、由さん悪かったよ。多分、あしもそうさせてもらう事になるだろうが、あしは子毛に用が出来たんでな、お前さん達と家まで行った後、戻ることにするよ」
石は、今夜を子毛で過ごすつもりでいたのだが、それは言わないで置いた。
「いっさん、あの助五郎に会うんですか?」
「ああ、堺みてえな大きな町ならいざ知らず、小さな町や村は、そこで力のあるやつに挨拶を通しておかなきゃ、後々、面倒な事になるからな。なに、いつもと同じことだ。上手く行かなきゃ、逃げ帰って来るだけだ」
ともかく弦はゆっくり体を休める。石は、胸を撫でおろした。
石と弦の旅は、人の目を憚るものだ。
五街道を避けて険しい山道を歩き、野宿をして来たのも、その為。楽な道のりじゃないと弦も重々承知していたから、石にも弱音を吐くことは出来なかっただろう。
無駄に頑強に生まれた自分が耐えれるからといって、華奢で京育ちの弦が、同じように出来るわけがないことを忘れていた。
もしかしたら考えないようにしていたのかも知れない。そう思うと、申し訳ない気持ちになった。
「余った惣菜は、夕食にするから、破子(ヒノキを薄く削った板で作る容器)に入れて。お饅頭は、経木(薄い木の板の包装材)に包んで、七輪の下の棚の中に入れておいてね」
「はい」
弦は言われたように食材を包むと、七輪の下にある取手を開き、棚にそれらを納めた。
「包丁は吊るすところがあって、(由が手で指し示す) まな板は横に引っ掛けて置けるから、その前に洗ってくるわね」
「わかりました。この洗った薬缶は、どこに置けば?」
「あぁ、それは、包丁と一緒で吊るすところが・・・」
二人は、昔からの知り合いのようにもう息が合っている。
...邪魔にならねえようにしようか・・・
石が店から離れようとすると、弦がスッと近寄ってきて小声で言った。
「お願いですから、煙草は吸わないで下さいね」
イラっとしたので、もっと小さな小声で返す。
「そんなこたぁ分かってるよ、うるせぇなぁ」
「分かってるなら良いんです。それにいっさんほどじゃ有りませんが、小さな声でも聞こえるんですよ。わたしも耳は良いほうなんですから」
と言って、弦は店に歩いて行った。
石は不機嫌そうに鼻を鳴らして、店から少し離れ街道の端に腰を下ろした。
...あ〜あ、面倒な事になったなあ
また会うなんて、石にとっても憂鬱な事だが、子毛に滞在する為なら仕方ない。
...筋さえ通せば、助五郎も一家を構える渡世人。その後しばらく子毛に居座っても、面と向かって文句は言えまいよ
吹く風が、薄の穂を揺らしている。
…行ってみなきゃ分かんねえが、子毛ってのは、江戸へと続く道筋の宿場町だ。五街道の宿場ほどじゃなくても、多少の賑わいはあるだろう。景気が良けりゃ、路銀を稼ぐくらいの按摩客は居るはず
普段は、土地の有力者の懐に入って宿や(按摩の)客を紹介してもらうのだが、今回は|その有力者と揉めてしまったから諦めるしかない。
...しくじったなあ・・・ガキじゃあるまいに、あしは何やってんだかな?
もう前世からの因縁としか思えない。
...きっとどちらかが、親の仇なんだろうよ
八九三を最初からこんなに毛嫌いするのは、石にも不思議でしかなかった。
...助五郎は今夜来なきゃ地の果てまで追うと言ったが・・・まあ、本気だろう。子毛には、ゆっくり行けばいい。ムカついてるから、棒鼻に寄こす案内人を、嫌がらせで待たせてやろう
...ひひひ、みみっちい反抗だな・・・
と自分で笑う。
堅気の人間なら申し訳ないが、間違いなく使いは手下の八九三だろう。石にとって大切なのは、真っ当に生きる人達にこれ以上迷惑をかけない人生を送る事。
もっとも大事な事は、弦を泣かせないことだ。
養父母の家を後にしてから石の人生は深い闇の底辺にあって、ずっと藻掻き苦しんでいた。未来は閉ざされた、希望の無い毎日。いま考えれば奇跡だと思う。
弦と出会った事は、石の人生を一変させてくれた。照れくさくて言葉にした事はないが、ありがとうと何度、感謝しても足りない。
...ヒマだな
石は道の端っこで中座りをして、まわりの音に耳を澄ましていた。
風の音。虫が鳴く声、女性達の会話。煙草が吸いたくなったが、さっき注意されたばかり。
「由さん、荷車どうやって動かすのでしょうか?」
弦は、洗い物で汚れた桶の水を捨てに行った由に尋ねた。
「ああ、ちょっと待ってね」
水茶屋の裏から由の返事が返ってくる。
段取りよく働く二人の女性のおかげで、帰る準備は出来たようで、後は荷車を外に出して屋根の下に腰掛けを入れれば終わりとなっていた。
...そろそろ、あしの出番か
背を伸ばし欠伸をしながら、石は、のそのそと店に向かい歩いて行く。
「可愛いお嬢さん、ちょいと目の前を失礼しますよ」
石は水茶屋に入ると、荷車を眺める弦の前に割り込んで荷台の横に手を這わせ、さっき確認していたストッパーらしきものを触った。ガクッ、と荷車が揺れる。
「動かすのは、荷台の横にスト」
現れた由が、言いかけて立ち止まった。
石は車輪に手を伸ばして、噛ませていた輪留めを外す。
「由さん、輪留めは持って帰るのかい?」
輪留めを見せると、由は戸惑った顔で
「あ、いや・・・店に置いて」
「そうかい、じゃあここに置いとくよ」
輪止めを脇に置くと、石は荷車の取り手を握って動かし始めた。
「弦、荷車を外に出すから指図してくれ」
「はい」
...え?
由の目の前で、石は弦の指示で荷車を外に出すと、腰掛けを屋根の下に収めた。
石は荷車に近づくと、取手の囲いの中に入って取り手を掴み引き上げる。
「あっ・・・石さん、ちょっと待って。荷車は、あたしが曳いて行くから」
「こう云う力仕事は、男がやるものと教えられて来たんで、お前さんにはさせられねえよ」
そう言うと、石はいつでも出発できるように合図を待つ。
「好きにさせて下さい」
「えっ・・でも」
「妙ちゃんも働いてたのに、いっさんはずっと怠けてただけですから。ほら、あのお腹を見て下さい」
弦の指差すほうに、石のぽっこりとした中年腹があった。
「最近、太り気味なんです。痩せるのに、これぐらいの力仕事は必要なんですよ」
弦は、笑顔で辛辣な事を言う。
...酷ぇ言い方・・・
石は心で愚痴をこぼした。由を説得するための方便だと思いたいが、本心かもしれない。
「でも、石さんは・・・」
目が見えないと言葉にしそうになったが、口に出すことは由には憚られた。まだ、そこまで話せるほどの仲ではないからだった。
弦は、由の言いたいことを理解している。
「大丈夫ですから、いっさんに任せてください」
笑顔で由に言って、石を見た。
「行きましょうか、いっさん」
「ああ」
石は取り手を握りしめ、荷車を引き始めた。
【盲目の真実‐もうもくのしんじつ】
カラカラと回る車輪の音、その後ろを子供と大人ふたりの三人の女性が歩き、荷車は進む。
最初は、荷車から荷物が落ちないか、石が怪我をしないかと心配していた由だったが、今は沈む夕陽のひかりを浴び、弦と談笑しながら歩いてる。
「弦ちゃん達が居てくれて、本当に助かったわ、一人だとこんなに早く店終いすることなんて、できなかったから」
「そんな、今晩泊めて頂くのですから、お礼を言うのはこちらのほうです。本当にありがとうございます」
二人の会話が、石の耳に聞こえてくる。
「荷車は、いつも一人で運んでいるのですか?」
由は、首を振った。
「いつもね、荷車を引きに誰か来てくれるの。大抵は定吉さん、なんだけど」
うつむく由の顔が、心なしか赤く見えた。
「そういう方がいらっしゃるんですか、お優しい人なんですね」
微笑ながら、弦は応えた。
山向うに、陽が落ちようとして、あたりが赤く染まっていく。由の顔も、さらに赤くなったようだ。
「早めに店終いしたから、定吉さんに、謝っておかなきゃ。途中で、会えると良いんだけど」
と、由がつぶやいた。
カラカラ回る車輪の音。目の前に、荷車を引く石の背中が見える。
弦は、由が急いで店を閉めた理由について、分かる気がした。
ソの河に行った助五郎達は、戻る時にまた水茶屋の前を通るはずだ。
由のあの様子を見れば、助五郎と、会いたくなかったのだろうと思う。
それは、弦も同じ。
「定吉さんは、家に来られるんですか?」
「たぶん、・・・毎日のように、様子を見に来てくれるから」
「じゃあ、定吉さんに、なにか作っておきましょう。夕食の準備もありますから」
「そうね。手伝って」
「はい」
弦と由は、お互い笑顔で顔を見合わせた。
...思ったより家が遠いな。あしは力自慢の脳筋男じゃねえんだから。すこし押してもらうと、楽なんだが、(それが男の仕事と)カッコつけた手前、手伝ってくれとは言えねえや
そんな風に思いながら、荷車を引っ張る石の顔も、夕陽が赤く染めている。
荷車は、石の手を取り誘導しなくても、
「左に寄せて下さい」
弦がそう言うと、その通りに動いた。
由も、不思議な面持ちで見ていたが、妙は、もっと不思議に思ったようだ。
駆け出すと、荷車の前に出て、赤く染まった石の顔を見上げる。
眩しい夕陽に目を凝らして、石が本当に見えないのか、確かめようとした。
「お嬢ちゃん、あしの顔になにかついてるかい?」
石には、妙の姿は見えないはずなのに、そう言われて妙は心の底から驚いた。
急いで走り、後ろを歩く由の足下に飛び込んで、着物の裾にしがみつく。
「ありゃ、どうしたかな?」
石は、頭を掻いた。
「いっさんが、怖い顔を向けるからですよ。妙ちゃんがびっくりしたじゃないですか」
「そりゃ悪いことしたなあ、ゴメンよ」
弦は、妙に近づいた。
「いっさんは、顔は怖ないけど、ああ見えて心持ちの優しい人なの。心配いらないわ」
弦は、やさしく妙の髪を撫でた。
妙は前を向いて、荷車を引く石の背中を、じっと見つめた。
..このおじさんは、目を閉じたまんまだけど、本当はなにもかも分かっているのかもしれない
子供の純粋な有り得ない思いは、半分くらい、真実を言い当てていた。




