第二章ep.1 定吉《さだよし》と助五郎一家
ガチン!
川の水は引いてるが泥のような地面に木の杭を打つ。大槌が手から離れ、男は手をおさえうずくまった。
「哲さん、大丈夫か?」
「デカい石に当たったみてえだ、かなり痺れた」
心配する定吉に、哲は立ちあがると両手をぶらぶらさせ、「ちょいとやられたが、大丈夫だ」と言って、大槌を持ち直す。
「ちょっと待て、一旦穴を広げて、どんな石か確認しよう。デカいなら矢穴を開けて割った方がいいだろう」
「それじゃ時間がかかるし、穴を広げようにもこの泥じゃすぐ崩れて埋まっちまうぞ」
哲がぬかるんだ泥の地面を忌々しそうに足先で掃う。
「周りを土留めしながら掘っていけばいい。とりあえず石の大きさを見よう、やみくもに掘っても得にはならない」
定吉の意見に賛同して、職人達が準備を始める。
「じゃあ、やろうか」
皆が役割を決め、泥を桶ですくい上げ矢板の外に出しながら、周りの泥が入らないように土嚢を敷き詰めていく。
此処、ソの河の橋造りの現場では、組み上げた橋桁を川に渡していく前の土台を造る作業を行っているところだった。
上流で川を堰き止め、流れを変えて水量が少なくなったところで、土台となる部分の周囲を矢板で囲み、橋脚を建てる基礎を打ち込んでいく。
今はまだ、雨が少なく仕事はやりやすいが、もうすぐ来る梅雨時となれば、雨で増水した川の水を堰きとめる事は出来ない。
そうなれば作業はお手上げになってしまう。
定吉は橋梁工事の作業の中心に居て、ソの郷の職人達に指示を出す。この仕事の責任者だ。
定吉には、気安く声をかける仲間が多い。
強いリーダーシップでまわりを引っ張る棟梁ではなく仲間と相談しながら対話でまとめていく、聞く耳を持つタイプのリーダーだ。
...雨が降る前には、橋桁を掛けておきたい...定吉は内心、焦っていた。
空を見上げると雲が多い。雨でもないが晴れでもない、ここが山中の地域ということもあり、雨がいつやってくるのかわからない。
梅雨前までに橋脚を建てる、その思いで仲間を急き立てていた。
「定吉!陣中見舞いだ、取りに来い」
川岸の上方、丘の上から甲高い声が聞こえた。
矢板の上にかけた梯子から、石割のための準備作業をしている中を覗き込んでいた定吉は、聞き覚えのある声に驚いた。
「多の屋の旦那!」
めったに現場に来ることがない助五郎、なぜ急に現れたのだろう?
あわてて梯子から降り、助五郎のところへと走る。職人たちも何事かと定吉を見ていた。
「どうかしましたか? 多の屋の旦那」
助五郎は笑顔で応えた。
「お前らに精力を付けさせてやろうと思ってな、おい藁を取れ」
大八車に被せた藁が取り払われると、荷台には、これから宴会でもできそうなほどの豪勢な料理や酒が積んであった。
だが、よく見ると夜までは持ちそうにない日持ちのしない生ものばかりだ。
定吉の顔は、みるみる曇っていった。
橋梁造りの作業をしていた職人達も、手を止めて、丘の上の定吉や助五郎達を眺めている。
「おい、哲。あれ食いもんみたいだぜ」
矢板の上に乗って、丘の方を眺めていた職人が、大八車の荷台に載ってるものを言い当てる。
「知らねえよ、おい、まだ作業中だぞ?こっちをしっかり見ろ。この桶を早く取れよ」
哲が、湧き出た泥をすくった桶を上に持ち上げている。
「おお、悪かった..」と、矢板の上に乗った職人がその桶を取り、矢板の外側に捨てる。
「くそ!定吉、早く戻って来い。作業が進まねえじゃねぇか」
哲はイライラとしながら、懸命に土留めを固め泥を掻き出す作業を進めていた。
「みんな、集まって来い!、一息ついたらどうだ、飯もあるし酒もあるぞ」
助五郎は、土手まで進み出て職人達に聞こえるように声を上げた。
戸惑っているソの郷の職人達。棟梁の指示が無いと、勝手に休むわけにはいかない。
職人達の反応が思ったより芳しくなく、助五郎は定吉を振り返った。
その定吉は眉間にしわ寄せ、半ば睨むように酒や肴を積んだ大八車を見つめていた。
「どうした?なんだ??」
不審な顔で助五郎が定吉に聞く。定吉は助五郎に向き直った。
「旦那、作業は順調ですが、決して早いわけじゃありません。ともかく雨が降る前に橋桁を架けてしまいたいんです。旦那のお気持ちは感謝しますが...」
定吉と助五郎の間に、右馬が割って入る。
「わざわざ助五郎がお前らの為と運んできてやったんや、感謝して取りに来るのが当たり前やないか?、定吉」
目の前に右馬、その後ろに鬼造がいたが、熊のような大男の身体がいつもより小さく見えた。定吉は冷静に右馬に言葉を返す。
「酒を飲めば、仕事にならない。旦那の心遣いはありがたいが、俺たちはさっき休憩にしたばかりなんだ。いまは休んでる暇はない、旦那だって早い橋の完成を望んでいらっしゃるだろう」
右馬から大八車の荷台の上の酒や肴へ目を移す。
豪勢みえる料理は、なにかおかしい。よくよく見るとなにか残り物のように思えた。
鯛の煮焼きがあったり、蓋をした釜から濁った煮汁がこぼれている、焼いた山魚も変色しているようで、今日作ったものには見えない。
...昨日の余りものじゃないのか?
「せっかく旦那がお前たちが食えへんよう祝い飯を分けてやろうってのによう、有難てえって気持ちないんか、お前らは」
... やっぱり食い残し、こいつらは...そんなものを職人達に食べさすつもりか?
右馬の言葉で確信して、自分たちを見下す助五郎達にフツフツと怒りが沸いてくる。
「いまなにか言ったか?あいつ...」
「え?」
助五郎は水の引いた川で作業している職人達を指差す。定吉は助五郎の言葉の意味がわからない。
「あいつ、なにか文句を言ってるようだ、これじゃあ仕事に支障が出るだろう?おい...あいつを連れて来い!」
助五郎が命令する。
右馬がくいと顎で指示すると、男達は黙ってぞろぞろと川中へと下りるために動き出す。
助五郎が発した言葉の意味に気付き、定吉は慌てて男達の前に両手を広げて立ち塞がった。
「待ってくれ」
定吉は、助五郎を向いて深々と頭を下げた。
「すまない旦那、俺が間違いだった。申し訳ない...」
最後はか細く消え入りそうな声。
助五郎は手下に職人を誰彼かまわず、引っ張って来いと命令した。そして理由をでっち上げて町に連れて行き、哲のようにリンチにかけるつもりだろう。
...助五郎達は、なんの後ろめたさもなく平然とやる。
平気でソの郷の人々を踏みつけにできる、心底、腐った八九三だと定吉はいま理解した。
ガックリと肩を落とす定吉。
嗤う助五郎。
「…ひゃひゃは、 ..俺のやったことが迷惑ならハッキリと言え、定吉」
「そんなこと..ありません。旦那には感謝しか... 全部、俺の間違いでした」
定吉は、頭を下げ続けていた。
「助五郎は文句言ってるやつが見えたから、ありがたくも話を聞いてやろうと思っただけやボケ。まともに職人の躾けも出来へんお前に代わってな、なに勘違いしとんのや」
右馬が定吉の頭を小突きながら言う。助五郎は、なにも言い返さない定吉を見て、
「いい加減にしろ定吉、お前がそんな態度なら職人がどう思う?、ん?、わしに脅されてると思うかもな、お前はわしを悪人にするつもりなのか?」
鬼造が、定吉の襟首を掴み吊るし上げた。顔を近づけて睨む。
鬼造の目に力はなかったが、定吉はもっと虚ろな目をしていた。
「作業が遅れてるわけじゃねえんだろ?、じゃあ今から休みだ、いいな。職人のことを少しは考えてやれ。明日、また次、その次もある。それだけあれば橋なんてすぐ出来るだろう、分かったな!」
鬼造の言葉が耳に入らないほど、いまの定吉は打ちのめされていたが、黙って頷いた。
肩を落とし力なくトボトボと泥土の川の中へと下りて行き、職人たちに「今日の作業はここまでにする」と伝える。
ソの郷の職人達はそれぞれの作業を取りやめ、道具を片付けて仕事終いをすると、わらわらと土手を上がり、丘の上の大八車に集まってきた。
みな口々に助五郎に礼を言いながら、引きつった笑顔で大八車から料理を運んでいく。
定吉に言い含められたのだろう、よく見ると腐っているのもあるが、誰も文句ひとつ言わずに運ぶ。
昨晩の残り物、喰ったら腹を下しそうだが、面と向かってそれを言って助五郎や手下の八九三達と揉め事にするつもりはない。
どうせ捨ててしまうのだが、いまは黙ってやり過ごすしかない。
右馬も手下の八九三も職人達の感謝の言葉を聞きながら、『このアホウたちが』と内心嘲笑っている。
助五郎だけは、職人たちの感謝の言葉を素直に受け取り、気分を持ち直していた。
料理を運ぶひとりひとりに笑いかけ、「気にするな」や「いつも助かってるぞ」と鷹揚な態度で、ねぎらいの言葉を返している。
...お前ら、この恩をしっかり感じとけ...
ソの郷のやつらが恩を感じて、酒や肴を運んできた苦労が報われる。犬以下の畜生みたいな連中にこんな事をしてやるのも、橋を完成させるためだ。
そのために、子毛から離れたソの河まで自分の脚で歩いて来て、泥だらけで小汚いのやつらを相手に我慢して愛想を振る舞っている。
この工事が無事に終われば、次はそれ以上の大仕事が待っている。それらを無事に終わらせられれば、尾張藩もこの多の屋助五郎の価値を認めることになるだろう。
その上ソの郷が子毛の分村となり住民が増えれば、子毛の町の規模はデカくなる。ゆくゆくは、五街道の宿場町に肩を並べるような宿場になるのも夢じゃない。
...いまは名も無い町の町代(町の代表者、町役人のひとり)でしかないわしが、惣町代(複数の町役人の筆頭)になることが現実に...。
読み書きもできない夜鷹(娼婦)から生まれた助五郎。貧困の極地から這い上がった 父親不明児が、町役人の頂点に成りあがる。
..小説本にでもなりそうな出世じゃねえか、その次は金で武士の地位を買ってやる。尾張藩から関所の役目を頂戴して、辺りの利権を集めれば...ここら一体すべてが、わしの国だ...。
助五郎の妄想は広がる。
肉親は母親だけ。物心ついた頃には、路上に立たされ、母親に体を売ることを強要された。
誰かがやって来て助五郎に興味を示すと近くの廃寺へ連れて行き、コトが済むと雀の涙ほどの金を貰う。それも踏み倒され、ヤラレ損の殴られるだけの事もあった。
金は全て家に持ち帰り、母親に渡す。稼ぎが悪いと殴られ良いと酒を買って来いと言われ、酔うと「お前なんか生むんじゃなかった」と殴られた。
やがて、幸か不幸か助五郎は成長すると躰がデカくなり過ぎて、男娼として売れなくなった。
金を稼げないことで、《穀潰し》と母親から罵られる毎日。
十四の歳には母親の背丈を追い抜いた助五郎は母親から殴られることはなくなったが、母親にまだ愛情を求めていた助五郎は、それから大人並の体躯と生来の凶暴さを武器に、暴力と盗みで稼ぐようになった。
母親はどんな汚い稼ぎ方だろうが、助五郎が金さえ持って帰れば褒めてくれた。母の喜ぶ姿、褒められた喜び、助五郎は死に物狂いで金を稼いだ。
金は全て、その頃に中毒者となっていた母親の阿片(麻薬)を買う金に消えていき、いつまでたっても貧しく裕福な暮らしにはならない。それでも母親の愛情を求めて助五郎は悪事に手を染めた。
そして母親は、助五郎が十六の時にアヘン中毒で死んだ。
涙ひとつ出ないのが助五郎自身にも不思議だったが、墓だけは建てようと借金して墓を建てた。せっかく建てた墓だが誰も参る者などいない、もうずっと昔に朽ち果てているだろう。
助五郎は暴力以外に生きる術を見いだせず、それからの人生を八九三稼業にどっぷり浸かってきた。
数十年、八九三として修羅場をくぐり舎弟も増えたが、デカい組織には自分のような何処の馬の骨とも分からない奴の出世を阻む見えない壁があることに気が付いた。
かといって、助五郎のような後ろ盾のないそこらにいくらでもいるようなイチ八九三が、暴力だけで大店(大きなヤクザ組織)を作るのも無理だと悟る。
しかも性悪の助五郎ですら吐き気がするような人畜生達がひしめく極悪の八九三の世界、「俺はこれ以上、此処で息をすることさえ無理だ」と悟る。
ある日、たまたま出会った多の屋の一家、その善良な奴らを騙すなんて助五郎にとっては簡単な事だった。多の屋の小娘を誑し、小さな宿場町の問屋の主人に収まることにした助五郎。
八九三稼業からすっぱり足を洗うつもりだったが、『自分は甥っこだ』と言う八助というちんぴらが自分を訪ねて現れ、昔の子分達も集まってきて、助五郎自身も本心では八九三を辞める気がなかった事に気付く。
だが、ここは天下を狙うような場所でもなく、たいしたシノギ(稼ぎ)を望めそうもない。日本中に名を売る事もなく山中の田舎の宿場町で、わずかな子分を抱えた一家で細々と生きる。
...この小店の親分がわしの器量の限界らしいと諦めてはいたのだが・・・
..わしにも運が巡ってきた。
空になった大八車を子分に引かせ、子毛に戻る助五郎。定吉は、橋梁の現場から子毛山道まで後をついて来て助五郎達を見送った。
助五郎が「もう良いぞ、気にするな」と声をかけてきたが、それが腹の底から出た言葉でないことは、定吉が身に染みて理解出来ている。
「旦那あってのソの郷です。失礼をお詫びいたします」
深々と頭を下げると、助五郎の顔が満足そうな笑顔に綻ぶ。
「ソの郷が子毛の分村になった暁には、お前が村長になればいい。わしの右腕として役に立ってくれ」
「はい」
定吉の返事に、助五郎は天下人にでもなったような気分だった。
...こいつは完全にわしの言いなりだ。
去って行く男達は振り返り、街道に立ち頭を下げ続けている定吉を嘲笑し、ニヤニヤ互いに顔を見合わせている。
定吉は助五郎達の姿が消えると、体を起こし、頭を下げていたせいで痛む腰を伸ばした。そして一息つく。
「職人は、あれ食ってないよな」
「ああ、棄てさせた。酒はイケんじゃねえかって騒いでたけどな」
哲が草むらから、定吉の問いに答えながら現れた。
「酒は飲めたかもしれないけどな」
「おい、先に言えよ。勿体ないだろ?」
あははと笑う定吉を、哲が心配そうに見る。
「大丈夫か?」
定吉は笑顔で返す。
「今日のあいつらのやり方にはヒヤリとさせられたけど、よく考えりゃこんな事は、多の屋の屋敷に行くたびにあることだ、気にしちゃいないよ」
街道を定吉が振りかえる。もうそこには、助五郎達はいない。定吉の表情が明るい、見えてるものが先程と違うのだろう。
「それに今日は、店に早く行く事ができそうだからな」
哲は、定吉の気分が明るくなった理由に気がついた。
「ああ、そうか、じゃあ行ってこい。後のことは俺がやっとくから」
そう言うと、哲は背を向けて子毛山道からソの河へと続く小道を下りていく。
「有難う、そうさせてもらうよ」
定吉は、離れていく哲の背中に向けて言った。
この小説には人の命を軽視したり侮辱するような(特に盲目の人や女性に対して)物言い、または乱暴な表現、人を貶める蔑称や男女問わず人や物、地域に対しても差別的な表現がありますが、作者はそれを良しとしているわけではありません。作品のイメージを大事にするために故意に使っている表現ですのでご了承ください。不快だと思うのであれば読まないようにしてください。読む人の選択に任せるものです。