第一章ep.4 鬼造《オニゾウ》と右馬《ウマ》
「早く潰してしまえ」
「ナメてたらどうなるか思い知らせてやれ!」
口々に大八車を囲む男達から、右馬に声がかかる。
「そんなしょぼくれた奴相手に、武器なんていらねえだろ。素手でやれ」
「さっさと終わらせようぜ右馬。お前ならできるだろ?」
見物客は無責任で勝手なことを、はやし立てる。
「右馬、子毛に和久家の代官が来てる事を忘れるなよ」
そこに助五郎の冷徹な声が加わる。
「おやっさん、そこんとこなんとか成らんのですか?」
右馬が不機嫌そうに助五郎を返り見た。
「無理に決まってるだろう。いまはただの代官だが、次の和久家当主になる方だぞ。見回りに来てる間に子毛で大事件でもあったら面目丸つぶれだ。無傷で帰ってもらわなきゃならねえ」
右馬が、「ちっ、」と舌打ちする。
抜きかけた長ドスを帯に差し、「しゃあねぇなぁ...」と言いつつ、胸の前で平手と拳をバチンとぶつける。
「やろうやオヤジ。刺すのはヤメた、てめえの顔面を潰したるわ」
近づいてくる右馬。地面と擦れる草履の音で、石は距離を測る。
... 誰がオヤジだ?鬼造もそうだが、お前らみたいな出来損ないの息子を持った覚えはねえや、..とはいえ分が悪い。このままじゃラチがあかねえな...
石は鬼造を抑えつけていた首根っこから杖を離して解放した。杖の圧力から解放された鬼造は四つん這いのままで、肩と背中を大きく上下させて荒い息を吐いている。
「クソが!‥」
身体に似合わない息も絶え絶えの、か細い声で石を罵る。
... さて解放してみたもんだが、どうなりますかね?
石が鬼造を放したのを見て、右馬の足も止まる。
「おいおいオヤジ。今更それで無かったことにはできねぇぞ?」
右馬はニヤリと嗤うだけ、石が追い詰められ焦ってていると思ったのだろう。
石は黙って、するすると気付かれないよう杖を前へと伸ばす。右馬のいる方へと。釣りのようなものだ。垂らした糸の反応を竿を持つ手で感じるように、地面のかすかな振動を杖を持つ手で感じる。
それで得る情報は、相手の場所、歩幅から体つき、動き方まで。
鬼造はまだ四つん這いのまま。石を見上げ睨んでる。
鬼造も威勢よく出てきたものの醜態を晒しただけということを分かってる。いまさら何をしようが、負け犬の遠吠えだと知っていても怒りが収まらない。
今日まで自分に一方的に暴力を振るわれ、死にかけた男達の負け顔が瞼に浮かんだ。鬼造のプライドはズタズタだ。
... だからと言って、負け犬と俺が同じわけじゃねえぞ。俺は言い訳や相手の力を侮ったりはしねえ。こいつには何かある。相撲時代にもたいしてデカくねえのに強え奴はいた。こいつは強い。理由はわからねぇが...。
「兄貴、こいつは強え。ナメてるとやられるぞ」
右馬は鬼造の口から出た言葉に驚き、踏み出そうとした足を止めた。鬼造と義兄弟の盃を交わして何年も経つが、鬼造がそんなことを言ったことは今までに一度も無かった。
右馬は腰に差していた長ドスを再び手に持った。刀を抜くほどなのかは分からないが、...よくよく見れば石が持つ杖が武器のように思えてきた。無造作に見えたこちらに真っ直ぐ伸びる杖が何かの計略のように感じる。
...このオヤジ何か企んでるのか...?
長ドスを抜こうとしているのを見て助五郎が、引き留める。
「右馬!お前なら素手で十分だろう。殺すな」
「いや、おやっさん、鬼がこんなことを言うのは初めてや。用心するに越したことはねえ」
右馬は石を、じっと観察する。
... 近づいて来ねえ?、杖を出し過ぎたか?、こいつらもただのバカでも無さそうだ、余計なこと言いやがる。これじゃあ不意打ちで、二人とも同時にやっちまうというわけにはいかなくなったぞ…。
石の額に汗が噴き出る、頭がぐるぐる回る。
... ここで大暴れするってわけにもいかねえよな。弦と由と妙を巻き込んじまう…
…やるならさっさとケリをつけたかったが警戒されたら終わりだ。このままじゃジリ貧。早くしねえとどんどん打つ手がなくなるな。土地勘もねえ場所じゃ逃げることもままならねえし、弦を置いては行けねえし...
石は閃いた。
...幸い、まだこの連中はあしが盲目だってことに気付いて無さそうだ...
…面子が命の八九三者、たった一人の盲目相手に目明き八九三が多勢で喧嘩したと噂になれば世間の嗤いものになるだけだ... やってみるか?
鬼造が睨む前に石が立ちあがった。
..殺られる!
鬼造は慌てて四つん這いで石から遠ざかろうとした。
だが石は一歩前に出ると、地面に腰を落とし膝をついて項垂れた。うなじあたりに手をやるとを、不思議そうに首を傾げる。
「あの皆さんなにか誤解されてるようで」
その一声に周りは息を呑む。石は続けた。
「あしはね、皆様に楯突くつもりは毛頭御座いやせんでしたが、こんな揉め事になっちまって御免なさいよ。其処ん所をご理解頂けるなら、へぇ、この通りお詫びいたします」
と、両手を地面に付き頭を地面に擦り付けるように深く土下座する。
その様子を大八車の周りを囲む男達も、右馬や呆気にとられて見ていた。由は驚いた顔で、妙は怯えたまま、弦の口元は少し緩んだよう。
ただその中で、独りだけ石の様子に怒りを隠しきれない鬼造がいた。
...このクソ野郎、いったい何のつもりだ! これだけコケにして、ただで済むと...
怒りが頂点を超えると、鬼造の顔色は赤くを通り越し、ドス黒く錆びた鉄のように変色した。その体はブルブルと震えている。
鬼造が、石へ襲い掛かかろうとする寸前、石は片手で地面を握り鬼造めがけて掴んだ土をパッと撒くと、鬼造がひるんだ所を、その巨体に両手を伸ばし引きずり込みながら上から乗りかかり組み伏せた。膝と腕で鬼造の背筋と首を抑える。
偶然、手に当たった鬼造が腹帯に仕込んでいた小刀。それをスッと抜き取ると、首を抑えた手に持ち替え首筋をいつでも搔き斬る準備が出来れば、余った手で杖を手繰り寄せる。
これ以上揉め事を大きくしたくは無かったが、鬼造が暴れようとしたから仕方ない。その事を理解して貰いたいが...
石は鬼造を抑えつけたまま、しばらく周りの様子を伺っていたが誰も近づいて来る気配は無い。落ち着いて、まだ途中までだった言い訳を続けた。
「あしは目が見えねぇんで、皆さんと行き違いがあったんでしょう。別にそのことは気にしておりませんので、皆様方もお気になさらぬよう願います」
そう言って鬼造のうなじに当てた鞘に入った小刀をそのままに、その巨体を抑え込みながらゆっくり体を起こすと助五郎のいる方へ向き直る。
「そちら様方にも何かしらの落ち度はあったと思いますが、あっしは気にしちゃおりませんよ。ここは喧嘩両成敗という事で宜しゅう御座んすか。旦那さんも若い兄さんも、こんなつまらぬ事で命を落とすは愚かな事、刃傷沙汰になるような野暮なことは御控え願います」
そこまで言うと鬼造の身体を放し、小刀をポンと地面に放って立ち上がった。
「ただの目暗がした事。大事にすることも御座いませんでしょう、では…」
そういうと石は杖を前に向けたまま、後退って腰掛けに座った。鬼造はまだ地面にうつ伏せに倒れたまま。背中を向くとそこから石の表情が覗けた。自分達になんの恐怖も感じておらず、ふてぶてしく薄ら嗤いまで浮かべている。
鬼造は、地の底を這うような唸り声を上げた。
「ふざけやがって、この野郎!」
「黙れ鬼、お前の負けだ。これ以上、恥を晒すな!」
鬼造を窘める右馬の声が響く。
「馬鹿は死ななきゃ分かんねえか?」
鬼造にだけ聞こえる声で石がボソッと囁く。次に鬼造が見た石の顔は、怒りに満ちた仁王のような形相になっていた。
石は腰掛けに座り直すと何事もなかったように、足を組み踝をコリコリ、小欠伸をしている。
... 目が見えねえ ...マジか!このオヤジ ...鬼造が目暗に小僧扱いされた? ...こいつは一体なにモンなんだよ...
男達は信じられないという顔で、仲間達で互いの顔を見あわせている。周囲の緊張は解け、白けた空気が漂う中でずっと一部始終を見守っていた助五郎が、口を開いた。
「御主人、名前を聞かせてもらえないか?」
「...さっきも言いましたが、そんなむず痒い呼び方はよして下さいよ旦那」
石は嗤って、助五郎の質問をいなす。
「御主人、今日は野暮用があってな、いつまでもここに居るわけにはいかないんだ。今あった事は水に流してもいいが、この話は終わりじゃねえ。取り敢えず名前を教えてくれ」
... 五月蠅えなあ、さっさと、野暮用に行けよ...
助五郎は名前を知りたがってるが石に教えるつもりはない。もしかして、名前を聞くまで帰らないつもりなのか?
...助五郎からは死人の匂いがする。関わり合いになりたくねえ…。
...間違いなく昔のあしと同類。若い間は裏の渡世を渡るたびに危ない橋を渡り八九三者供と関わり合いになったが、弦と一緒に旅するようになって足は洗った。あの阿漕な世界とはもう関わり合いになりたくねぇ...
助五郎のまわりには、殺されたやつらが腐臭を放ち亡霊となってまとわりついているようだ。見えないからこそ感じる、第六感のようなものかもしれない。
...面倒なことになった...
途方に暮れる。
「わしは子毛で手広く商いをしてる多の屋の助五郎ってもんだ。大なり小なり子毛で起きる事は全てわしの耳に入る。大っぴらには言えないが表も裏もすべての事がだ。御主人、名を名乗ってくれなきゃを、あんたに使いを出す事もできないだろう」
...聞きたくもねえ話を言うんじゃねえよ...
助五郎は石の名を聞くまで、此処を引き下がるつもりが無いようだ。しかも、何処かへ来いという話。石を逃がさないということらしい。
…いったいあしになんの恨みがあるのか?
...今畜生!今日の寝床すら決まってねえのに、八九三に呼び出される事は決まってるなんて、そんな阿呆な話があるかい!
それに助五郎がいる以上、子毛の町で泊まる可能性は消えた。このまま子毛を通り過ぎ山を登り、次の町まで夜通し歩くか、野宿するか?
...あしは大丈夫だが、弦は限界だ。そんなことをすれば弦は死んじまう。何処かでゆっくり眠れる所を見つけないといけねえ...
「御主人... 名前を言ってくれ」
...しつけぇな、あしはいま忙しいんだ。考えさせろ!
頑なに名前を言いたくない石、しつこく名前を聞いてくる助五郎。両者にとっても、まわりにもとっても意味のない我慢比べが続いている。
「屋号もない旅の者、取るに足りない者で御座んす。他人様に名乗るほどの名は御座いやせんので、ここはご容赦願います」
「いやいや、わしが御主人を招待くと言ってるんだ。名を聞かせてくれないと使いの者も困るだろう?」
終わる気配がない無駄な会話のループ。大八車を囲み様子を伺っていた男達もイライラとして殺気立ってきた。それを察した助五郎、男達に指示を出す。
「このままじゃ、せっかく運んできた大八車の酒や食い物が傷んじまう。すぐに出る用意しとけ。 鬼造、いつまでそこで寝転んで油売ってるんだ。右馬も大八車の前に戻れ、みなを先導しろ!」
そして視線を石に戻す。
「わしの屋敷は由が知ってる。前に多の屋で働いてたからな」
助五郎は石に近づくと腰をかがめ、耳元で低い声で囁く。抑揚を抑えたドスを効かせた声が石の耳に響く。
「どうしても断るなら、ここで互いに殺し合いをしてその間に女房を攫う事も出来る。お前はどちらが望みだ?助五郎一家と殺り合うのか?わしは穏便に済ませてえんだがな」
弦を巻き込む脅しにはイラっとしたが、普通に考えてもうここら辺りが引き時なのは分かる。
此処は逃げ切れられたとしても、助五郎の手下たちが何人いるか分からない。其奴等を相手にしながら弦を守り切れると思うほど自分を過信していない。それに路銀(旅費)は底をついてる。頭で算盤を弾いてみるが、どう考えても金が足りない。
...一両ほどありゃなんとかなるが、稼ぐには一ヶ月くらいはかかるな...これ以上の面倒を起こしてもなんの得もねえ...
腹は決まった、子毛にしばらく留まり金を稼ぐ。どのみち、いま残された道はそれしかなさそうだ。
「あしが旦那の言う通りにどこかしらに参れば、それで今日の事は水に流すと仰るんで?」
「そうだ」
助五郎が頷く。
「今日は旅の者と世間話をしただけだ。そうしてやる」
石は一呼吸置いた。
「分かりました。そこまで旦那が仰られるのなら、これ以上、旦那のお時間を頂くことはない、何処へなりとも参りますよ。ただし、宿で体を休めてからに致します」
助五郎は不満そうだが、時間もない、これ以上揉め事を長引かせるのは意味がない。
「...いつ、来れる?」
「今日の夜か、明日中でも」
「今日の夜に来い、迎えをやる、宿は何処だ?」
宿はない。だがそんなことを正直に言うわけにもいかない。
「あしの古い馴染みの家に泊まるつもりですが、場所は分かりません。ここで待てば迎えに来ると言っていたので、いずれ来ると思いますが何時のことやら」
「じゃあ、誰か一人残して行くよ」
「へぇ、そうして頂ければ。もし今日の夜に伺う事が出来なくても、その方が居れば旦那にも伝わる事でしょう」
石は自分の物言いが助五郎にどう伝わったか返事を待つ。
「逃げるってことか?」
「さあ?、今日の夜には必ずうかがうと、あしは約束しましたよ、旦那。町の棒鼻(入り口)辺りにでも、案内人を待たせて貰えれば必ず参ります」
助五郎はじっと石を睨みつけていたが、急に明るく嬉しそうに嗤った。嗤い声を聴きながら、上辺だけだろうと石は思った。
「いいだろう、お前の言うとおりにしてやる。ただ今日の夜来なければ山中だろうが、江戸だろうが地の果てまでお前たちを追いかけることにするぞ」
石は呆れたように言った。
「旦那ぁ、ただの目暗と女の足で逃げれるわけがないでしょう。あしは、久しぶりに昔馴染みと人目を気にせず呑みてえだけですぜ」
ようやく、助五郎一行は去って行く準備をした。
去って行く時、大八車が進む速度に合わせ歩いていた鬼造は石をずっと睨んでいたが、一人だけ横を向いて歩いたせいで足の甲を車輪に轢かれていた。
その間抜けな姿に、由は鬼造から目を背け、弦は顔を伏せ笑いを堪えた。
そして一行姿は街道から消えた。
助五郎と手下達が運ぶ大八車が向かう先は、ソの河に当たる。いま其処ではソの郷の職人が集まり、幕府の認可を受けた尾張藩より預かった大仕事、ソの河に橋をかける橋梁工事が行われている。
助五郎一行の姿が見えなくなると弦と由は声に出して爆笑した。二人を見上げ妙がキョトンとしている。一触即発の緊張した直後の反動もあってか、二人とも泣き笑いしていた。
何があって二人が大笑いしているのか? 鬼造の姿が見えない石は、二人の大笑いする様子を呆気にとられて聞いていたが、二人が笑い終え少し落ち着くと考えていたことを切り出した。
「姉さん、ちょっと話があるんだが...」
由は石を振り向いた。
「あたしに?」
「そう、姉さんに頼みがあるんだ」
石は申し訳なさそうに話をし始めた。