ep.1 野良犬
暗くなった街道は、目を凝らしても遠くは見えない。
「石さんは、こんなに暗くてもスイスイ行くなあ。俺はこう暗くちゃ足元も覚束ない。子毛まで案内するつもりだったけど、これじゃ来た意味が無いな」
と定吉は苦笑いした。
「意味が無い事はねえさ。こうやって話し相手がいると退屈しねえで済む」
石には、定吉が言葉と違い夜道に慣れているように思える。
遠くで鳴き声がした。
「ざわついてるな。ひどく興奮してるようだが、この辺りは野良犬が多いのか?」
「野良犬?」
遠くから、オウ、オウ、オウ、と、群れを成す犬の鳴き声が聞こえた。
「本当だ。陽が落ちたところなのに、もう騒いでる。今日は夜道を歩くのは危ないかもしれない」
定吉は、街道に沿って港口と広がる野っ原に目をやった。
野犬の鳴き声に呼応するように、他の動物の鳴き声もしている。
日中は人を恐れて近づいて来ないが、夜になると興奮した獣が人を襲うことがあるらしい。
女性や子供が襲われて、咬まれた傷が元で破傷風になり亡くなる事もあると云う。
##!!?’
...!なんだ?
悲鳴のような声が聞こえて野っ原に顔を向けた。
定吉には聞こえていないようだ。
微かな音だったので、聞き違いかもしれない。
石は、意識を集中して耳を澄ませた。
「・・・」
野良犬の鳴き声以外は、特に聞こえなかった。
「石さん、どうしたんだ?」
「いや、人の声みたいな音が聞こえたんだがな。・・気のせいだったんだろう」
二人は歩き出した。
「定吉さん、お前さん歳はいくつだい?」
「三十一(才)、呼び捨てで良いよ。石さんの方が俺より年上だから、変に気を使われるよりその方が気が楽だ」
定吉はそう言ってニコリと笑った。
「じゃあそうさせてもらうよ。店で、よしさんからソの郷の話を聞かせて貰ったんだが、お前さん他所から来たらしいな
「故郷は何処なんだい?」
定吉は遠くを見つめた。
「生まれは信州らしいけど、俺には記憶がないから故郷とは言えないな。親がまだ俺が乳飲児の時に兄貴も連れて江戸へ出て来たらしい
「物心ついた頃には江戸で暮らしてた、だから故郷は江戸かな。信州に行っても、俺を知る人なんていないだろうしなあ」
「江戸育ちか、今からが働き盛りの脂の乗ってくる歳だし、腕の良い職人なら周りの女たちが放っとかなかっただろう」
「そんな事はないさ、親からは嫁はどうした? って相手も居ないのにせっつかれて大変だよ」
定吉は苦笑した。
「お前さん、ここに来るまでは親と一緒に暮らしてたのか?」
「いや俺は、十一(才)で宮大工の棟梁についたからその歳には家を出たよ。大工は、普通、大工町に住むんだが、俺は江戸前島にずっと住んでた
「棟梁が江戸城の修繕も任される凄い職人だったから、(江戸城に)近いほうが都合が良いからって、子供の頃から親とはずいぶん離れたところに住んでたな、会うのは正月くらいだったよ」
「そうかい、じゃあまだ子供の頃は寂しかったろう・・・って、おお? お前さん、もしかして将軍が住む江戸城に入ったことがあるのか?」
石は、ちょっと興奮していた。
「入った事はあるけど、石さんが期待するような話は無いよ。俺らみたいな者は、将軍様の御住まいを頭を高くして歩くなんてもってのほかだからな
「ずっと下を向いて、前を歩く先輩の踵ばかり見てたよ。顔を上げたら、役人の侍たちに何されるか分かったもんじゃない。作業場に着く頃には首が痛くて、すぐ作業にはとりかかれなかったからなあ」
「そうか、なんか大変そうだな」
「あんまり上を見るのも、肩が凝るだけだよ」
ははは、と二人して笑った。
「多の屋の助五郎とは、いつ頃からの知り合いなんだ」
「ソの郷に来て、子毛の大工仕事を引き受けるようになった頃に旦那から仕事の声がかかったから、もう五、六年かな」
「その時から、旦那とは懇意にしてんのか?」
「そうでもないよ。旦那は今でもそうだが町中にある問屋に居ないからな。亡くなられた奥様が店を切り盛りしてたから、最初は奥様と話をすることのほうが多かったよ」
「おくさま?」
「陶さまといって、多の屋の一人娘でとても聡明な人だったよ・・・」
定吉は、そう言って真っ暗な空を見上げた。
定吉は、すえと云う女性に特別な想いを抱いて居るようだと、弦なら気付いただろう。
だが鈍感な石は気付かない。
それに石は、ずっと定吉に対して抱えている違和感の正体を突き止める事で頭がいっぱいだった。




