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座頭の石 (ざとうのいし)  作者: とおのかげふみ
第三章
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第四章ep.5 密偵《スパイ》

由親子の様子を逐次(ちくじ)、助五郎に伝える事になった日を、思い返しながら子毛の町を歩いていると、つい足が、弥切の待つ屋台に向かっていた。


その目に屋台が見えた。今日も、弥切は定吉を待っているようだ。


嘆願書が灰になった今、定吉にはもう弥切と話をする理由は無いが、来てしまったなら、これで終わりと話をつければ良いと考えた。


弥切は、俺の素性を助五郎にバラしてしまうかもしれないが、その時は仕方ないと思えた。


...陶さま、俺は役立たずでした... 陶の遺言(ゆいごん)ともいえる嘆願書を御上(おかみ)に届け、助五郎に鉄槌(てっつい)を下す。それに命を賭けてもいいとまで、定吉は思っていた。


弥切がこちらを見ているのが分かった。


ふと疑問が浮かぶ ...そもそも、この男はいったい何者なのだろうか?... 八九三(ヤクザ)にしては(ガク)(知識や教養が身についている)がある。暴力しか取り柄のない右馬や鬼造と違い、市井(しせい)(庶民の社会)では、江戸であってもたまにしか見かけないような頭で悪事をするタイプ。


こんな田舎で(くすぶ)ってるのが不思議だ。


…弥切は、学の無い助五郎では無理な仕事、陶さまが行っていた店と家の内向きの仕事を手伝っていたようで、教養もあり、読み書き算盤(そろばん)も出来たこの男を、陶さまは重宝(ちょうほう)していたようだった…


だが定吉にとっては、何を考えているのか分からない油断ができない男。言葉尻を取られただけで、後々(のちのち)どんな厄介事に巻き込まれる事になるかわかりやしない。


助五郎は喜怒哀楽が激しく、感情が顔に出るので(ぎょ)しやすいが、この男は、同じようにはいかない。いつも、弥切と会うのにうんざりしていたが、今日からは楽になりそうだ。


黙って弥切の隣に座る。おでんはグツグツ煮えているが、店のおやじは何処(どこ)かに消えている。面倒な話の時は、いつも店のおやじは此処(ここ)にいない。


「今日は助五郎(ダンナ)と、どんな話した?」


いつものように銚子をつまんで目の前で揺らしながら、弥切が聞いてきた。


「ソの河の工事が進んでねえんだろ、その事で何か言われなかったか?」


「それなら、夏までに完成すればいいという話だった」


弥切は、持ち上げた銚子の底を眺めてる。


「へぇ、ダンナは寛大だな。そう思うだろ?」


定吉は返答に一瞬詰まった。


「ああ」


「嘘つけ」


弥切の言葉に定吉の表情は固まる。それを見て弥切が(ワラ)った。


「酒は?」


「まだ仕事がある。これから現場に行くつもりだから必要ない」


助五郎なら「俺の酒が飲めないのか」と怒りだしそうだが、弥切は断ろうが気にしない、合理的で感情に(はや)ることもなく、常に冷静だ。


最近、助五郎との会話は、ほとんどが由の事。そんな内容を、弥切は本当に知りたいだろうか? ただの話の繋ぎのような気もする。


(よし)の話もしたか?」


ふいを突かれて少しドキリとしたが平静を装う。


「いつものことだからな」


聞かなくても、全部お見通しのようだ。屋敷に弥切の息のかかった密偵(スパイ)が居るのかもしれない。


...しかし、この男はいつも屋台(ここ)で待っているが、いったい何がしたいのか? 俺に聞きたい事が本当にあるのか?...


定吉はスクッと立ち上がった。


「もうあんたと話をするのは、今日で最後だ」


「そうか」


一応、先に仕掛けてみたものの弥切の反応は薄い、興味がなさそうだった。


本気と思われてないのか、やはり意味のない時間だったのか... だが定吉が立ち去ろうとすると、


「俺の持っているのは焼いたが嘆願書(あれ)は、他にまだ()るはずだと思うぜ」


ぽつりと弥切が呟いた。 …定吉は振り返り、俯き(さかずき)に酒を注いでいる弥切を見た。


「他にある?、何が言いたいんだ」


「二通かそれ以上か?、ともかくもう一通は確実にあるということだ。俺は、あの女の下で便利使いをしていた、どんな字を書くか知ってる。(すえ)が死んだ時、枕元で見つけた嘆願書(あれ)は、あの字は陶が書いたものじゃない。理由は分からねえが、おそらく写しだろう。」


(すえ)は手紙だろうが、礼状だろうが必ず自分の筆で書いていた。嘆願書なんて大事なものを、自分で書かないはずがない。絶対に、(すえ)が書いた嘆願書が何処かにあるはずだ」


確信を込め、弥切は言い切った。


「なぜ... そんなことをする必要がある?」


「本当の事は、(すえ)しか分からねえが、俺が考えるには... 誰かに見せるためだ。(すえ)は、わざわざ人に見つかるように仕込んでいた。そして、違う字で書かれたものなら、(すえ)を知るやつなら俺と同じように、自筆で書いた同じ内容のものが何処かにあると考える。助五郎(ダンナ)にとっちゃ、今まで築いていたもの全部失いかねない内容が書かれた嘆願書(それ)が、まだこの世に存在する、それだけで、生きた心地がしねえだろうよ」


「あの女は(すげ)え女だよ。死んでも助五郎(ダンナ)を縛り付け、自由にさせやしない」


ひひひ... とほくそ笑み弥切は、定吉を見上げた。


「俺はな定吉(さだよし)、持ってるのは(よし)じゃねえかと思ってる」


定吉の驚いた顔を見つめ弥切は言う。


「他に考えられる奴はいないからな」


弥切は杯の酒を、一杯(あお)る。


「お前、聞けよ(よし)に」


「断る」


即答した。この件に由親子を巻き込むつもりはない。


「そうか?じゃあこの話は終わりだ。ソの郷が、無事に子毛の分村になり、ダンナの権力が今よりもっとデカくなれば、もう俺らみたいな奴らが手出し出来る存在(もん)じゃなくなる。ダンナの子毛の支配は死ぬまで続き、きっと(よし)()られるだろうよ」


弥切は興味を失ったように、片手を振った。


「帰れ、もうお前に用は無い。(よし)を獲られて、ジジイになって死ぬまで、(みじ)めな自分を(あわ)れんで暮らせ」


凍てつくその言葉に、ゴクリと唾をのみ込み間をおいて定吉が応えた。


「なぜ、旦那は(よし)さんにそんなに執着してるんだ。惚れてるってことか?」


弥切がくすくす笑いだした。


「阿呆かお前は、もともと(あれ)はダンナの女だ。あいつがどう思ってるかは関係ねえ、ダンナがどう思ってるかだ。(たえ)は誰の子か分からねえだろ?あれは、ダンナの子供(ガキ)を孕んだ結果だという噂もあるぜ」


由や妙を嘲笑(あざわら)うような弥切の胸倉(むなぐら)を、怒りに任せ片手で掴み上げ、もう片方の拳を握り締めた定吉、今にも殴りかからんばかりの勢いだ。


「俺とやろうってか、いい度胸だが()めとけよ」


「俺は、お前みたいな悪党(クズ)を散々相手にしてきた。舐めるな!」


ハハハと弥切が(ワラ)った。


「そういう事じゃねえよ。ここで騒ぎを起こせば、面倒なことになるんだ、お前も俺もな。お前まさか?この子毛(こげ)の町で助五郎(ダンナ)が、俺たちが会ってるのを知らないとでも思ってたのか?」


「俺は、尾張(おわり)の代官の和久家(わくけ)、つまり現在(いま)子毛(こげ)に居るソの河の工事の見廻り役人の世話係だ。その役人と工事の責任者の定吉(おまえ)との繋ぎをしているという建前で、ダンナの許しを得ている」


弥切は定吉の腕を押し返し、掴んでいた手を払いのけた。


「ただし、ダンナに(よし)の事を報告するお前と同じように、俺もお前との会話をダンナに報告している。お前がどんな風にダンナと話した事を思ってるか知りたいんだそうだ。ダンナはお前が思うよりずっと慎重で、執念深い。自分に対して周りがどう思っているかに常に気を配り、裏切り者を決して許さない」


「俺にだって監視を付けてる。ただ、監視をするには間抜けな奴だがな」


「監視?、誰のことだ」


「いま女を買いにいってるさ」


定吉の頭に一人の男が浮かんだ、八助だ。


「大袈裟に騒ぐな、そうするとダンナに嘘の説明するのが面倒になるからな」


拳を握り締め、襟首を掴んでいた定吉の両手が、所在なく宙ぶらりんに肩からぶら下がっている。弥切は定吉が威圧しようが、なんの怯えもなく冷静そのもので、威嚇だけなら意味が無い事を悟る。


「ともかく(すえ)が書いた直筆の嘆願書が必要だ。それで無ければ御上(おかみ)に上申しても無意味だろう。俺も思いつく限りを探したが見つからなかった。もし(すえ)が嘆願書を託したのなら、(よし)の他に考えられない。だが俺では、(あいつ)から聞き出すことは無理だ。そこで定吉、お前の出番だ。お前なら出来る。(よし)から嘆願書の在処(ありか)を聞き出せ、いいな?」


弥切は、掴みあげられて皺が寄った着物の襟首を直しながら、


「まあ、そんなに慌てる必要はねえ。どの道、尾張ルートは絶望的だ。あとは、幕府に直接持っていくしかないが、そう簡単にできるほど甘くねえしな」


「そんなルートがあるのか?」


「あるだろ? お前には」


弥切が言ってる意味は分かった。かつて江戸奉行所の廻り方同心の下で、御用聞(ごようき)きをしていた俺だ。その(すじ)を当たれということだ。


「俺にはもう江戸で、頼めるような知り合いはいない。俺を使ってた廻り方の同心(だんな)は、死んでしまったから」


「知り合いは他に居るだろ?いざとなればどんな手でも使うのが当たり前じゃねえのかよ?、それを当たれ。俺は別ルートを探る」


「別?」


「お前がやってるだろう、ソの河の橋梁工事だ。あれはもともと尾張家からきたものじゃなく、江戸の幕府の年寄(徳川家の政務を司った重臣、老中)から直々に和久家に降りて来た話だそうだ。御上(おかみ)に嫁ぐ姫を内密に運ぶ為の道造りの一環って噂もあるが、話が上(幕府の中枢)過ぎて、俺達には真偽は分からねえがな」


弥切は、腰掛を(また)ぎ定吉を正面から見据える。


「ともかく、橋梁工事と和久家の見廻り役人のおかげで、俺にまだ細いが幕府と繋がりができた。ここからはダンナか?俺か?どちらが先に御上に太いパイプを持てるかの勝負になる。俺は幕府へのルートを作る。お前は昔の筋を使って江戸のルートを探す。もうスタートは勝手にしちまってる、いいかこれが最後のチャンスだ」


「ただ... どちらにしても嘆願書(あれ)が無いなら、この話はここで終わりだがな」


...俺が由さんを探る、まるで密偵(スパイ)をしろというようなものだ、 いや、もう親子の暮らしを密かに助五郎に報告してしてるだけで密偵(スパイ)のようなものか?... それに、…確かに弥切の言うとおりだ、嘆願書が無ければ意味が無い...


何処(どこ)の馬の骨とも分からない定吉と八九三(ヤクザ)の弥切、こんな者が助五郎の悪行を訴えたところで、御公儀が耳を貸すはずもない。


だが、定吉が仕えていた江戸奉行所の廻り方同心を動かした陶。彼女が書いた直筆の嘆願書なら、その信憑性を疑うものはない。少なくとも、御公儀(うえ)が受け取らないなんて事は無いはずだ。


この話の損得を測っている定吉の思考を、弥切の言葉が(さえぎ)る。


「悩んでるところ悪いがな、お前、由のところに女がいるのを知ってるか?」


急に話が変わり定吉の頭はついていけない。


...女? たえ? 誰のことだ。


「おいおいボケちまったのか?」


弥切が(あき)れたように(わら)う。突っ立ってる定吉の袖を引き、無理やり座らせる。


「おやじ、そこのこんにゃくと、たまごもくれ」


店のおやじが戻って来ていたようだ、売り物のおでんが煮詰まるのを心配したのだろう。おやじは注文通りに皿にのせて弥切に渡し、それを弥切は定吉の目の前に置いた。


弥切は定吉の顔を覗き込み、ニコリと笑う。憎めない顔だ、人たらしとはこういう奴の事を言うのかもしれない。


「その女は、お前がまえに子毛まで送って来た目暗(めくら)按摩(あんま)(いし)って言ったか?そいつの女房らしいな」


「...なぜ知ってる?」


「俺には此処(ここ)いらで起きた事は大概(たいがい)、耳に入る。石が右馬(ウマ)鬼造(オニゾウ)と揉めた事も聞いてる。ただ助五郎(ダンナ)は、石の女房が(よし)の家に居ることは、まだ知らないはずだ」


「そうか...」


(つる)と石の顔が定吉の頭に浮かぶ。弦が由の家に居ることが、助五郎にまだ知られてないことに安心した。


「そこで、もう一つ頼まれてくれ」


(よし)さんを調べるとは、俺は一言も言ってないぞ」


「ああ、分かってる。今まで通り(よし)の家のことを気にかけてやってればいい、その中で嘆願書(アレ)の情報がありゃ俺に教えてくれ」


ぽんと弥切が定吉の肩に手を置く。


「このずっと向こう、町はずれの木賃宿(きちんやど)に、その石が宿泊(とま)ってる。そこから、按摩仕事に行ってるようだが、おまえ知ってるか?」


町の外れの方向を指さしながら、弥切が言う。 定吉は、一瞬迷ったが正直に答えた。


「知ってる...」


弥切は、ニヤっと(ワラ)った。俺は『お前が正直に言うと分かっていた』と言われた気がした。


弥切は調べた上で、確実な事実を質問し相手の反応を見る。それは、相手の言葉が信用出来るかどうかを見定めるため。


相手は正直に答えるか、嘘をつくならどんな風に嘘をつくのか、仕草、表情、ときには怒らせ、(なだ)(すか)し、相手を理解しようとする。


相手の人間性を深く理解しておくことが、いざと言う時どれほど役に立つか理解しているからだろう。


定吉(さだよし)、石に按摩の客を世話してやれ。俺がもう良い客を見つけてある。心配するな、金払いのいい上客だ。それならいいだろう」


「何のために?」


「その石って奴が知りてえだけだ。他に理由はねえよ」


見ると弥切は、ぼんやりとおでんを見つめていた。不思議とその言葉と表情に、策略や計算は感じられなかった。定吉は、初めてこの男の素の部分を見た気がした。


「断ってもいいんだよな?」


「お前がか?」


「...いや、(いし)さんが仕事をだ」


弥切は徳利を目の前で揺らしてから、手酌で杯に酒を注いだ。そして、今度は(さかずき)のなかの水面(みなも)を見つめている。


「まあ、頼むわ」


それからしばらくの間、二人とも黙りこくっていたが、ふいに弥切が懐から紙包みを取り出して、テーブルに置き、定吉の目の前に押し出した。


定吉は、その紙包みを眺めた。


金平糖(こんぺいとう)、甘菓子だそうだ。俺は辛党(からとう)で甘いのは苦手でな。(たえ)に持って帰ってやれ」


定吉の手は動かなかった。


八九三(やくざ)は、どんな所から恩を着せて来るか分からない。こういう小さな何でも無いような事でも恩を押し付けて、普通の人間の良心に訴え、頼み事を断りづらくして絡め取る。


「これは、俺の個人的な話だ。石に仕事の話だけしてくれりゃいい。その後、どうなろうとお前には関係ねえし、その石って奴にも金になる。この仕事は悪かねえ話のはずだぜ」


定吉が受け取ろうとしない金平糖の包みを、弥切はチラと見る。


「俺が持って帰ったってしょうがねえだろ、それを持って帰れ、じゃあな」


これでサイナラと手を振り、腰掛けを跨いでいた足を戻し座り直すと、弥切は話を切った。定吉はまだ、紙包みを見て考えてる。


...なぜか分からないが、俺の周りを含めて、石さんを中心にして子毛(こげ)の町が動いてるみたいだ。あの人はいったい何者なんだ?... 目の前の六つ切り鍋のなかで、グツグツ煮えるおでんを、会話の途切れた二人は、所在なく見つめている。


(いし)さんと知り合いなのか?」


どうしてもそれを聞いておきたかった。


「さあな?、向こうは知らねぇだろう ...俺の片思いかもな...」


フヘヘと弥切は、自分の発した表現に、自分で気色悪そうに薄ら嗤いを浮かべた。


…助五郎一家のナンバー2とも()われる代貸し、裏仕事を全て仕切っている男。


心を許せない、相手に隙を見せない厄介な人間なのに、なぜかこの男のいま言った言葉は()に落ちた。


おそらく上客を紹介してくれるのは本当だろう… それに石を害する気は、...無いように思える。どちらかと言えば、弥切は石に対して、敵意より憧れを抱いているような雰囲気さえある。


定吉は深く息を吸い、大きな溜息のように吐いた。


「もし嘆願書の話をどこかで聞いたなら、あんたの耳に入れる。石さんには客の話を伝える、それだけだ」


「構わねえよ」


弥切は、定吉に紹介する客の素性と按摩に行く場所を伝えた。そして木賃宿に、誰かを迎えに行かせると話した。


話は終わり、定吉は席を立った。


「おやじさん、ここにおいとくよ」


定吉は、いつも自分が食べた分の金をテーブルに置く。弥切は律儀な奴だと思いながら、素知らぬふりをする。


定吉が、八九三(ヤクザ)に借りは作らないという意思表示だと、弥切も分かって居るだろうが、特に気にするふうでもない。おそらくバカ正直な奴だと内心嘲笑(あざわら)ってるだけだろう。


「これは、あんたの為に貰っとく。持って帰って、(たえ)に渡しておくから」


わざわざ、大事に包み紙で(おお)って持ってきたものだ。本心から、妙に渡す為に持ってきたのだろう。


弥切は何も言わず、箸を持ち直しておでんをつまみながら、酒を口にしている。


...やっぱりよく分からない男だ... 溜息をついた。


定吉が弥切を見つめていると、視線を感じたのだろう、定吉を振り向きもせず、杯を口に当てたまま不愉快そうに言った。


「なんだ?」


それに今度は定吉が答えず、黙って背を向け歩き出した。すると背後から声がする。


「今まで通り、子毛に来たら必ず帰りに此処(ここ)に来いよ」


定吉は無言のまま、おでん屋を去る。


しばらく歩いて、ちらと振り返ると、弥切は店の親父と笑いながら話し込んでいた。


定吉は歩き、棒鼻(ぼうはな)を過ぎて子毛山道へと出た。そして、すぐの小道へと入る。


最初から現場に戻るつもりはなく、帰りに石のところへ立ち寄るつもりだったので、小道を()っすぐ行った石が宿泊(とま)っている木賃宿(きちんやど)へ行く。


(つる)に石の様子を見て来て欲しいと言われていたのと、どこで得た知識がわからないが、物知りの石と話したいことがあったからでもある。


しばらく歩くと、遠くに竿(さお)を持ち、ひとり川岸で(たたず)んでいる石を見つけた。


「石さん、釣れてるかい?」


定吉が声をかけると、石が答えた。


「ぼうず(一匹も釣れてない)だよ。皆が飯の残り汁を撒くもんだから、あしのマズイ餌なんか食いつきやしねえ」


本気で悪態をつく石の姿を見て、定吉は笑った。気分が少しだけ晴れやかになっていた。

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