第四章ep.4 密偵《スパイ》
【密偵ーみってい】
助五郎に追われるように屋敷を出た後、梅雨空を見上げ定吉は思った。
...俺は何をするために子毛に戻って来たのか。あの人を助けてあげたいと考えたからじゃないのか?
一年ぶりに会った陶は、病気を患い痩せ細っていた。心配すると、「大丈夫だから、少し風邪が長引いているだけ」と言って微笑んだ。
だが病状は良くなる事はなく、寝床に伏せることが多くなり、やがて姿を見せなくなった。
最後は顔を見る事も許されず、戸を隔てて会話をした。
陶さまは何故、俺に嘆願書の事を話さなかったのか?
聞くまでも無い、理由など自分が一番分かっている・・・俺が無力だからだ
長雨続きの小休止で、今日は雨が止んでいる。
この合間に用事を済ませようと、家に閉じこもっていた人達が出て来て、町は多くの人が行き交っている。
大通りを避け棒鼻に向かい歩いていると、いつの間にやら弥切が待っている屋台へと足が向かっていた。
嘆願書が灰になった今、あの男と話をする理由は無いが、来てしまったなら仕方ない。これで終わりとケリをつけよう。
弥切は自分の過去を助五郎にバラすと脅すかもしれないが、この時はどうにでもなれと半分ばヤケになっていた。
...俺は役立たずの出来損ない
陶の遺言といえる嘆願書。それを御上に届け、助五郎に鉄槌を下す。
...嘆願書の存在を知った時、それに命を賭けようと思った
弥切も、こちらを見つけたようだ。仲の良い関係ならここで手を振るのだろうが、お互いに相容れない相手。
笑顔と真逆の、互いに睨み合うように距離が縮まって行く。
弥切は、何処で身につけたものか分からないが、教養があり、子毛のような山奥の田舎町に似つかわないような知恵者。
田舎の八九三によく居る暴力でしか解決の仕方を知らないタイプ。子毛で言えば、右馬や鬼造のようなのと違い、頭を使って穏便に利益を得て、暴力を最終手段としてしか使わない。
助五郎の手下として、こんな場所で燻ってるのが不思議なくらい、利口な男だ。
定吉がソの郷の職人として見かけた頃は、堅気に混ざって問屋の仕事をしていた。
礼儀をわきまえ、読み書き算盤も出来たこの男を、陶さまも重宝していたようだ。
今は問屋と裏稼業。その両方の仕入れと仕切り、帳簿の管理を預かっていると噂に聞いた。
助五郎は喜怒哀楽が激しく、感情が顔に出るので危ない時が分かる。だが、この男は同じようにはいかない。
言葉尻を取られただけで、後でどんな厄介事を押し付けられる事になるか、分かったものではなかった。
いつも弥切とは、神経戦。会うたびにうんざりしていたが、今日でそれも終わりだ、明日から楽になる。
屋台の商品のおでんはグツグツ煮えているが、主人は何処かに消えている。込み入った話の時は、いつも此処にいない。
定吉は黙って腰を掛けた。
「今日は助五郎と、何の話をした?」
弥切は、自身の目の前で徳利を揺らしている。
「ソの河の工事が進んでねえんだろ、その事で何か言われなかったか?」
「それなら、夏までに完成すればいいという話だった」
コトッ 徳利をテーブルに置く音。
「へぇ、和久家の役人に期日までに間に合うのかとせっつかれてるはずなのに。助五郎は寛大だな、そう思うだろ?」
定吉は、返答に一瞬詰まった。
「・・ああ」
「嘘つけ」
定吉の表情が固まる。その顔を見て弥切は嗤う。
「酒は?」
「仕事がある」
「そりゃご苦労だな。駄賃に俺のツケで飲んでも良いんだぜ」
弥切は、そう言って酒を口に運んだ。
助五郎なら、「俺の酒が飲めないのか」と怒りだすかもしれない。が、弥切はそんな事は気にしない。合理的で感情に逸ることもなく、常に冷静で、やりにくい。
最近、助五郎との会話は、ほとんどが由の事。そんな内容が、この男には必要だと思えない。
「由の話をしたか?」
ふいを突かれてドキリとしたが、平静を装う。
「いつものことだ。教えて欲しいか?」
「いいや」と言って弥切は、声に出して嗤った。
全部お見通しのようだ。屋敷内の至る所に弥切の息のかかった密偵がいて、何処かで聞き耳を立ててる光景が浮かぶ。
...俺とこの男は、酒を呑んでバカ話をするような仲でもない。もういいだろう
定吉は立ち上がった。
「もう話をするのは、これで最後だ」
「そうか」
弥切は、興味なさそうに返事した。定吉が立ち去ろうとすると、
「俺が持っていた嘆願書は灰になったが、まだ他に存在ると思うぜ」
ぽつり呟く。
その言葉に、定吉《さだよし》は、振り返る。
「他にある? いったい何が言いたい」
「二通かそれ以上か? ともかくもう一通は確実に嘆願書があるということだ」
...もう一通・・・バカな話だ。あの手のものが、そんなに何通もあるものか。俺を欺そうとしてるのか?
「嘘をつくな」
定吉に向けテーブルの上を、弥切は一枚の紙を滑らせた。
「見ろ」
定吉は、手に取ると睨むようにその紙を見た。焦げた後があり、端は切れ、何か文字が書いてある。
「これがなんだ? 子供が書いた手紙か?」
「字じゃなく内容を読め」
『おそれながら書きつけをもってたんがんたてまつりたくそうろう
おわりの国かりばぐん子げのしゅく
おわりのかみだいかんのところわけし預かり
こげしゅくの町 多のやせいべえの子 すえ
こげのしゅく町代、多のやあるじ、すけごろうについて・・・』
定吉がつぶやいた。
「・・・たんがん」
「それだけ焼け残った。陶の執念かもしれんな」
弥切はつまらなさそうに徳利を傾けた。
「その字が陶の字じゃない事くらい、お前にだって分かるだろう。俺はあいつの下で便利使いをしてたから、あの女の書く字は知ってる。おそらく、それは原本を写したもんだと思うぜ」
「写した?」
「そうだ。陶は、手紙でも礼状でも、人にやらせず自分で書いた。嘆願書なんて大事なものを、自分が書かないはずはない。おれが見つけたそれは陶が書いた嘆願書の写しってことだ」
弥切は、自分の考えに確信を持っている。
「それが本当だとして。なぜ? そんなことをする必要がある」
「それは、陶にしか分からねえな。知りたきゃ墓にでも行けよ。俺の考えは、わざと見つけさせるためだ。それは陶の枕の下に置いてあった。おそらく自分が死んだ後に見つかるようにと思ったんだろうが、見つけた者が陶の字じゃないと気付けば、俺と同じように自筆で書いた同じ内容のものが、何処かにあると思う。そう考えたんじゃねえかな?」
...屋敷で見つかるこの嘆願書の内容は、必ず助五郎に伝わる。この中身は、あの男が今まで築いていたものを、全てぶち壊す力がある。嘆願書が、どこかに存在する。助五郎は、見つかるまで生きた心地がしねえだろう
「あの女は、死んでも(殺されても)タダじゃ転ばなかった。凄え女だ」
ヒヒヒ と弥切は独りほくそ笑んだ。
「俺はな、陶が書いた嘆願書を持ってるのは由じゃねえかと思ってる」
そう言うと定吉の驚いた顔を見上げた。
「他に考えられる奴はいないからな」
酒をまた煽る。
...酒が水みてえだ、なんの味もしねえ
「お前、聞けよ。由に」
「断る」
定吉には、この件に由や妙を巻き込むつもりはない。
「じゃあこの話は終わりだ。工事が無事に終わり、ソの郷が子毛の分村となれば、助五郎の権力は今とは比べものにならねえほどデカくなる。そうなりゃ、もう俺たちは手出しができない。助五郎の(子毛の)支配は俺たちが死ぬまで続き、由を誰に憚る事もなく自分の女にするだろう」
弥切は、定吉を追い返すように片手を振った。
「帰れ、もうお前に用は無い。お前がやってるのは、この町を助五郎の支配にする為の手伝いだ。その見返りは、由や妙を獲られて、ジジイになって死ぬまで、惨めな自分を憐れんで暮らす事だ」
その言葉は、定吉の心に突き刺さる。一瞬で身体を金縛りにさせて一歩も動けなくした。
「・・・教えてくれ。なぜ、旦那はあれほど由さんに執着してるんだ。惚れてるってことなのか?」
弥切は、嗤った。
「惚れたとは、純情青年かお前は。そんな綺麗なもんじゃねえ。もともとアレは、多の屋に来た時から助五郎の女だ。由がどう思ってるかなんて助五郎は気にしちゃいねえよ、堅気の話じゃねえんだ。そもそも妙は種《たね》の分からねえ子供だろ? あれは、ダンナのを孕んだっていう噂もあるぜ」
由や妙を嘲笑うような言い草に、定吉は、弥切の胸倉を掴み上げた。
「俺とやろうってか? いい度胸だが、此処では止めとけ」
「お前みたいな悪党は、散々相手にしてきた。舐めるな」
ハハハ と弥切が嘲笑う。
「そういう事じゃねえよ。ここで騒ぎを起こせば、お前も俺も面倒なことになるんだ。お前まさか? 子毛で、俺たちが会ってるのを、助五郎が知らないとでも思ってたのか?」
「なんの話だ?」
「俺は、尾張家代官の和久家。つまり現在子毛に居座ってるソの河の工事の見廻り役人の世話係だ。役人が定吉から直接話を聞きたいと云うから、間を繋ぐと云う建前で、お前と二人で会う事を(助五郎に)許されてる」
弥切は、力の抜けた胸倉を掴んでいた手を払いのけた。
「由の暮らしをいちいち報告するお前のように、俺も今日の会話をあの男に報告している。お前が助五郎と話した事を、どう思ってるか知りたいんだそうだ。お前にはつまらない報告なんだろうが、あの男は、お前が思ってるよりずっと臆病で執念深い。自分に対して周りがどう思っているかに常に気を配り、裏切り者がいないか探してる。俺にだって監視を付けてる。間抜けな奴だがな」
「監視? 誰のことだ」
「女を買いに行ってるよ」
一人の男の姿が浮かんだ、八助だ。
「だから大袈裟に騒ぐな、そうするとダンナへの説明が面倒になるからな」
胸倉を掴んでいた手が所在なく、ぶらぶら定吉の肩からぶら下がっている。弥切は中途半端な威圧などすぐに見透かしてしまう。とことんまでやる気のない威嚇では、この男には通じない。
「ともかくな、陶が書いた直筆の嘆願書が必要だ。それで無ければ御上に物申しても無意味だろう。俺も思いつく限りを探したが見つからなかった。もし陶が嘆願書を託したのなら、由の他に考えられないが、俺では由から聞き出すことは無理だ。そこで、お前の出番だ。お前なら出来るだろう、由から嘆願書の在処を聞き出せ」
定吉は呆然と立ち尽くした。
「本当にあるかどうか分からないものを・・・俺が由さんを探る・・・」
弥切は、皺が寄った着物の襟首を直している。
「まあ、そんなに深刻になるな。とりあえず、尾張家のルートは絶望的だ。あとは、幕府のお偉方に渡すしかねえが、それができるなら苦労はしねえ。まあ、慌てず騒がずじっくりやるさ」
「ルートがあるのか?」
「あるだろ? お前には」
弥切が言ってる意味は分かる。かつて江戸奉行所の廻り方同心の下で、御用聞きをしていた俺だから、その筋(ルート)を当たれということだ。
「俺にはもう江戸で、頼れる知り合いはいない。俺の知ってる同心は死んだから」
「知り合いは他にも居るだろ? いざとなりゃあ、どんな手でも使うのが当たり前じゃねえか? なんだってやれ。俺は違うルートで行く」
「違うルート?」
「お前がやってるだろう、ソの河の橋梁工事だ。あれはもともと尾張家からきたものじゃなく、幕府の年寄(徳川家の政務を司った重臣、老中)から直々に和久家に降りて来た話だそうだ。御上に嫁ぐ姫を内密に運ぶ為の道造りの一環って噂もある。話が上(幕府の中枢)過ぎて、その辺りの真偽は分からねえがな」
弥切は、腰掛けを跨ぐと定吉を正面から見据えた。
「ともかく、橋梁工事と和久家の役人を世話して来たおかげで、か細いが幕府との繋がりができた。ここからは助五郎か、弥切か? どちらが先に御上に太いパイプを造れるかが分かれ道になる。俺とお前は、それぞれのルートを築きながら、幕府へと道を繋げる。どちらかが成功すりゃ良い。これが最後チャンスだ。ただ、どちらにしても嘆願書が無いなら、この話はここで終わりだがな」
...俺が由さんを探る、・・密偵だ。いや、もう親子の暮らしを密かに助五郎に報告している。すでに密偵か? それに弥切の言う通り、嘆願書が無ければ全て無意味になる
何処の馬の骨とも分からない定吉に八九三の男と、こんな二人が、子毛の町代の助五郎の悪行を訴えたところで、御公儀が耳を貸すはずがない。
だが、定吉が仕えていた江戸奉行所の廻り方同心を動かした陶。彼女が書いた直筆の嘆願書なら、少なくとも御公儀が受け取る可能性も高い。
これが成功する可能性とリスクを天秤に乗せて考えていた、定吉の思考を弥切の言葉が遮る。
「悩んでるところ悪いがな、お前、由のところに女がいるのを知っているか?」
急に話が変わり、定吉の頭はついていけてなかった。
...女? たえ? 誰のこと?
「おいおいボケちまったのか?」
弥切が呆れたように言う。突っ立ってる定吉の袖を引き、無理やり座らせた。
「オヤジ、そこのこんにゃくと、たまごもくれ」
店主が戻って来ていたようだ、売り物のおでんが煮詰まるのを心配したのだろう。注文通りにのったおでんの皿を弥切は受け取り、定吉の前に置いた。
そして、定吉の顔を覗き込みニコリと笑う。憎めない顔だ、人たらしとはこういう奴の事を言うのかもしれないと思った。
「女ってのは、お前が以前に子毛まで送って来たと話した目暗の按摩。石って言ったか? そいつの女房のことだ」
「・・・なぜ知ってる?」
「俺の耳には、此処ら辺り一帯の情報が全て入る。石が右馬や鬼造と水茶屋で揉めたのも聞いてる。ただな、今のところは助五郎は女房が由の家に居着いた事は知らないようだ」
「そうか・・・」
弦と石の顔が頭に浮かんだ。助五郎に、まだ知られてないことにホッとした。
「もう一つ頼まれてくれ」
「由さんを探るとは、一言も言ってないぞ」
「分かったよ。由の家のことを今まで通り気にかけてやってればいいさ、その中で嘆願書の情報がありゃ、俺に教えてくれ」
弥切は定吉に近寄ると、肩に手を回して町外れを指差した。
「この方向に、朽ち果てたと言ってもいいようなボロボロの木賃宿がある。そこから、石が按摩客のところに通ってるようだが、おまえ知ってたか?」
定吉は、一瞬返事に迷った、だが正直に答えた。
「知ってる」
弥切は、ニタっと嗤った。俺は『お前が正直に言うと分かっていた』と言われた気がした。
この男は、ハッタリではなく調べた『事実』を質問して相手の反応を見る。それは、信用が出来る相手かどうかを見極める一つのやり方。
正直に答えるのか、嘘をつくのか。嘘をつく時は、どんな言い訳をするのか? 仕草、表情を見る。ときには怒らせたり宥め賺したり。色んな方法を試して、その相手を理解ろうとする。
自分に相手を上手く利用する自信があり、その人間性を深く理解しておくことは、いざと言う時どれほど役に立つか知った上でのことだろう。
「定吉、石に(按摩の)客を世話してやれ。俺がもう客は見つけてある。心配するな、金払いのいい上客だ。それならいいだろう」
「何のために?」
「ただ、石って云う目暗に興味があるだけだ。とは言っても、それほど大した理由があるわけじゃねえがな」
弥切の態度は、言葉とは裏腹に石に対して強い執着を感じさせる。ただ、その表情に策略や計算は見えなかった。
定吉は、初めてこの男の素の部分を見た気がした。
「断ってもいいんだよな?」
「お前がか?」
「いや、石さんが、その客をだ」
弥切は、腰掛けを跨いでいた足を戻し座り直すと、杯に酒を注いだ。そして、杯に満たされた酒の水面をぼんやり見つめる。
「まあ、頼むわ」
ポツッ と弥切が呟き、それからしばらくの間、二人とも黙っていた。
ふいに弥切が懐から紙包みを取り出してテーブルに置き、定吉の目の前に押し出す。
「金平糖、甘菓子だそうだ。俺は辛党で甘いのは苦手でな。妙に持って帰ってやれよ」
定吉の手は動かなかった。
八九三は、どんな所からでも相手に恩を着せて関係を深めようとする。こういう小さな、何でも無いような事から恩を押し付けて、普通の人間の良心に訴えかけて、頼み事を断りづらくし、最後には絡め取る。
「そう警戒するな、これは、俺の個人的な話だ。おまえは仕事の話だけしてくれりゃいい。子供じゃねえんだ。その後、どうなろうとおまえに関係ねえし、石には良い稼ぎになる。悪かねえ話のはずだぜ」
定吉が受け取ろうとしない金平糖の包みを、弥切がチラと見る。
「俺が持って帰ったってしょうがねえだろ? 要らねえなら捨てちまえよ、じゃあな」
バイバイと手を振り、弥切は話を切った。定吉はまだ、紙包みを見て考えている。
...なぜだか分からないが、俺の周りを含めて、石さんを中心にして動いてる。あの人は一体何者なんだ?
目の前の六つ切り鍋のなかで、グツグツ煮えるおでんを、会話の途切れた二人が所在なく見つめていた。
「石さんと知り合いなのか?」
どうしてもそれを聞いておきたかった。
「さあな? 向こうは知らねぇだろう、まあ、俺の片思いか」
フヘヘ。 弥切は、自分の発した表現に、気色悪そうに薄ら嗤いを浮かべた。
…一家のナンバー2とも謂われる代貸し、助五郎の裏仕事を全て仕切っている男
心を許せない、相手に隙を見せない厄介な人間なのに、なぜかこの男のいま言った言葉は腑に落ちた。
...おそらく上客を紹介してくれるのは本当だろう。それに石を害する気は、・・無いように思える。どちらかと言えば、弥切は石に対して、敵意より憧れを抱いているような雰囲気さえある
定吉は深く息を吸い、溜息のように吐いた。
「もし嘆願書の話をどこかで聞いたなら、あんたの耳に入れる。石さんには客の話を伝える、それだけだ」
「構わねえよ」
弥切は、定吉に紹介する客の素性と按摩に行く屋敷の場所を伝えた。そして木賃宿に、誰かを迎えに行かせると話した。
話は終わり、定吉は席を立った。
「おやじさん、ここにおいとくよ」
いつも自分が食べた分の金額をテーブルに置く。『無料で食えるモノにわざわざ銭を払う馬鹿な奴』弥切はそう思いながら、素知らぬふりをしている。
定吉にとっては、八九三に借りは作らないという意思表示だが、そんな事は弥切も分かって居るだろう。
特に気にするふうでもない弥切を見ながら、おそらくバカな奴だと内心嘲笑ってるのだろうと思いつつ
「これは、あんたの為に貰っとく。持って帰って、妙に渡す」
わざわざ、大事に包み紙で覆って持ってきたものだ。これは本心から、妙に渡す為に持ってきたのだろう。
弥切は何も答えず、箸を持ち直しておでんをつまみながら、酒を口にしている。
...やっぱりよく分からない男だ
定吉は小さく溜息をついた
見つめていると、視線を感じたのだろう。振り向きもせず、弥切が不愉快そうに言った。
「なんだ? まだ言い残したことでもあるのか」
それには答えず、定吉は黙って背を向けた、すると背後から声がする。
「今まで通り、子毛に来たら必ず帰りに寄れよ」
定吉は無言のまま、その場を離れた。
離れて振り返ると、弥切が店の親父と笑いながら話し込んでいるのが見えた。
【木賃宿ーきちんやど】
定吉は、棒鼻を過ぎ子毛山道へと出た。そこをしばらく歩くと脇の小道に入る。
帰りに石の泊まる木賃宿へ立ち寄るつもりだったので、小道の宿へと続く細長い畦道を進む。
しばらく行くと、遠くに竿を持ち、ひとり川岸で佇む石が見えた。
「おーい、石さん。釣れてるかい?」
定吉が声をかけると、石は答えた。
「ぼうず(一匹も釣れてない)だよ。皆が飯の残り汁を撒くもんだから、あしのマズイ餌なんか食いつきゃしねえ」
悪態つく石の姿を見て、定吉は笑った。
少し気分が晴れやかになっていた。




