第四章ep.3 泣き骸《なきがら》
【徳利‐とっくり】
梅雨到来。いつ雨が降ってもおかしくないような天気が続く。ソの河の橋梁工事は、雨のせいで作業が進んでないらしい。
助五郎に呼び出された定吉は、今日子毛の町に来ている。心中穏やかじゃないのは、間違いないだろう。
話が早く終わるか、遅くなるのかは助五郎次第で、定吉は、いつやって来るか分からない。
俺が嘆願書を焼いたと言ったので、キレた定吉はもう来ないかもしれない。
嘘をついて誤魔化しても良かったが、嘆願書のコトでは定吉が必死過ぎるので、後々の面倒を避けるためには正直に話すしかなかった。
「弥切、お前は陶が嘆願書を隠してある場所を知ってるんじゃないのか?」
ある日、急に助五郎がそんな事を言い出した。
「嘆願書、ですか? はあ??」
何処からそんな話を聞き入れたのか? と思いながら知らないふりで慎重に言葉を返したが、脇から滴汗は尋常では無かった。
結局、疑われる事なく、「もし見つけたらわしに報告しろ」という事で話は終わったが、弥切はその後、すぐに屋敷を出て嘆願書を焼いた。
あの嘆願書は、陶が書いたモノでは無い、だから最初から使い物にはならないと分かっていた。
整った形式で丁寧に綴ってはあったが、文字は拙く、おそらく子供が書いたモノだろう。
それを書いた人間に思い当たる節はないでもないが、追求したところで意味は無い。
内容は、助五郎の悪行を丹念に調べあげ、時系列に並べて、正確に記したものだった。
問題は、公儀に出せるような正式な嘆願書が存在するかどうかだ。
...陶は、手紙や礼状、書くものは常に自筆にこだわっていた。まして嘆願書のような重要なものを、自分で書かないはずがない。どこかに陶が書いた自筆の嘆願書がきっとある
弥切は、そう固く信じている。
「お前に見せる気はない」
と突っぱねたのは、それが子供の字で書かれた嘆願書だったからだ。
定吉を利用する為には、嘆願書と云う希望が必要だった。わざわざ使いものにはならない事を話す理由はない。
だから、あの場はそう言っておいた。
昼を過ぎて、おでん屋の主人の住む長屋に行き、玄関の引き戸を蹴つり飛ばしてやると、オヤジが怯えて顔を出した。
「早く店を開けろ。急げ」
「勘弁してくださいよ、あたしはもう少しゆっくり仕事をしたいんです。まだ寝れる時間だってのに、こんなに早く店を開けさせられたら弱ります」
店のオヤジはそう言ったが、弥切は問答無用で、店を昼間から開けさせた。
「普段なら今時分は一丁先の小料理屋の所だろ、おまえの女房がボヤいてたぞ。小料理屋の若い茶屋女(給仕兼遊女)に入れ込んでるってな。若い女は、お前みたいなオヤジなんかまともに相手しねえ。金を搾り取るだけ取ったら用無しだ。古くなっても、お前の面倒をみてくれる女房を大事にしろよ」
そう言うと、おでんの蓋を開け勝手に具材を取っていく。
「金は払うんだ。茶屋女に毟られて損する時間、儲けることができるんだから有り難いと思え」
「そんなぁ」
ニヤニヤと笑いながら、弥切は、あつあつのハンペンを口に運んだ。
・・・あれから一刻半(約3時間)は過ぎたが、まだ現れない。何時になるか、来るかどうかも分からない定吉を、ただひたすら待つ。
...俺はあいつの女か?
弥切は自然に自嘲ていた。
店のオヤジが、気味悪い顔で自分を見ているのに気付いたが、無視して、弥切はまだ酒が半分入った徳利を目の前で揺らす。
気晴らしみたいなものだ。
「酒、入れましょうか?」
オヤジが聞いてきた。徳利を振ったので酒の催促と勘違いしたのだろう。「いまは要らねえ」と返した。
徳利を揺らし、ぼんやりと見つめる。次第に、胸糞悪くて思い出したくもない、陶の骸を処理した日の事を思い出していた。
【亡き骸‐なきがら】
冬の寒さがやってくるのが、例年より早く感じていた日。
算盤をはじきながら、博打場の収支を書き入れた裏帳簿と睨めっこしてると、奉公人の女が呼びに来た。
「旦那さまがお呼びです」
少し怯えているようで、「何の用か」と聞いても埒が明かない。
まだ仕事の途中なのにと、渋々、助五郎が呼んでいる場所に行く。そこは蘭の部屋や陶の部屋がある、屋敷の最奥へ続く場所。
その廊下の途中に、助五郎が仁王立ちしていた。
「今すぐ陶の部屋に行け!」
弥切を見ると助五郎は開口一番、怒ったように言った。
陶が自分を呼ぶ時は、必ず多和という奉公人を通していた。
ただ、いまの部屋に居を移してからは、もう何日も呼ばれず、顔も見ていない。
「何用でしょうか?」
助五郎は、弥切の質問には答えなかった。
「すべて終わったら、わしの部屋に来い!」
謎の言葉を残すと、助五郎はズカズカと足音を鳴らしながら去っていった。
...全て終わるとは何だ?
仕方なく、弥切は陶の部屋に赴いた。
廊下から呼びかけてみるが、中から返事はなく、眠っているのかと耳を澄ましてみたが、寝息が聞こえるわけでもない。
音もなく静まり返る部屋を不審に思い、部屋の障子を少し開けて、のぞき込む。すると布団に横たわる陶らしき人の姿が見えた。
「これは、失礼しました。就寝のところ申し訳ありません。助五郎の言いつけで伺いましたが、何か御用だったでしょうか?」
返事はない。チラとまた覗いてみる。目の端に畳に広がる黒いシミが見えた。
...なんだあの黒いのは?
弥切は、そろりと部屋に足を踏み入れた。顔に赤く染まった布を被せた陶らしき人が布団の中で横になっている。頭の中で、一瞬否定するが間違いない。
畳の染みを避けながら、近づいて赤く染まった布を剥ぐ。その下には血の気を失った陶の顔。とうにコト切れていた。
頭がフル回転した。いま大袈裟に騒げば、誰かの口から陶の最後の姿が屋敷の外に漏れていく。
この状況を見れば誰でも、変死だと思う、それはマズイ。
...助五郎、俺にてめえがしでかしたケツ持ちを擦りつけやがった
『全てが終わったら部屋に来い』
助五郎の言葉が耳にこだました。
弥切は、布団から出ている陶の頭から肩にかけての部分を持ち上げ、じっくりと見た。
陶の喉は、強い衝撃で押し潰されている。おそらく一撃で、ほぼ即死だったろう。その後、口から溢れた血が流れ落ち、蒲団には吸いきれずに畳まで染み込んでいた。
...多の屋の屋敷で人殺しがあったなどと云う事は絶対に伏せなければならない
多の屋は、子毛では古い名家だ。その一人娘が殺されたとなれば、住人たちも黙ってはいられまい。
そうなれば、この宿場町を管轄する代官の和久家は、正式な取り調べを始め、事を納めるために下手人(犯人)を用意する。
...この件を上手く処理できなければ、俺が下手人にされる
助五郎が期待するのは、俺が穏便に後始末をつける事。出来なければ罪を被れ! それだけだ。
助五郎と弥切。それ以外の屋敷の者は現在。陶が死んだ事や、助五郎に殺されたという事を知る由もない。
.,.何故、助五郎が陶を殺したのか?
いまは、そんな事を考えている余裕はない。
弥切は、白いシーツを別の部屋から運んでくると陶が横たわる布団ごと、全体を隠すように覆った。
ザッと遺体を調べた感じでは、外傷は首だけで他は見当たらなかった。
皮膚に内出血のような斑点があったのは、病気のせいだろう。強い衝撃を与えられた首は骨が砕けて、触るとぐらぐらしており、頭を支える役目を果たしていなかった。
...陶を、此処から動かさないと
持ち上げた頭を下ろすと、枕の下に何か挟まっているのが見えた。
...なんだこれは?
手に取ると、折り畳まれた手紙だった。
助五郎に見せるべきか・・・いや、ふざけるな! という気持ちが心の中に渦巻いている。
もし罠だったらと云う考えが、脳裏をよぎるが、気付いたのにわざと置いたという余裕は、助五郎には無かっただろう。
カッ! となった殺人で、我に返ると次の手が浮かばず、後の事を自分になすりつけた。そんなところのはずだ。
ともかく急がねばならない。手紙は懐に突っ込み作業を進めることにした。
血の痕跡を覆い隠し、とりあえずの見た目を繕うことはできたが、まだ、この死を屋敷の人間に知られる前にやるべき事が山ほどある。
...俺一人で全てを片付けるのは無理だ
これから、この遺体の処理を手伝わせる為に誰か呼ばないとならないが、その為には、この陶の姿を見せなければならない。
今のままでは、誰が見ても殺人だと分かる。
苦肉の策だが、ひとつアイデアが浮かんだ。だが、散々悪事に手を染めてきた弥切でも、それは吐き気を催すもので、すぐに実行するのは躊躇われた。
だが、それしか浮かばない。
弥切は部屋を出ると、しばらくして剃刀を手に戻って来た。そして血を隠すように覆っていた白いシーツを剥ぐと、陶の首筋に剃刀の刃を当てた。
横に刃を滑らせると、あれだけ血が流れていたのに、まだ血が流れ出た。
...陶は自裁
助五郎の妻殺しの罪を消し去る。
陶は、長年の病苦から逃れるために自裁した。辻褄は後でいくらでも合わせればいい。生温い陶の血で赤く染まった己の手を見ながら考えた。
葬儀の手順は無視する事にはなるが、檀那寺から来た検僧(検視官のような者)に、この陶の遺体を見せれば間違いなく変死扱いされて、役人に報告される。それは、駄目だ。
檀那寺(多の屋が代々檀家となっている寺)に陶の死を伝達える前に、遺体を拭いて清めて置かなければ・・・
一人だけでやれる事はもう無い。今から手伝いがいるが、信用できる奴だけで、事を進めて行く。まずは捨八か? あとは・・・
弥切は、部屋を出ると廊下を静かに歩き奉公人の女性たちが居住する部屋へと向かった。
「多和!」
弥切が名を呼ぶと、女が振り返った。
「弥切さん。どうかしたの?」
こんなに余裕がない弥切を見たのは初めてで、心配そうな顔で多和が見ている。
「ついて来い」
弥切は腕を掴むと、グイと引っ張りながら歩き出した。
「痛いわ。いったい何なの?」
多和は、この屋敷の奉公人で弥切の情婦の一人。世に言う『行き遅れ』の年齢で、嫁いだことはあったが、子供が出来ず離縁されたらしい。
弥切は、多和が痛がり顔をしかめるのを無視して、陶の部屋へと急ぐ。何処かの間抜けがあの部屋に行って陶の遺体を発見としたら、もう一つ遺体の処理をすることになりかねない。
気が急いて、早足になる。
最初は、騒いでいた多和も、弥切のただならぬ様子に、押し黙って従った。
やがて、陶の部屋の前に着くと弥切は、声もかけずに戸を開け、有無も言わせず多和を部屋に引っ張り込んだ。
そして戸をピタリと閉め、
「絶対に声を出すな」
と念を押して、部屋の真ん中の白いシーツに覆われたモノに歩いて行く。多和は異様な部屋の雰囲気に呑まれ、漂う血の匂いに鼻を覆った。
「来い」
弥切が押し殺した声で多和を手招きする。おそるおそる近付くと、
弥切は多和の背後に回り、前に手を伸ばして白いシーツを剥ぐった。もし声を出しても、すぐ片手で口を塞げるように準備して。
だが、多和はシーツをはぐった後の光景を見て驚きのあまり声も出せずにいた。呼吸をするのも忘れ、シーツの下の陶の死に顔を凝視している。
白い首筋に血溜まり、流れた血液は布団を通り抜け畳まで濡らして固まりかけている。この黒い染みが、陶が流した血の跡だったことに、多和はいま気付いた。
弥切は、まだ声の出ない多和の口にそっと手を当て塞いだ。そして耳元で囁く。
「奥様は、苦しみの果てに自分の首を自分で剃刀で裂いて自裁なされた。病魔が頭に周り、耐えられなくなったんだろう」
弥切が口元から手を離すと、多和は一息をついた。
「お嬢さまが、自分で・・・」
多和は、嫁ぎ先から出戻ってすぐに、多の屋に奉公する事になった。
それから二十年になる。|初めてあったのは、陶が十二(才)の時。それからずっとそばで暮らしてきた。
「泣くな、多和。お前には手伝ってもらいたいことが山ほどある」
弥切の顔が、ぼやけて見える。自分でも知らずに涙が溢れ出していたようだった。
弥切は、陶は自裁ではなく、病のための急死と世間に公表すると話した。
「もし自裁となれば、世間の噂のタネになる。無責任な噂が広がれば、多の屋だけじゃなく奥様の名誉まで傷つけられかねない」
まだショックで頭の働かない多和は、そうかもしれないと素直に信じた。
多和は、弥切に言われるまま陶の着物を脱がせると、身体に付いた血を拭った。
そして真新しいシーツに一度包むと、棄八と弥切が別の部屋に運び出した。多和は放心した状態のまま、後を付いて行く。
運ばれた陶の遺体はむしろの上に寝かされ、湯の入ったタライが運ばれてきた。
香が焚かれたその部屋で、弥切から、陶の身体を湯潅(故人をお湯で洗い清める儀式)しておくように言われた。
多和が『寺からの検僧も来てないのに大丈夫なのか』と弥切に聞くと、
「自裁した奥様の御遺体には身体中に斑点がある。病のせいだが、検僧は、疱瘡(天然痘)を疑うかもしれない。そうなると俺たちは隔離され、屋敷は焼かれ、もう子毛には俺たちの居場所は失くなる。そうなると多の屋は終わりだ」
そう言われて、多和は何も返すことが出来なくなった。
『奥様の部屋に戻る。何かあったら呼びに来い』と言って弥切が部屋を去ると、多和はひとりで陶の遺体と向き合う事になった。
美しかった肌、首筋の剃刀で裂いた跡が痛々しかった。頬に手を触れる。あの柔らかかった感触はもう無い。
うなじと肩まわりを拭こうとして首を持ちあげると、頭がぐらぐらとして安定しない。まるで骨が無いかの様に感じた。
弥切は、多和に陶を任せて部屋を出ると檀那寺へ使いを出した。
寺からの検僧を待つつもりは無く、多和が陶の湯灌を終えて、剃髪を済ませ白衣に着替えさせれば、遺体は棺桶に納めてしまうつもりだ。
檀那寺への使いには言い含めてある。
『和久家からの『変死疑い無し証書』があるから寺からの検僧は不要。必ず、お血脈(極楽往生を保証するいわれる手形)を貰って帰るように』と。
「謝礼は相場より多くすると言え」
そう言って、送り出した。
その日は、一睡もできないまま、陶の遺体を棺に納め、葬列にも子毛の名家である多の屋の名前に恥じないようにと人を集めた。
葬儀を済ませて墓所へと送り、墓穴に収まった棺が、かけられる土で消えていくのを眺める。
まだ弥切はゆっくりと休むことは出来ない。右馬や鬼造のような阿呆には後のことを頼むわけにもいかず、助五郎も、それを許さなかった。
初七日の間も香典を持って訪ねて来る客の対応をしながら、傍らでは、賭場への指示、問屋の商いの様子、やる事は無数にあるが体は一つしかない。
もし、これが陶の葬儀ではなく他の誰かのものだったら、陶が全てをとり仕切ってくれるので、その差配に従えばいいだけだから楽に過ごせただろう。
弔問客が訪ねて来ると、生き生きと客と雑談する助五郎の後ろに、いつも控えていた。
助五郎はどんな時だろうが、自分が主役でいられることに快楽を覚えるような男で、弔問客が最愛の妻を亡くしたばかりの悲劇の主人公のように助五郎を扱い、勇気づけようとする事を楽しんでいるようで、常に機嫌が良かった。
話が弾んで明るく話す助五郎の後ろで、柔和な笑顔で話を聞いてるフリをしながら弥切は、胸の内のドス黒い感情を抑えるのに必死だった。
...もう死んでいたとはいえ、俺が陶に引導を渡した
喉を掻き切る時の感触と、まだ微かにあった陶の肌の温もりと体液の生温かさは忘れようがない。
...いつか必ず、この借りを返してもらうぞ
怒りを噛み締めて、助五郎の後ろで笑顔を作っていた。
【想い‐おもい】
陶を最初に見たのは、多の屋の一家が伊勢参りの道中の、彼女がまだ十三、四(才)のころの事だった。
その頃の弥切は助五郎の子分となって日が浅く、裏稼業に今ほど染まってなくて、もともと田舎の良家育ちであり、身なりもきちんとしていたので、多の屋の家族には、八九三と思われなかったのだろう。
場所に迷って困っていた多の屋一行をたまたま見かけ、弥切は純粋な親切心から宿屋まで道案内をした。
道すがらの何気ない会話だったが、多の屋の夫婦は弥切に好感を持ったようで、どんな仕事をしてるのかと問いかけて来た。
だが、押し込み強盗をする連中が隠れ蓑としてる薬屋の店で働いてるなどと、正直に言えるはずもない。
適当にはぐらかせていたが、陶がキラキラした目で弥切を見上げて、
「弥切さんは、何の仕事をされてるのでしょうか?」
と聞くのには、誤魔化しきれず
「実は、この先の薬売りの店で番頭をしております。まだ日が浅いので、胸を張って話すのもおこがましく、言いそびれてしまいました。もし何か御用が有りましたら訪ねて来てください」
「凄いじゃないですか、番頭さんなんでしょう、御立派なんですね」
屈託のない陶のあどけない笑顔に、弥切は、いつもの建前で使う文言で答えていた。
この親子を利用するなどという悪意は全くなく、もう二度と会う事はないだろうと思いながら挨拶をして別れた。
だが後日、多の屋の一家は、自分達を助けてくれたお礼を兼ねて、店に弥切を訪ねて来た。
そこで、純朴な田舎者の家族を見た助五郎は、町でしばらく逗留する事にした多の屋の一行の世話を焼き、悪い男たちに絡まれた陶を助けたりもした。
よくある手だが、初心で純粋な陶は、助五郎の手の内に落ちて、その腕の範囲で恋をした。
それから二人は恋仲になり愛を育む過程を、八九三から見れば若い娘を悪い男が手玉にとっていく様子を、弥切は焦燥感を抱えながら、やるせない思いで見た。
...あれが、あの親子の運の尽きだったか・・・あのとき道案内したのが俺じゃなく真っ当な男だったら、三人ともまだ生きていたかもしれない
気が付くと、手に摘つまんでいたはずの徳利は消えていた。辺りを見回しても何処にもない。
「弥切さん。さっきの徳利は落として割れたんで、新しいのを浸けておきました」
店のオヤジが熱燗にした酒の入った徳利を差し出してきた。
「ああ、そうか? 悪かったな」
夢からまだ覚めてないような頭の中、頭が過去から現在へとまだ完全に戻ってきていないようだ。
ふと見ると遠くに定吉の姿が見えた。
...律儀なやつだ。もう俺に会う理由などないだろうに
弥切は苦笑した。今日何度目の苦笑いだろうか
...もうしばらくこの男は必要だ。さて、定吉を繋ぎ止める為に何をすればいい?
弥切の頭は働き始めた。




