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座頭の石 (ざとうのいし)  作者: とおのかげふみ
第四章

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第四章ep.2 報告《ほうこく》

【呼び出し-よびだし】


秋にしては肌寒い冬の手前のある日、多の屋の一人娘で、助五郎(スケゴロウ)の妻の(すえ)が亡くなった。


その知らせに、いつかは来ると分かっていながらも、定吉(さだよし)は心にぽっかりと穴が空いたようでしばらくは、放心状態になっていた。


...俺は、あの人に何もしてあげられなかった


後悔だけが残る。


『聞きたいことがある。今日か明日、屋敷の方に来てくれないか』


助五郎(スケゴロウ)に、そう言って呼び出されたのは、(すえ)の死から一ヶ月ほど経った頃の事。


それまでも仕事の話やソの郷の分村(ぶんそん)のことで何度か顔を合わせたが、大まかな話が済み細かな話となると、


「後は、(すえ)と話し合ってくれ」


と言って助五郎(スケゴロウ)は席を空けた。結局、金額のことやスケジュール的な話は、(すえ)と話すことになった。


一度、(すえ)がため息混じりにぽつりと言ったことがある。


「あの人が、店に顔を出す事もなくなったわ。わたしはずいぶん嫌われてるのね」


定吉(さだよし)は、何も言えず黙っていた。フォローの言葉も返せない。


あまり親しげにしていると、子毛(まち)でどんな噂が立つか分からないし、(すえ)とは、ソの郷の職人の代表として会ってるだけだから、余計な詮索をされるのは困る。


定吉(さだよし)がこれより前に、子毛(まち)に来ていたことを知られては、大袈裟(おおげさ)ではなく命に関わるのだ。


その頃の助五郎(スケゴロウ)は、交渉事と接待に追われ、問屋(みせ)の事は(すえ)が行っていた。


行くのは(ほとん)どが町中にある問屋(みせ)のほうで、屋敷は場所を忘れるくらい行った記憶が無い。


定吉(さだよし)は急に屋敷に来るように言われ不安に(おちい)った。


...俺の過去がバレたのかもしれない


ノコノコ出向けば、殺されるかもしれないと怖れた。


その夜は、寝床(ねどこ)に入っても眠れず悶々(もんもん)と過ごした。あたりが明るくなって、朝が来ても覚悟は決まらなかった。


...どのみち俺には、(よし)(たえ)を置いてソの郷を出る事はできない。(すえ)さまから、二人の()(すえ)を託されたのだから


命の間際で(すが)るように、二人のことを頼まれた。ソの郷から逃げることが出来ないのだから、悩んでみても行く以外の選択肢はない。


一睡(いっすい)も出来ず、覚悟も定まらないまま町へ向かう。


(かせ)()められたように足取りは重く、屋敷の玄関口に立つ頃には、土砂降りの雨に打たれたように背中はびっしょりと濡れていた。


「おお、ご苦労さま。いい天気に見えたが道中は通り雨でも降ったのか? おい、誰か身体を拭くものを持って来てくれ」


固い表情の定吉(さだよし)と違って、助五郎(スケゴロウ)は拍子抜けするほど明るい笑顔で迎え入れた。


定吉(さだよし)くん、急に呼び立てて済まなかったな。迷惑じゃなかっただろうか?」


「いえ、丁度(ちょうど)仕事もひと段落した所でしたので」


「そうか、それは良かった。まあ、上がってくれ」


屋敷の正面玄関から上がり、大事な客人が通される部屋へ連れて行かれる。(ふすま)には、椿(つばき)の絵が描かれ、広い部屋の畳のうえには座布団が二つ置かれていた。


「まあ、座ってくれ」


助五郎(スケゴロウ)は一つの座布団を指し、もう一つに自分が座る。お茶を運ばせると、定吉(さだよし)に勧めて話を始めた。


「話というのは、ずっと(すえ)の頼みを聞いてくれたわしからの礼だ」


ガタッと、どこかで音がした。


...終わった


定吉(さだよし)は身を固くして、覚悟した。助五郎(スケゴロウ)の手下が部屋に乗り込んで来るのを待つ。


すると、スッと目の前に茶菓子(ちゃがし)が置かれた。


見ると、奉公人(ほうこうにん)の女性が部屋を出ようとしている。


「戸は開けておいてくれ」


「はい」と言って、奉公人の女性は戸を開けたまま去って行った。



・・・時間が経っても、手下が乗り込んで来る気配がない。


助五郎(スケゴロウ)は、あれから一方的に話をしている。定吉(さだよし)は、いまどういう状態なのか全く分からず戸惑っていた。


定吉(さだよし)くん、君には感謝してる。(あれ)は自分が病気で寝込むようになっても、多の屋と行く末と、(よし)と娘のことを案じていた」


助五郎(スケゴロウ)は妻を思い出しているのか? 心なしか目が(うる)んでいるようにも見えた。


「ふたりの幸せを見届ける事なく逝ったのは、さぞかし無念だったろうと思う。わしは、(あれ)の為にも(よし)親子を幸せにしてやりたいんだ」


定吉さだよしは全身の力が抜けた。一睡も出来なかったこともあって、もう少しで倒れるところだった。


...バレてなかった


安堵で、大きく息を吐いた。


(すえ)の思い出を語る助五郎(スケゴロウ)。自分で勝手に追い詰められていた定吉(さだよし)は、苦笑いした。


...俺の空回りだったな


ようやく落ち着いて助五郎(スケゴロウ)の話を聞けるようになった。そして、聞きながら(すえ)のことを思い出していた。



(すえ)は、定吉(さだよし)より年上だったが、歳の差を感じさせないフランクで明るい元気な女性で、それでいながら、会話に知性を感じさせる人だった。


自分が病気を(わずら)っても、他人を思いやる事を忘れず。多の屋のこと、奉公人の身の振り方、亡くなった父の(めかけ)の将来のことまで考える慈悲深い女性でもあった。


定吉(さだよし)には(すえ)という女性が、この世に遣わされた天女(てんにょ)のように見えた。


その(すえ)に頼まれたからこそ、身重(みおも)(よし)を引き受け、ソの郷で彼女たちの今後を見届けると誓ったのだ。


(すえ)(たえ)が生まれた事を話した時、自分の事のように顔を紅潮させて大喜びしていたのを思い出す。


「・・・、(すえ)・・なにか、あずか・・」


思い出に浸っていた定吉(さだよし)は、ようやく助五郎(スケゴロウ)が何か自分に話しかけていることに気付いた。


「申し訳ありません。旦那、いまなんておっしゃいましたか?」


我に返り、定吉(さだよし)は聞き直した。


「何か、(すえ)から預かったものがなかったか聞いただけだ、それはいい。今日呼んだのは、(あれ)に話をしていたように(よし)と娘の様子を、わしに伝えて欲しいと言う事だ。仕事で忙しいとは思うが、時間が出来た時で良いから、ふたりの様子を報告してくれ」


そう言って、助五郎(スケゴロウ)は、定吉(さだよし)の手を取った。その真剣な眼差(まなざ)しに、


「分かりました。新しく人足(にんそく)仕事(人材派遣業のようなもの)も始めたので、子毛(こげ)に来ることも多くなります。その(おり)には出来るだけこちらに来て、(よし)さんと(たえ)の様子をお話することにしましょう」


定吉(さだよし)は、頷いてその手を握り返した。



帰りには土産(みやげ)を持たされ、助五郎(スケゴロウ)(おもて)まで見送りに来たので、今までない手厚いもてなしに定吉(さだよし)はかえって(いぶか)しんだ。


土産(みやげ)の入った風呂敷を手に、ソの郷へと戻りながら、定吉(さだよし)助五郎(スケゴロウ)が口にした事を思い返した。


...(すえ)さまから預かったものとは、いったい何の事だろう?





【御上の犬‐おかみのイヌ】


助五郎(スケゴロウ)に呼び出されて数日が経ち、定吉(さだよし)は仕事道具の買い物もあって、久しぶりに子毛(こげ)の町にやって来た。


ついでに屋敷まで足を伸ばし、(よし)親子の生活を助五郎(スケゴロウ)に伝える。


助五郎(スケゴロウ)は話が終わると、殺風景な小部屋の首座にドカッと座り、畳に正座する定吉(さだよし)を見下すような目で見て、


「報告が遅いな、もっと頻繁(ひんぱん)に来るようにしろ。わしの都合の良い日に人をやるから。翌日には屋敷に来るようにするんだ、分かったな」


それだけ言うと、奉公人(ひと)を呼び定吉(さだよし)を部屋から追い出した。


生気(せいき)のない初老(しょろう)の奉公人に連れられて裏口まで来ると、外に出るよう(うなが)される。


「次からは、玄関口からではなく、裏口から入って来るようにと旦那様がおっしゃってました」


奉公人は、そう言ってピシャリと扉を閉めた。


定吉(さだよし)は苦笑した。


...分かりやすい奴だな助五郎(あいつ)は。この間と大違いだ。手のひら返しが早い


ずっと助五郎(スケゴロウ)について調べたいたから、人となりはあるていど想像できていたが、大阪では、手下を持つような兄貴分だったはず。


...底が浅い男だな。ただ、好きに呼び出されると、厄介だ・・・


そんなことを考えながら帰り道を歩いていると、いきなり後ろからバシ! と頭を(はた)かれた。


...()った・・・


振り返ると、男が自分を睨みつけている。


...虎の威を借るネズミ、助五郎(スケゴロウ)が居なくなれば、ただの小者(コモノ)、血は争えないな


八助(ハチスケ)さん。いきなり叩くのは、無しじゃないですかね」


「俺が呼んでるのを、無視したからだ!」


八助(ハチスケ)は、叩くだけでは飽き足らず、定吉(さだよし)を蹴ろうした。


定吉(さだよし)が軽くいなすと、イラッとした八助(ハチスケ)は足元に(つば)を吐いた。


「危ないな。後ろからはダメじゃないですかね」


「五月蠅え! 弥切(やキり)の兄貴が、お前を呼んで来いって言うから探してたんだ! 俺について来い!」


そう言うと、八助(ハチスケ)は、また唾を吐き捨てた。


...偉そうに批評してるが、今の俺はこんな理不尽な事でも我慢するしかないか


江戸での自分と、現在(いま)の自分を比べて、哀れで嘲笑(わら)うしかない。


「てめぇ、なにが可笑(おか)しい?」


八助(ハチスケ)が凄んで見せた。


「いえ、なんとなく笑ってしまったんです。弥切(やキり)さんが呼んでるんでしょう? 早く連れて行って下さい」


張り合う気にはなれず、定吉(さだよし)は先へと(うなが)した。


弥切(やキり)が待っているという場所に向かう間も、八助(ハチスケ)は、定吉(さだよし)にチョッカイをかけて来るので面倒だった。


定吉(さだよし)は、能面(のうめん)のような顔でやり過ごす。ニヤニヤと自分を(あざけ)八助(ハチスケ)を、これ以上は怒らせないように気を遣う。


八助(ハチスケ)は、定吉さだよしが怯えていないのが気に入らない様子だが、怖いとは思わないのだから仕方ない。



まだ夕暮れ前、いつもよりずっと早めに開いた屋台で、弥切(やキり)は待っていた。


弥切(やキり)は、定吉(さだよし)を見ると片手をあげて手招きする。それに、八助(ハチスケ)がすたすたと駆け寄っていく。


「兄貴、連れて来ました」


「ああ、ご苦労。お前はもういいぞ」


八助(ハチスケ)が腰掛けに座ろうとするのを手で制し、おでんの皿が乗るだけの幅の狭いテーブルの上に置いてあった(カネ)を指す。


「それで女でも買って来い」


不満そうな顔をした八助(ハチすスケ)だったが、弥切(やキり)に睨まれると愛想(あいそ)笑いを浮かべ、テーブルの金を鷲掴(わしづか)みにして消えた。


その様子を離れて眺めていた定吉(さだよし)弥切(やキり)が、また手招きした。


「早く座れ。そんなとこに突っ立ってられちゃ目立ってしょうがねえ」


定吉(さだよし)は、仕方なく腰をかけた。


...こいつ、こんな物言いだったか?


問屋(みせ)で、番頭のような仕事をしていた弥切(やキり)。初めて会った時、定吉(さだよし)には八九三(ヤクザ)に見えなかった。穏やかな口振りで挨拶する程度だったが、悪い印象はない。


だが、いまの弥切(やキり)は、誰が見ても八九三(ヤクザ)。表に出てる表情が本心には見えない。


何処(どこ)か冷めていて、空虚で、何を考えているのか分からない恐ろしさがある。


...助五郎(スケゴロウ)はなぜ? 俺が(すえ)さまに、(よし)親子の暮らし振りを伝えていた事を知っていたのだろうか・・・


夫婦仲が悪い事は、その頃には傍目(はため)から見ても分かっていた。


(すえ)以外の誰かには、(よし)親子の様子を話したりはしない。(すえ)が話さない限り、助五郎(スケゴロウ)が知ってるとも思えないから、何処(どこ)から知ったのか疑問だった。


...そういえば、弥切(こいつ)は、いつから()()に居た? 


ソの郷に来て、問屋(みせ)(すえ)と仕事の話をするようになってから、この男を見かけるようになった・・・はずだが、果たして本当にそうだっただろうか?


...もっと以前に姿を見たような気もするんだが思い違いか?


記憶を辿(さかのぼ)ってみるが、答えは出なかった。


「オヤジ、こいつにおでんを見繕(みつくろ)ってやれ」


弥切(やキり)は酒を口にしながら、おでんを皿によそおう店主の手元を眺めている。


「どうぞ」


店主が、はんぺんやこんにゃくがのった皿を定吉(さだよし)に差し出す。


その着物の袖から、流人(るにん)刺青(いれずみ)が見えた。店主は、四つ切りに仕切られたおでん(なべ)(ふた)を閉じると「後は勝手にどうぞ」と言って店を離れた。


「ここのおでんは一番だ。一度食ったら他所(ほか)で食うのがバカらしくなるぞ、()めない内に食えよ」


湯気の立つおでんを目の前に、定吉(さだよし)は考えていた。


弥切(やキり)とは、(すえ)が生きていた頃に問屋(みせ)で顔を見た程度で、ほとんど接点がない。


この男が、自分を探す目的が全く分からなかった。


「何か用事があるんでしたら、先に言ってもらえないでしょうか?」 


弥切(やキり)は、おでんを頬張(ほおば)りながら、ぽそっと言った。


「お前は、役人のイヌか?」


その何気ない言葉に、定吉(さだよし)は全身が(ふる)えた。


「・・・、・・・なんの、話ですか?」


全身から一気に噴き出した汗で、着物が身体に張り付いてくる。弥切(やキり)は、口の中のおでんをゆっくりと咀嚼(そしゃく)している。


...顔に出すな。ハッタリだ、コイツは俺にカマをかけてる


だが、だらだらと流れる、身体中の汗は止めようがなかった。


弥切(やキり)は、汗だくで真剣な目で自分を見る定吉(さだよし)嘲笑(わら)いながら、


「お前、(ごう)に来るより前に子毛(こげ)に居ただろう? みな寝静まった頃になると、子毛(まち)彷徨(うろつ)いてやがったな。なぜそれを黙ってる?」


と言った。


「深夜に問屋(みせ)にやって来て(すえ)と話してたのも知ってる。俺は、間男(まおとこ)かと思ったぜ」


そう言って酒を(あお)った。


「郷に居着(いつ)いてからは、昼間に堂々と問屋(みせ)にやって来て、助五郎(ダンナ)(すえ)と会い。あくまでもただの職人でございと、いけしゃあしゃあと振る舞う。その(ツラ)を見て、俺は滑稽(こっけい)で嗤いが止まらなかったぜ」


弥切(やキり)はそう言ながら、定吉(さだよし)を見据えた。


「お前、江戸に居たそうだな。俺には江戸トコロ払いになって、不貞腐れてたくさ(えん)の知り合いが居てな。お前を見てて、ピンと来たんだ。それで子毛(こげ)にそいつを呼び寄せて、お前を見せた。そうしたら、そいつはなんて言ったと思う?」


弥切(やキり)演劇(しばい)一幕(ひとまく)のように、勿体(もったい)つけて一息(ひといき)吸った。


「そいつは、お前が江戸南町(みなみまち)奉行(ぶぎょう)直属の(まわ)(かた)同心(どうしん)。そいつが抱えてた御用(ごよう)()きだと言いやがった。俺は間違いないか? と念を押したが、間違いないとよ。なぜならそいつは、お前のせいで江戸トコロ払いになったんだからな」


(いき)が止まる気がした。重苦しい時間が流れた。


定吉(さだよし)は覚悟した。


「俺を、どうする気だ」


声からがらに絞り出した言葉とは裏腹(うらはら)に、返ってきた弥切(やキり)の言葉は、呆気(あっけ)にとられるものだった。


「どうもしやしねえ」


弥切(やキり)は、定吉(さだよし)の目の前の皿を指差した。


「もったいねえだろ、食え」



定吉(さだよし)は、皿の上のはんぺんとこんにゃくを喰った。冷めて、もそもそとした食感でなんの味もしなかった。|


弥切やキりは喰い終わるのを待っている。


定吉(さだよし)は大きく息を吐いた。胸がムカついて、全て吐き出したい。定吉(さだよし)が喰い終わると、弥切(やキり)は静かに言った。


助五郎(ダンナ)と今日は、何の話をした」


その時の定吉(さだよし)は、恐怖と安堵の乱高下(らんこうか)のなかで我を失っていた。弥切(やキり)の言葉に抵抗する事なく、すべて話した。


覚えている限りの内容を一気に話し終えると、(のど)がカラカラになった定吉(さだよし)は、湯呑みに注がれていた冷めた白湯(さゆ)を飲み干した。


黙って、定吉(さだよし)の話を聞いていた弥切(やキり)(つぶ)やいた。


(すえ)から預かったものというのは、たぶん嘆願書(たんがんしょ)のことだろう」


定吉(さだよし)は、壊れかけのカラクリ人形のように、その言葉を繰り返した。


「たん、がん。しょ」


たんがんしょと何度か自分で繰り返すうちに、その言葉の意味が()み込めてきた。


「そんなもの・・が、あるのか?」


目を見開き、弥切(やキり)を見た。


「俺が持ってる」


「・・・お前が?」


(すえ)が死んだ日に、枕の下に入れてあったのを見つけた」


...嘆願書(たんがんしょ)(すえ)さまが残していた。中身は、いったい何が書いてあるんだ?


弥切(やキり)の視線に気付いた。


「心当たりがありそうだな、言ってみろ」


信用は出来ない相手だが、弥切(やキり)が、助五郎(スケゴロウ)と一定の距離を置いているのは分かった。


定吉(さだよし)の過去を助五郎(スケゴロウ)に報告しない事は、この男にはリスクにしかならない。それでもしないのは何らかの含むところがあるからだろう。


もしわずかでも自分とこの男の間に共通の利害があるなら、話すべきだ。


定吉(さだよし)は、知っていることを全て話し、弥切(やキり)に尋ねた。


「嘆願書を見たなら、分かっただろう。助五郎(スケゴロウ)を追い詰める内容が書かれてあったはずだ」


ギリギリの精神状態で、昔の経験が生きた。直感で思った事を、弥切(やキり)にぶつけてみる。


弥切(やキり)苦笑(にがわらい)した。


「そうだな、嘆願書には、その大まかな年とその時に犯した罪が書かれてあった。ダンナの悪事(わるさ)を知っている俺から見て、間違いは無かった。よく調べたもんだ。ただ、俺がその内容を保証(証言)する事は無いがな」


…間違いない。嘆願書には、助五郎(スケゴロウ)のいままでの悪事(あくじ)が書かれてある。そして助五郎(スケゴロウ)の近くにいる弥切(こいつ)が正しいと証明した。俺が苦労して調べた事は無駄じゃなかったぞ


にや、と笑う定吉(さだよし)を見て弥切(やキり)は気付いた。


「俺にカマをかけやがったな」


別段怒るわけでもなく、弥切(やキり)愉快(ゆかい)そうに笑っただけ。


「嘆願書を見せてくれ」


「見せるつもりは無い」


「・・・どうしてだ、内容が分からなければ動きようがない」


「何かやれなんて言ってないがな、まあ、・・・俺にその気がないことにしておく。あれは誰にも見せ()え」


沈黙が二人を包む。


「じゃあ、あんたは嘆願書を墓まで持って行くと言うのか」


定吉(さだよし)の顔が(けわ)しくなる。弥切(やキり)はチラとその顔を見た。


「そう怒るな。俺だって嘆願書(あれ)をこのまま腐らせておくつもりは()えさ。ただ今は時期が悪い。これから大仕事が始まるんでな。こんな時期に下手に騒いでも上から潰されるのがオチだ」


「大仕事?」


何の話か分からず、定吉(さだよし)が目を細めた。


「ああ、いずれな。大きな仕事が()()家から子毛(こげ)に降りて来る。内容は分からねえが、どうやら天下普請(てんかぶしん)の大事業らしい。この件で、和久(わく)家と助五郎(ダンナ)一蓮托生(いちれんたくしょう)だ。嘆願書(あんなもの)を出したところで、大事(だいじ)の前の小事(しょうじ)だと、揉み消されちまう」


「小事だと?」


「いちいち突っかかるな。天下普請に比べりゃ、何だってそうなるだろうよ。お前も御上の手足となって働いてたクチだろ? そんなことも分からねえのか、しっかりしろよ」


弥切(やキり)は、定吉(さだよし)の肩に手を置いて自分へと引き寄せた。


「ともかく和久家(わく)はダメだ。となれば、尾張家(おわり)に話を持っていくしかないが、(つな)ぎ工作は時期を見計らいながら、慌てず焦らずに時間をかける。どこに助五郎(ダンナ)のイヌが居るか分からねえからな」


弥切(やキり)の言う事は、感情的には無理だが頭では理解できた。


「お前に仕事をやるよ、どんな些細(ささい)な事でもいい、役人どもと助五郎(ダンナ)の情報をかき集めろ。俺が、子毛(まち)でも動きやすいようにしておいてやる」


「それが嘆願書を御公儀に上げる事に役立つんだな?」


「当たり前だ。このあたりには、尾張(おわり)家とも繋がりのある奴は多い、上手くいけば新しいルートが見つかる可能性があるだろう。だが俺がおおっぴらな動けば、助五郎(ダンナ)にバレる。お前ならいい、舐められてるからな」


弥切(やキり)は囁いた。


「公儀なんて難しい言葉をよく知ってんな。さすが元は役人のイヌだ。だが、ここらでは口にするなよ、警戒される」


「どういう意味だ?」


「その辺の職人風情が使う言葉じゃねえからだよ」


定吉(さだよし)の頭に、(いし)の姿が浮かんだ。


「分かった。そうしよう」


「決まりだ。これからは、助五郎(ダンナ)と会った日は此処(ここ)に来い。お前が来れば、俺も情報を流してやる。それでいいな」


定吉(さだよし)が力を込めて言った。


「嘆願書は必ず、尾張(おわり)家に届けるんだな」


「ああ、そのつもりだ」


「本当だな」


弥切(やキり)は、(さかずき)に酒を注ぎ一気にあおる。


「そう言っただろ」


嘆願書は、(すえ)の遺書のようなものだ。病躯(びょうく)を押して嘆願書を書く(すえ)の姿が目に浮かんだ。なんとしても御公儀まで届け、助五郎(スケゴロウ)に引導を渡す。それが恩義に(むく)いる唯一の道だと思った。


弥切(やキり)は、店の親父を呼び寄せ、アレをくれコレをくれと指示して自分の皿に乗せさせている。


もう、自分に興味を失ったような態度の弥切(やキり)に見切りをつけ、定吉(さだよし)は屋台を離れた。


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