第四章ep.1 位牌《いはい》
助五郎は、妻の陶が最後を過ごした部屋にいる。
..相変わらず陰気くさい部屋だ。
この部屋をなんとかしたいと思っているのだが、先延ばしにしていた。陶の怨念が詰まっているようで怖ろしく関わるのを避けていたからだ、『あれから』来たのは初めてだ。
陶が亡くなった後の数日は体裁もあり、自室の部屋の隣の床の間に仏壇を構えて陶の位牌を置いていたが、その間ずっと眠れない日が続き、堪らなくなりこの陶が死んだ部屋に移した。
線香を欠かさず灯しておくようにと奉公人に言いつけてあるのも、自分が呪われるのを怖れているからで、正直言えば供養のためではない。
いまも部屋に線香の匂いが充満している。助五郎は部屋に入りすぐ、陶に顔を見られるのを恐れ位牌をうつ伏せに倒した。
助五郎はボンヤリと線香のゆらぎを見つめていたが、そのうち、この部屋に呼び出された、陶の最後の日の事を思い返していた。
「わしへの当てつけか?、それとも死ぬ準備ができたってことか?」
陶は部屋の中央に敷かれた蒲団に、仰向けで寝ており、首まで掛蒲団をして顔には布を被せていた。もう遺体のように見せたそれが薄気味悪く、また嫌味に見えて助五郎は離れて座り忌々しそうに陶を見た。
...この女、なんのつもりだ?、気に入らねぇ。
陶が息をするたび、布が上下に揺れるのを見てるだけで怒りが沸いてくる。しばらくの沈黙の後、助五郎が唸った。
「話ってのはなんだ? わしは一日中寝てるだけのお前と違って忙しいんだ、早く用件を言え!」
陶の顔にかけた布がかすかに動いて、静かに陶は話し始めた。
「あなたに 言って、 おきたいこと、がある..の」
「なんだ?」
「これ ..からの、こと」
急に腹の底から嗤いが込み上げて来た、助五郎は可笑しくなって吹き出す。陶と二人きりの部屋に充満する緊張感に我慢の限界が来て、気が少しおかしくなっていたのかもしれない。
「ひ、ひ。...おまえ、 何を言い出すかと思えば...」
..もうすぐ死ぬ陶には『これから』など考える必要がないはずだ...と思った。
「これからはお前に言われなくてもわしが考えてある。どうせすぐに斃る、お前には関係ないことだ。それよりな、お前が生き続けてることが迷惑だ、お前が早く死ぬことで、皆しあわせになれる、理解かったら〇ね」
...バカバカしい、下らないことで人を呼び出しやがって。この馬鹿女ともこれでさらばだ...
助五郎は立ち上がると、部屋を出て行こうと陶に背を向けた。
「たんがん、しょ」
廊下と隔てた戸に手をかけた助五郎を引き留める陶の一言。 助五郎は立ち止まり、ゆっくりと陶を振り返った。
「嘆願、書を.. 残...しました」
助五郎の全身の血が逆流する、顔は紅潮して赤く染まった。
...嘆 願 書?
「あな たの知らない、ところへ 送って...あります」
助五郎の心に陶に対する敵意が浮かんだ。『もっと早くに殺しておくべきだった』その後悔と共に。
「どういう・・ことだ。お前はわしと約束したはずだ。子毛の住人に危害を加えなければ、大人しく死ぬ。そうわしに言ったんじゃなかったのか?」
部屋の空気が張り詰めた。助五郎は横たわる陶に今すぐ襲い掛かる準備が出来ている。
「あなた 、私の死後、きっと心変わりする.. だ から..あなたにも毒..を盛ったのよ」
静寂。
助五郎は己を必死に落ち着かせようとした。いま陶を殺すのは容易い。だが、『陶から嘆願書の行方を聞き出さねば』…ゆっくりゆっくり息を吸いゆっくりゆっくり吐く。この当たり前の動作すら難しいほど憤っていた。
「嘆願書はどこにある」
助五郎は陶にゆっくりと近づいた。そばに立つと、布のかかった陶の顔を上から見下ろす。唾を垂らせば、確実に陶の顔に落ちるだろう場所で、実際その顔に唾を吐き捨ててやりたい気分だが、それよりもやるべきことがある。
...ともかくこの女に吐かせないと。...内容次第では今までのわしの努力は水の泡になってしまう...
宿場町とは聞こえはいいが、江戸時代の基幹路のひとつの中仙道にはほど遠く外れた脇街道沿いにある、クソつまらない何の刺激も無い山の中に田舎町。
そこで、老舗の店の婿養子とは玉の輿のようにも聞こえるが、実際は田舎者のショボい問屋の老主人にコキ使われ、平頭して過ごし、何年経っても子を産まない妻にうんざりしながら我慢して、ようやく得たのはこの田舎町の代表の地位。
わしの人生はこの程度かと、幻滅していた矢先の代官家の和久の御家騒動と幕府直々の橋梁工事の命令、ようやく未来が開けてきたというのに、こんな時に悪意のある嘆願書なんぞ出されれば、どんなことになるか?もしかしたら全て終わりになるかもしれぬ。
いまは夏でもないのに、額から汗が噴き出て、助五郎は全身に汗をビッショリとかいていた。
「嘆願書はどこだ」
助五郎の問いに、すぐに陶の返答は無かった。しばらく時間をおいて、陶は言う。
「あなた、わた しを 少しで も、 愛してくれ た?」
涙声で話す、陶の心からの訴えが部屋に響いたが、助五郎の心にはまったく届かなかった。
「嘆願書は、ど・こ・だ!」
陶の枕もとで威嚇するように、足を三度踏みつける。見下ろす陶の顔にかかる布は涙で染みて、陶の頬を溢れる涙が伝わる。嗚咽が止まらない。だが助五郎はそんな陶を鬼の形相でただ見下ろしている。
しばらく続いた陶の啜り泣きは止み、落ち着きを取り戻した陶は一言だけ言った。
「言わない」
・・・
・・・助五郎は、部屋を出て行った。
...嘆願書はどこにある?
この地域を収める尾張藩とその代官の和久家にはかなりの賄賂を渡している。そのどちらに嘆願書が渡ったとしても握り潰せる自信はある。
問題は、まかり間違い江戸の役人にでも渡った時。その時は尾張からも和久からも見捨てられる可能性だって有りうる。
...江戸の町奉行に直接物申すルートが、陶にあるとは思えないが...ともかくそんな危ない嘆願書など早く押さえておいた方が良い。
スっと部屋の障子が開いた。助五郎を呼びに来た子分の一人が声をかける。
「親分、定吉が来ましたぜ」
「そうか...じゃあ、部屋で待たせとけ」
子分が去っていくと、助五郎は足裏をバチンと拳固で叩いた。
...俺を恨むな陶、お前が馬鹿だっただけだ...助五郎は立ち上がり部屋を出て行く。 しばらくして灯されていた線香の火が消え、白い煙が天井へと立ち上っていった。
飾られた掛け軸を背に上座に助五郎が座っている。その前で定吉は正座をしている。ここは多の屋の屋敷の一室、助五郎が取るに足りない小者と会うのに使う場所。
「水茶屋も順調で親子が食うには困らない様子です。妙もずいぶん言葉を覚えてきました。我儘言って手を焼かすときもありますが、物心ついてきたからでしょう。日々成長してる証拠です」
助五郎はアゴに手をやりながら、
「わがままか、やっぱり女親だけでは躾は無理だろうな」と言った。
助五郎との話はいつも嚙み合わない。定吉はもう慣れていた。
助五郎の気まぐれでたびたび屋敷に呼び出される。そこで話すことはまれに工事の進捗についてもあるが、そのほとんどは由と妙の親子の様子についてだ。
今日も呼び出され、小雨降る中をソの河の現場からやってきた。面倒な事しかないが、唯一楽しみな事がある。それは多の屋の屋敷をじっくりと観察できる事。
この屋敷は、もとは尾張家の代官職をしている和久家の別宅だったという噂だ。たしかに、良い職人が良い木材を選んで建てた江戸でもお目にかかれないような素晴らしい造りのものだ。惚れ惚れするほどの建物で、毎回来るたびに感心している。
それ以外は不愉快な事だらけだ。
「あの...旦那」
「あ、なんだ?」
「ソの河の橋の作業のことなんですが?」
定吉は、助五郎の顔色を伺いながら、ソの河の工事の進捗について話す。
「出来ることはやってますが、長雨のため橋脚を建てる作業は進んでません。増水している川の中で無理に作業を進めれば、職人達の命に関わります。雨の降り終わりが来たら急ピッチで進めますので、しばらくの間、作業を中断したいと思うんですが・・・」
「・・・仕方ねぇな、死人が出るのは駄目だろう。御上からも今回の工事で不要な死人は出すなと言われてる。分かった良いだろう」
「ありがとうございます」
定吉は、深々と頭を下げた。なにが何でも作業をしろ!と言われることも覚悟して来たが、あっさり受け入れたので安心した。
目の前の定吉が必要以上に安堵しているように見えた助五郎は不思議がった。
「職人の命を考えるのは当たり前のことじゃねぇか?おかしな奴だな。ただし...夏までには必ず完成させろよ」
「わかってます」
何気ない助五郎の言葉に、定吉の背中に軽く緊張が走った。
「それより由だがな‥変な男がついたりしてねぇだろうな?」
「は?」
「男だ。言い寄って来る屑野郎や、由が惚れてる男なんか居ねえだろうな?」
険しい顔で定吉を睨む助五郎。定吉は呆れて言葉が出てこない。
..俺たちが命を賭けてる工事よりも興味があるのはそっちのほうなのか?... 定吉は大きく息を吐いた。
「旦那、由さんは妙を育てることで精いっぱいで、そんな暇はありませんよ」
「居ねぇかどうかを聞いてるんだ!」
「...俺の見る限り男のカゲなんてありません」
そうか...と頬を緩ませ安心したような助五郎。定吉は喉からもう少しで、本音が出てきそうなのをぐっと堪えた。
...なぜこんな事の為に、仕事を中断して屋敷に来なければならないのか?...
雨続きの悪天候が一番の原因だが、仕事が遅れている一因に、助五郎の気まぐれで呼び出されることがある。その度に、棟梁の定吉は現場を抜けなければならない。馬鹿馬鹿しいとは思うが、子毛という小さな地域では、表も裏も力を持つ多の屋助五郎には逆らえない。
ずっと以前のことだが、定吉が助五郎に頻繁に呼び出され仕事がその度に停滞する事について、ソの郷の職人のひとりの哲が、助五郎に直談判に行ったことがあった。それは後で知った事だが、その日、哲は何処に行くとも言わず妻に「今日は帰りが遅くなるから」とだけ言って家を出たそうだ。
だが、その日から数日間、哲は帰らなかった。
ソの郷の職人達は、ほうぼうを回り哲を探したが見つからず。 哲の家族は途方に暮れ、みな諦めかけてた頃、哲の家の前で裸同然の倒れていたのを妻が見つけた。
酷い怪我でボロボロの哲の体には拷問された後があり、背中に犬畜生と、刃物で切りつけられた文字があった。
数日して起き上がることができるようになったが、哲は帰って来なかった数日間のことをいまだに一切話そうとしない。おそらくしゃべれば家族に危害が及ぶと脅されたのだろう、ソの郷の他の者達も自然とその話をするのを避けるようになった。
今は、怪我も治り元気に仕事をしているが、背中にその文字が残っている為、どんなに暑くても人前で着物を脱ぐことは無い。生きて帰れただけでも儲けものだったと住人たちは影で口々に話した。
助五郎は聞きたいことを聞くと、「行っていいぞ」と興味無さそうに定吉に部屋から出るように言った。いつもの事なので定吉は黙って部屋を出る。帰り際、屋敷の梁や柱を眺めながら廊下を歩き、|裏口から屋敷を後にした。
雨は止んでいたが、空を見上げるとすぐにでも雨粒が落ちてきそうな天気で、どんより曇っている。定吉の心の内を映してしているようだった。
空を見上げながら、陶さまの亡くなった後、助五郎と向かい合い話をした日のことを思い出していた。
この小説には人の命を軽視したり侮辱するような(特に盲目の人や女性に対して)物言い、または乱暴な表現、人を貶める蔑称や男女問わず人や物、地域に対しても差別的な表現がありますが、作者はそれを良しとしているわけではありません。作品のイメージを大事にするために故意に使っている表現ですのでご了承ください。不快だと思うのであれば読まないようにしてください。読む人の選択に任せるものです。