第三章ep.3 蘭《ラン》の部屋
「渡り廊下の一番奥、蘭の部屋に連れて行け」
奉公人の娘に連れられて現れたのは、新橋色の浴衣を着た男。玄関の取次の上から土間を見下ろしていた。胸の前で組んだ二の腕から入れ墨が見えている。
八助と話をしているが、視線は石に向けていて、何を考えているかを悟らせない表情が不気味だ。
「蘭の部屋すか?アニキ。俺は行ったことがなくてよく分かねーかもしんねぇ...」
最後のほうは消え入りそうになって、口をモゴモゴしている。弥切は八助を一瞥して、
「案内をつけてやる、錫、お前が連れて行け」
と後ろを振り返った。
弥切の後ろに居た、錫はビクッと体を硬直させて黙ってうなずいた。その後も弥切はしばらく石を眺めていたが、急にくるりと背を向けると去って行った。
「じゃあ、頼むぜ錫」
弥切が去ってほっとした八助は、錫を見上げてニタッと笑う。錫は顔を強張らせ、八助と視線を合わせないように目を伏せた。
辺りは暗くなり、外は月夜となっている。屋敷のなかといっても部屋に繋がる廊下は外。
行燈を手に持って、廊下を照らしながら先頭を錫が進み、その後ろを八助、最後に石と縦に並んで歩く。
「なあ錫、つれなくすんなよ。俺は旦那と血が繋がってるたった一人の甥なんだぜ。俺に良くしとけばこの先、安泰なんだからさぁ」
錫の尻を追うようについていく八助。執拗に錫に言い寄る八助の一歩的な会話が続いている。
...ずいぶんでけぇ屋敷だな。
いつまで歩くのかと思う長い廊下は軋みも少なく、柱も節くれのない良い木材を使っていて、金をかけた屋敷だとすぐ分かる。
五街道に置かれた徳川幕府お墨付きの宿場町、その屋敷なら分かるが、子毛は人目を気にする者がひっそり通り過ぎる全国的に名も知られてない宿場町。
そんな所の一問屋の主人が住む屋敷にしては、立派すぎる。広さも本陣屋敷〔大名など身分の高いものが止まる宿〕かと思えるくらいに大きなものだ。
「なあ、少しは返事くらいしてくれ、そうだ櫛要らねぇか?博打でスったオヤジから巻き上げたもんだ。娘が婚約者からもらった品物らしい。俺には分からねえが良いもんらしいぜ、それをやるよ」
「要りません」
娘の声がした。
おや?と、石は思った。玄関に出て来た錫という奉公人の女性は、足音や歩幅から、ふくよかな大人の女性のように感じたが、声は若い娘のようだ。
考えことをしてたせいで気付かなかったが、耳を澄ますと八助の前を歩く女性は歩幅も小さく足音も軽い、どうやら玄関先にいた女性とは違う。
...あしの勘違いか?
「錫、あんまり俺を舐めんなよ。俺はお前を好いてるんだ。他の奴にこんな冷たい態度をしてたら酷い目に遭うぞ。俺はやらねえが、ただ優しい俺の我慢にも限界はあるからな」
...脅しかよ、好きな女を口説くのに脅しをかける馬鹿があるかよ...
石は呆れ、後ろから蹴とばしてやろうかと思った。
急に錫が立ち止まる。一列に並んで歩く渡り廊下の途中で錫が止まったので、八助も止まる。仕方なく石も立ち往生する。錫は後ろを向き、しっかりとした眼差しで八助を見上げた。
「舐めてるとかそういうことじゃありません。今はお屋敷での仕事が精一杯で他の事なんて考えられないんです。追い出されたら行き場がないんです。あなたにそれが分かりますか?」
毅然とした態度に気圧された八助。錫はまだ数えで十二歳。二十五歳の八助から見れば全然子供だろう。
錫は、パッと八助に背を向け歩き始めた。恐怖で震える手をもう片方の手で握りしめている。
錫が動き出しても八助が動かないので、石が後ろから杖でその背中を突いてやる。
「痛ぇ、なにすんだこの目暗、殴られてえのか」
八助が石に掴みかかろうとするが、石は杖を八助の股の間に差し込んだ。足が絡まり、バランスを失った八助は廊下から庭に転がり落ちた。
石はすっとぼけた顔で、「おい、大丈夫か」と声をかけた。
「この野郎!」
怒声に驚いて振り向いた錫。目の前に、八助が連れて来た男の背中があり、その向こうに着物が土で汚れ真っ赤な顔で怒る八助が立っていた。
錫はなにが起きたかわからず、息がとまる思いで立ち尽くした。
八助は拳を固め石に殴りかかろうしたが、石の手から真っすぐ伸びる杖に鳩尾を抑えられると、一歩も動けなくなった。
「八助、お前の仕事はあしの案内だろ?、ここであしと喧嘩して旦那は褒めてくれるか?、案内の仕事もできねえのかと呆れるんじゃねえか?」
石は、杖を八助の体から離す。
「あしはお前と喧嘩したくねえ。ここまで来れたのはお前のおかげだからな。感謝してんだぜ、な?」
柔やかに笑いながら八助に語り掛ける石。
目が見えないのに正確に八助の鳩尾に杖を当て、それだけで八助は動けなくなった。八助の頭に今日の昼間、石があの鬼造を杖だけで抑え込んでいた光景が浮かぶ。
それを見たから、棒鼻に座り込んでいた石にすぐ声をかけれず、しばらく付け回すことになったのを思い出す。
「まぁ・・・いい。許してやるよ」
愛想笑いと中間の苦笑いを浮かべ、八助は「ここまで来りゃあ俺は分かるから」と錫に石を部屋まで案内をするように言い、土と砂だらけ着物を着替えるため、渡り廊下を戻って行く。
足音が去ると石は錫のほうへ振り向き、杖を錫へと伸ばした。
「お嬢ちゃん、この杖の先を掴んで、あしを部屋まで引っ張ってくれねえかな?」
錫は不思議そうに杖の先を見てから、石を見る。
「足元が暗くて、八助みてえに廊下から転げ落ちるのは嫌なんでね。お、そういやあしの目はいつ何時も真っ暗だった。だから嬢ちゃん、部屋までこの哀れなおじさんの案内を頼むよ」
だからの意味は分からなかったが、錫はおどけて笑う石を見つめ、黙って杖を掴んだ。
「いい娘だ、じゃあ、連れてってくんな」
石は、錫に引っ張られ鼻歌を歌いながら渡り廊下を進んでいった。
着いた所は屋敷の奥の奥にある三畳ほどの部屋。座布団一枚と手枕を置いた首座があり、燭台がひとつ、ぽつんとあるだけ。
「ちょっと待って下さい」
錫は石を押しとどめ、先に部屋に入ると座布団を探した。だが、この部屋に座布団は一枚しかない。その一枚は助五郎が使うもので客人用のものは無かった。
「あの、ごめんなさい。一枚しかないお座布団は旦那様が使うので・・」
申し訳なさそうに錫が言う。
「そんなことを気にしてたのかい?貧乏性で固え場所は慣れっこだから、板の間の廊下じゃねえだけマシだよ」
すっと錫が石の手を取る。小さな手。石はしっかりとした物言いから十五、六歳の娘かと思っていたが、それより錫は幼いようで胸が痛んだ。
...まだ小せえのにこんなに手が荒れてる、ずいぶんと働かされてるんだろうな...
錫に手を引かれ石は行燈に照らされた薄暗い部屋のなかに入る。「こちらに座ってください」と云われて、石はそこに正座した。
ポッと辺りが明るく、少し暖かく感じられた。錫が行燈の火を部屋の燭台に移し替えたようだ。
「寒くはないですか?」
「ああ、大丈夫。お嬢ちゃん、もういいぜ。気を付けて戻りな」
石がそう言うと、錫は目の見えない石に頭を下げ「旦那様を呼んできます」と言って去って行った。
石はしばらく部屋に座っていた。この部屋は奥過ぎて静かすぎる。屋敷内の様子が全くわからない、まるで幽閉されたようだ。蘭の言い回し通り密談には都合のいい部屋なんだろうが、
蘭とは盗人などの隠語とも言われる。悪党が悪事を企むための部屋、この部屋にはピッタリの名前だ。
しばらくすると、八助が部屋にやってきた。
「錫はどうした?」
「さあ、見かけねえな、用事があるなら呼んで来てやろうか?」
そう言って石は立ち上がろうとする。
「待て」と慌てて八助が止めた。
「ここから動くな。オジキが来た時にお前が居ないと俺が大目玉喰らう。そこに座ってろ」
そうか? と石は澄まし顔で座り直した。
八助は石が座るの見届けると、部屋の真ん中にドンと座り周りを見回して一言だけ言った。
「湿気臭ぇ、辛気くせえ部屋だ」
八助は蘭の隠語も知らず、考えもしないのだろう。
しばらく時間が過ぎた。燭台の上の油皿の火が部屋を照らし、その灯りにひかれて飛び込んだ蚊虫が、ヂヂッと燃えて灰になる。
案内人を寄越したのだから、石が来るのを待っていたはず。助五郎が屋敷の何処かに居るのは間違いないが亥の刻〔夜10時頃〕が来ても現れなかった。
...子の刻までに帰れって、弦に言われたんだがなぁ、仕方ねえな...
部屋には石と八助しかいない。八助は大の字になって寝そべり、人使いが荒いとぶつぶつ愚痴を呟いてる。
石はずっと黙っていたが、退屈してきたので世間話でもと八助に話しかけた。八助は喜び、起き上がる。おしゃべりで口は軽くペラペラと、どれが話して言いことか悪いことかなんて八助は考えもしないようだ。
話によると、この屋敷は尾張藩の代官でこの辺りの宿場町を管轄する、旗本寄合衆の和久家が建てた屋敷らしい。
旅の大名や代官を泊める宿泊施設の本陣屋敷ではなく、和久家が別宅として構えたものだそう、冬以外の気候の良いときに訪れていたようだから別荘のように使ってたらしい。
「その和久より上の、尾張や江戸の役人が来たときは、どうしてた?別に屋敷でもあるのか?」
「あるわけねえだろ?この屋敷以上の立派な建物は此処にはねえ」
石の問いに八助が答えるが、疑問が増えるだけ。
「誰も来なかったのさ昔は、和久家の連中以外はな」
石が不思議そうな顔をしてるので八助が嗤い説明し始めた。
今は子毛という名前がついた宿場町になっているが、もともとこの地域は、木曽路の旅行者が休憩するだけの寄り合い施設があった場所。そこに定住者が現れ集まって町が形成されていった。
小さな集落を形成した頃に和久家がその存在を知るようになり、その庇護を受けて安定した集落は住人や仕事を増やし町になっていく。
やがて宿場町の形を成すようになったが、和久家は幕府からその存在を隠し続け町からの利益を独占した。
和久家の上司といえる尾張藩は、その上前をはねることで黙認。幕府は子毛の宿の存在をずっと知らず、幕府の管理下に置かれなかった。
子毛の宿場町はその間しばらく、徳川幕府配下の日本にありながら徳川家の支配下にない形的には独立採算でなり立つという特殊な存在になっていた。
「お前は見えねぇからなあ、この屋敷がどんなに立派なのか分かんねえだろうがよ」
八助は助五郎が来ないのでハネを伸ばして、上座の手枕をまくらに横たわる。
「和久家がこの町の利権を独り占めしていたから、この豪勢な屋敷も建てられたんだ。だが世の中は上手くいかねえな」
はぁぁっ...と両手を伸ばし八助は大欠伸すると話を続けた。
「簡単に言うと御上にバレちまったわけ。和久家は潰されならなかったらしいが、当主の座は弟に取られたらしいぜ、バカな兄貴だ」
八助は鼻毛を抜いた拍子に鼻がムズムズして、大きなくしゃみをした。
裏側の話を詳しく説明すると...
尾張藩に責任を全て負わされた格好の和久家だったが、江戸幕府はなぜか改易〔家の取り潰し〕ではなく分封〔所領の分割〕の沙汰を出し、御家取り潰しの最悪の事態は免れた。
温情をかけられたと、ほっとした和久家だったが、その後幕府が下し伝えられた沙汰(命令)は、和久家の知行(財産)の三分の二を弟の尚久に譲れというもの。
知行は再分割され、当主の兄、高久の知行を弟が上回ることになったため、結果的に尚久が和久家の宗家となり、事実上の当主交代となった。
これは和久家の当主、高久の実質的な廃嫡で、徳川幕府が秘密裏に行ってた五千石以上の旗本の石高を削るという施策に叶うものだった。
高久は慌てた。廃嫡になったことも勿論だが、それ以上に深刻な問題があった。
銭である。
寝てても入ってくる子毛の収入をアテに高久は散財を繰り返していた。増大した浪費癖はやがて和久家の財産を食い潰して、今では和久家の財産は借金が収入を上回る事態になっている。
それが幕府にバレれば、せっかく免れた御家の取り潰しが現実となり、それでなくても高久は分家となって小普請〔三千石以下の旗本〕の知行となれば、今ある借金は返すことも出来ない。そのうえアテにしてきた子毛の権益を失うとなれば間違いなく破綻する。
高久は、なりふり構わず助五郎に泣きついた。
その後、ふたりがどんな約束を交わしたのか分からないが、助五郎は高久の借金相手との話し合いを穏便に済ませ、一部の借金を肩代わりした。
この屋敷はそのときに担保代わりに取り上げたもので、いまは助五郎が住んでいる。
そこまでは八助は知らない。
「それでうまくいったのか?」
と石が聞くと、
「そうでもねぇさ、兄弟仲は最悪だって話だし、弟ってのは女嫌いで男好きらしい。和久家の屋敷がある城下町で化粧して女の恰好した男が、夜な夜な男を誘ってるって話があるんだが、どうやらそれがその弟じゃねぇかって話だ」
「ともかく男色のレベルじゃなくて、女に欲情しねえのは本当らしいぜ。だから嫁はいるのに跡継ぎができないんだとよ。所領をもらっても跡継ぎがいねえんじゃ話になんねえな」
俺には気が狂ってるとしか思えねえがな、と八助は呟くと大の字になり天井を見つめている。
「ただ、多の屋の旦那は運がある。 和久家のゴタゴタに首突っ込んだからソの河の橋梁造りの大仕事を引き受けられたしな」
「へぇ・・・」
得意気に話す八助に、石は適当に相槌を打つ。
...跡継ぎがいねえ男を当主にして、きっと兄の当主復帰は認めないだろう。弟が死ねば改易にして領地を没収か?...
「結局は改易か、御上ってのはエグいことを考えるもんだ」
石はポツッと呟いた。それに反応して八助が起き上がる。
「かいえきってなんだ?分かんねぇこと言うやつだな。それに親分は運があるって言ったろ? いまその弟の家を継がそうって和久家が養子に迎えたやつ...なんて名前か忘れちまったが、そいつが見廻り役で橋梁造りの視察のために子毛へ来てる。オジキが接待をして手懐けてる最中だ」
「何者だそいつは?」
と石が尋ねる。
「さあ、和久家の遠縁ってことらしいけどな、お前知らねえか?」
...あしが聞いてんだ阿呆… 誰かやって来る。
廊下を渡りこちらへ来る人の足音がした。ズシズシと重いからだが歩く度に廊下に響く。その歩幅と歩くペースに石は聞き覚えがあった。
おそらく多の屋助五郎だろう、ようやくお出ましのようだ。