2. 十年前の約束
十年前、妻であるクリスがジョルジュのところへ来て「一生のお願いがある」と言った。
いつも他人のことばかり考えている彼女がそんなことを口にするのは珍しかったので、ジョルジュはよほどのことがない限りその願いを聞き届けてやりたいと思い向き合った。
だが、彼女が口にした願いは、とうてい夫である自分としては許しがたいものだった。
『私を、≪ノヴァ・アース≫の探索隊へ入れて』
彼女がずっと≪ノヴァ・アース≫へ強い憧れと信念を持っていることに、夫であるジョルジュが気付かない筈はない。上層部から探索隊の話が挙がった時、できれば彼女にはこの話を聞かせたくないと思ったほどだ。
『候補者なら、既に決まっている。俺の一存で決められるものではない』
その言葉は嘘ではない。でも、推薦者はいないか、と上から聞かれていたことも事実であった。
既に目ぼしい候補者は何人かリストアップしている。ジョルジュがそのリストへクリスの名前を付け加えてやったとしても、上層部たちの選択肢の一つにクリスの名が挙がるだけだ。必ず選抜されるとは限らない。
『あなたの気持ちはわかっているつもりよ。それでも……お願い。これだけは聞き届けてほしい。私の夢のためにも。そして――』
〝私たちの息子のためにも〟とクリスは付け加えた。
まだ六歳にも満たない息子が、母親の影響で≪ノヴァ・アース≫へ強い憧れを抱いていることはジョルジュも聞き知っていた。
クリスは、母親である自分が夢を叶える姿を息子に見せたいと願っているのだ。
『スバルには、お前が必要だろう』
まだ六歳だ、と息子の年齢を盾にしたが、本当のところは、実の息子とどう接していいのかわからない自分では役不足だとジョルジュが感じていたからだ。それに仕事柄、長期間家へ帰ることができない、というのもある。
クリスは、夫の答えを予想していたのだろう。何の憂いもない笑顔を見せて言った。
『スバルなら大丈夫よ。きっと私の夢を応援してくれるわ。うちの両親もいるし、あなただっている』
ジョルジュの脳裏に、目を輝かせて母クリスから≪ノヴァ・アース≫の話を聞くスバルの姿が思い浮かぶ。
自分の母親が憧れの≪ノヴァ・アース≫を見つけて全宇宙の英雄となる――――確かに息子から見れば、これから生きる上での強い希望となってくれるだろう。
特にスバルは混血児であることから、この先いくどとなく周囲から偏見と好奇の目に晒されることになる。
『…………考えておく』
その場では保留にしたものの、結局ジョルジュは、クリスの名を候補者リストの末尾へ追記した。悩んだ末、断腸の想いでの決断だった。自分の気持ちよりも、クリスの気持ちを優先してやりたかったのだ。
そして、見事クリスは厳しい選抜試験に合格し、探索隊のメンバーに選抜された。
厳しい旅路に耐えうるだけの素質をもつ特別優秀な十数名だけが選ばれたのだ。
メンバーの発表を上から聞かされた時、ジョルジュはこれが自分と彼女の運命だったのか、と無言で項垂れた。皆の前で堂々と胸を張るクリスを見て、彼女が選ばれない未来を、自分が少しでも期待していたことを恥じた。
クリスと過ごした最後の夜、あまりにも胸が引き千切られる痛みにジョルジュは、溢れる涙を止められなかった。
彼女の気持ちを考えて、ぐっと嗚咽をこらえて堪え続けた。最愛の妻のために、決して《《その言葉》》だけは口にすまい、と歯を食いしばった。
――…………行くな。
クリスは、そんなジョルジュの心中を察していたのだろう。それでも尚、笑顔を絶やさなかった。
『ジョルジュ……私、あなたの泣き顔を初めて見るわ。ねぇ、他の人に見せたら絶対に嫌よ。あなたが泣いていいのは、私の前でだけ……約束よ』
そう言った彼女の声が震えていることに、ジョルジュは気付いていた。
彼女は、自分が笑顔でいることで、夫に自分の決断を間違いだったと思わせたくなかったのだ。自分の決断を誇る夫でいてほしかった――――最後の時まで。
クリスのそんな気持ちがわかるからこそ、ジョルジュは、残酷とも言えるその約束を最後の涙と共に飲み込んだ。以来、彼は一度も人前で涙を見せていない。
クリスを見送った時も、胸を張り、背筋を伸ばしたまま敬礼を続けた。
だが、まだ幼いスバルにとって、母がいなくなっても毅然とした態度を崩さない父親の姿は、自分から母親を奪った憎い敵であるかのように映ったのだろう。
ジョルジュも、自分が誤解されていると気付いていながら、歩み寄る努力をしなかった。今更自分が何を言っても、言い訳にしかならないと分かっていたからだ。
むしろ、恨んでくれていいとすら思っていた。その方が、スバルにとって生きる気力になる、と本気で信じているのだ。
クリスが宇宙へと旅立ってから、スバルは地球に住んでいるクリスの両親へ預けられた。以来、ずっと二人はすれ違ったままである。
静かに過去を語り終えたジョルジュは、すでに赤みの薄れた右手をぎゅっと握りしめた。強く強く、握りしめ、あえてそこに跡を残そうとするかのように胸に抱えた。
そんなジョルジュの肩が、傍で見ていたカレンには、必死で涙を堪えている子供のように見えた。そっと彼の肩に、手を乗せる。
「ねぇ、ジョルジュ。クリスがあんたにそんな約束をしたのは、あんたに…………あんたに、笑っていて欲しかったからだと私は思うよ」
肩に触れた掌から、ジョルジュが泣いているのが伝わってくる。カレンは、他の弔問客たちから見えないよう、ジョルジュを自分の身体で遮ってやった。
(あぁ、どうして本当に……どうして……)
カレンは、震えるジョルジュの肩をさすってやりながら、自分がクリスでないことをひどく恨んだ。
☆ ★ ☆ ★
「兄貴も、兄貴なりに辛いんだ」
と、叔父であるヴォルトがしみじみ口にするのを、スバルは隣で膝を抱えたまま聞いていた。
勢いに任せて、シェルターの外へ飛び出そうとしたところを、背後から追い掛けてきたヴォルトに取り押さえられた。防護服なしで地球の地上へ出るのは、半ば死を意味する。
頭に血が上っていたとはいえ、自分は何て無謀なことをしようとしたのだろうか、と改めて考え、ぞっとした。
今は、小さな休憩室で二人並んで座り、透明なドームから見える宇宙を眺めている。
「クリスの葬儀を地球で行う事にしたことも、兄貴の配慮だ。自分とは何の所縁もないここの風習に従った葬儀も……全ては兄貴がクリスを大事に想っているからこそだ。……お前だって、本当はそれくらいわかってるんだろう」
語尾をあげて尋ねるヴォルトに、スバルは無言を貫いた。
分かっている。スバルも、本当は分かっているのだ。
最初から最後まで、何をとっても美しい葬儀だった。母がもし宇宙から見ていたら、きっと頬を紅潮させて喜んだだろう。
だからこそ腹が立った。自分の知らない母の側面を、あの男が知っていると思い知らせているようで。格の違いを見せつけられて、お前には何も成せない、と言われているようで……腹が立った。
そのとおりだからだ。
すぐにカッとなって手が出る、考えなしに無謀なことをする――そんな自分をどうにか抑えようと思うものの、いつも後の祭りだ。
自分は後悔してばかりで、それは母と最期の別れを言えなかった六歳の頃から何も成長していない。
本当に怒るべき相手は自分だということを、スバルも分かっている。
あの時、うしろにいた赤毛の女性は、母クリスの親友だった女だ、とヴォルトから説明され、スバルは自分の早とちりに赤面した。母が亡くなったばかりだと言うのに、父親が自分に愛人を紹介しようとしたのかと誤解したのだ。
(涙の一つも……か…………)
思わず口から出た言葉だったが、それを自分が言える立場でないことも理解している。父親に腹を立てているのは本当だが、あれではただの八つ当たりだ。
スバルの脳裏に、保健室で出会ったルリと名乗る少女の泣き顔が浮かぶ。理由も解らず泣いていた彼女は、一体なに者だったのだろう。
(俺のことを知っているようだった……)
どこかで会ったことがあるのだろうか。覚えていない。
泣いていたと思えば、別れ際には笑顔を見せていた。あの時、彼女が見せた悪戯っぽい笑みを忘れることができない。
「叔父貴……俺、おかしいのかな。母さんが死んだって言うのに……涙も出ないんだ」
そう呟いて、黒い宇宙の向こうへ思考を飛ばすスバルの横顔に、ヴォルトは、かけてやる言葉が見つからない。この親子は、どうしてこうも感情を表す事が下手なのかだろうか。
「そうか……」
そして、彼らと同じ血を分け合うヴォルトもまた、無言でスバルの傍に居てやる事しか出来ないのだった。




