0. 希望の星《ノヴァ・アース》
見渡す限りに緑の野が広がっている。空気は澄み、足元に広がる色とりどりの花々が甘い香りを漂わす。
遥かな先には、緑と青い大気が混じり、白く霞んだ地平線が横たわっている。
その光景を目にした十数人の集団は、息を呑んだ。彼らの手から、警戒して用意していた酸素マスクが音もなく地に落ちる。
皆が胸に思い描いていた姿そのものが、今まさに現実として目の前に現れたのだ。
「理想郷……」
誰かがそう呟いた。
その声に反応して、放心状態でいた他の仲間達が現実を知る。
そう、やっと見つけたのだ。ようやく辿り着けた。
何年もかけて彼らが探し続けていたモノ――希望の星を。
「本当に、あったのか……」
また誰かが呟く。
集団の中から一人の小柄な女性が、一歩前へと足を踏み出した。その目は輝き、頬が紅潮している。
「やっと……やっと、見つけたのね。私達の希望の星を」
興奮に震える唇でやっと紡ぎ出せた言葉がそれだった。そのまま更に前へと歩みを進める。その歩調は、これが夢ではないことを確かめようとするかのようにゆっくりだ。
踏み出す度に香る花の甘い匂いが、更に現実感を煽る。
彼女の目尻から熱いものが零れ落ちた。
他の者達も彼女につられて、四方へと歩を進める。
誰もが目の前に広がる景色を信じて疑わなかった。
(あれは……何かしら?)
そんな中で一人の女性が、自分の足元に咲いていた花々に目を向けた。彼女は、この船で唯一の植物学者であったため、まず花に興味を持ったのだ。
美しく咲き誇る花々の中で、一際妖しい魅力を醸し出している紫色の花があった。他の花と比べて香りも強い。
女性が膝を折って、紫の花を手に取ってみる。近くで見て驚いた。
「幻覚花……!」
女性の表情が一変して険しいものに変わる。立ち上がり、周囲へ向かって大声を張り上げた。
「みんな! ここは、希望の星じゃない! 幻覚花が咲いているわ!!」
女性の大声に数名が我に返り、声の主を振り返った。
しかし、残りの数名は、その声に気づかない。まるで夢遊病者のように歩いてゆく。
「お、おい。目を覚せ!」
我に返った者達は、近くに居る仲間の腕を掴み、彼らの目を覚まさせようと刺激を与えた。そして、落ちていた酸素マスクを拾い、仲間の口に当ててやる。
この惑星に降り立ってから、そう長い時間は経っていない。幻覚花の効果も、まだ今なら酸素マスクで防げる筈だ。
一人、また一人、と目を覚ましていく。
そんな中、集団から一際離れて歩く小柄な後姿が女性の目に留まった。
「いけない! 戻ってきて、レイア!」
レイアと呼ばれた後姿は、いつの間にか集団のいる位置からずいぶんと離れていた。あまり深入りすると危険だ。
女性は、他の誰も彼女を連れ戻しに行く余裕がないのを見てとると、先を行く小さな背中を追い掛けた。途中、足元に落ちていた自分の酸素マスクを拾っていくのを忘れない。
地を踏む度、甘い香りが女性の脳を麻痺させていく。あわてて女性は、酸素マスクを口にあて、意識を保った。
「レイア、レイア! お願い、目を覚まして!」
必死で小さな後姿に追いつくと、レイアの進行方向に立ち塞がり、彼女のか細い両肩を掴んで歩みを止めた。レイアの瞳は、既に焦点を失っている。
慌てて女性が頬を叩くと、三、四回ほど叩いたところで、彼女の瞳に光が戻った。
「あ、れ? クリスさん……?」
レイアは、頬に痛みを感じて自我を取り戻した。途端、今まで見えていた景色が揺らいでいく。
「幻覚花よ。危険だわ、早く船に戻りましょう」
クリスと呼ばれた女性は、レイアが聞き取れるよう一言一言をゆっくり言い聞かせた。話しながら、自分の酸素マスクをレイアの口元にあてがう。
レイアは、自分のマスクを手に持っていなかった。歩いているうちに、どこかで落としたのだろう。
クリスは、レイアが軽く頷くのを見て、彼女の背中を船のある後方へと押しやった。
酸素マスクのおかげか、歩くに従いレイアの頭がハッキリとしてくる。同時に、目の前の景色が霧のように溶けていった。
足元にあった緑は消え、硬い褐色の岩肌が露出している。その僅かな隙間から紫色の花が顔を出していた。レイアは実物を初めて見たが、教習で見せられた絵にそっくりだ。先達の残してくれた知識がなければ、どうなっていたことか……と、胸を撫でおろす。
(一瞬でも希望を見つけたと思ったのに…………やっぱりノヴァ・アースなんて、本当はないのかしら……)
辺りには霧が散漫しており、視界が悪い。それでも、他の仲間達がこちらの様子を伺いつつ、船に向かう様子だけは見て取れた。
船まであと少しというところで、ふとレイアは、自分の背中を押していた手の感触が無いことに気付く。
不思議に思い背後を振り返ると、少し離れた後方で佇むクリスの姿があった。どうやら様子がおかしい。
「レイア……逃げ、てっ……!」
クリスが震える声で叫んだ。
どうしたのかとレイアが聞き返そうとした時、急に視界が暗くなる。
クリスの背後に迫る黒い影が見えた。
「クリスさん、危ないっ!」
レイアは叫んだが、遅かった。
クリスは、地上から数十メートル上空にまで持ち上げられていた。彼女の身体には、何本も紫色の触手が絡みついている。
(宇宙奇生物――図鑑でも見たことがない種っ!)
レイアは、急いで腰に付けていた光線銃を構えた。
しかし、霧の所為で視界が悪く、誤ってクリスを撃ってしまう可能性もある。
レイアが躊躇していると、背後から仲間の一人がレイアの腕を掴んだ。
「何をしている、早く船に戻るんだ!」
「クリスさんを見捨てては行けないわ! 私を助けてくれたのよ!」
「……っ!」
仲間の男が何か言いかけた時、二人に向かって何本かの触手が伸びてきた。転がりながら二人はそれを交わしたが、その内の一本が反応の遅れたレイアの足を掠った。
攻撃の手は、緩むことなく二人を襲う。二人には、全く立ち向かう術がなかった。
「いいか、今は自分の事だけを考えろ! 急いで船に戻るんだ!」
「でも……!」
「ここに居て、お前に何が出来る?!」
レイアには、男の言葉に何も言い返す事が出来ない。
それでも動こうとしたレイアを男は、無理やり自分の腕に抱えると、走って船へと戻った。後にクリスだけを取り残して…………。
クリスは、夢を見ていた。
レイアと無事に船へと戻った後、この惑星を旅立ち、仲間と再び他の星を目指す。
十年近くも続けてきた、この旅はまだ終わらない。
希望の星を見つけるまでは。
命の危険に関わる旅だが、辛いばかりでもなかった。
仲間と同じ一つの夢を追いかける事の楽しさがある。
甘い香り。頭の片隅で、何かが赤信号を告げている。
けれど、頭に霧がかかったかのように上手く考える事が出来ない。
見つけなくては、ならないのだ。
私達の理想郷を。それは、クリスにとって幼い頃からの夢だった。
またそれは、全人類の夢でもある。
クリスの頭に、残してきた家族のことが浮かんだ。
自分の仕事を理解して広い心で見送ってくれた夫と、別れ際まで自分の出立に反対していた幼い息子。
もう何年も会っていないが、最後に見た彼の泣き顔が忘れられない。
クリスの目の前に、肩を震わせて泣きじゃくる男の子が現れた。
その髪の色は、燃える恒星のごとく輝きを放っている。夫と同じ髪の色。
しかし、顔を伏せていて表情を見る事が出来ない。
「泣かないで、大丈夫だから。希望の星は、絶対にあるわ。母さんを信じて。絶対に、あなた達の未来を守ってあげるから……約束よ」
目の前に広がるのは、夢にまで見た美しい理想郷。
その偽りの中で、一人の女性が幸せそうに微笑んでいた。