最初から釦をかけ間違えていた
貴族家において、婚約者との間柄とは最低限無難に過ごせる程度に歩み寄るものである。
勿論婚約者時代に相思相愛となって愛し愛される夫婦となる人々もいる。
しかし大抵はある種ドライな関係で、家のために結婚するとはいえ険悪なのも気まずいし、と、お互いに大人な対応を取る。
その例外が、シェリアとブライアンである。
どう例外かというと、死ぬほど険悪な関係である。
ブライアンは社交の場等のためにシェリアにドレスや飾り物を贈りはするが、必ず悪し様に罵る。
しかしシェリアもそれを黙って聞くわけもなく、お前のセンスが悪いんだろ、と、言い捨ててブライアンを放って一人で社交に励んでいる。
シェリアは十人に聞けば十人が美少女だと評価するほど整った顔立ちだし、何を着ても大概は似合う。そのシェリアに地味極まりなく、正直に言ってしまうと何百年前のデザインだと疑うようなダサさの極致にあるドレスや飾り物を贈る方が間違っている。
それでいて自分はシェリアのセンスで選ばれた贈り物を恥ずかしげもなくつけているのだから大概だ。
同年代の令嬢令息たちもこの二人の険悪さは知っているし、可能な限り両者を引き離すように動いている。
だって、自分たちの目の前で殺し合いをしそうなくらい仲が悪いのだ。
誰だって思っている。
どうしてこの二人の関係は解消されないのか。
これで結婚したとして、子は絶対望めないが、何のために婚約させているのか。
答え。
ブライアンはクソガキの心を持ちし男で、シェリアが死ぬほど好きな癖に素直になれずツンケンしているのを男親たちだけが理解し応援しているから。
ちなみにシェリアの母は毎日のように、あんな風にシェリアに接する男を婿にもらうつもりはないと宣言し、まじめに考えないのなら実家に娘と一緒に帰るとも言っている。
ブライアンの母も説得を試みたが無駄だったので、実家の侯爵家に長男と長女を連れて帰ってしまっている。
そう。
シェリアは自分の家を継ぐ立場で、ブライアンは婿入り予定の男なのである。
なので本来はどんな家の男でも大体は選び放題だし、己の感性で選んだ婿を望めるはずなのだ。
それが、八歳の頃に父親が勝手に決めた婚約をズルズル七年間も継続させられ、鬱屈した感情を抱えている。
彼女が淑女に似合わぬ剣の修練などをしているのは、木剣で人間を模した人形を好き勝手しばきまわせるからだ。
人形をブライアンだと思ってひたすらぶん殴っていいから剣を扱っている。
そうして十五歳の誕生日を迎えたシェリアに、母はこう聞いた。
「何か望みはない?」
シェリアは即答した。
「蛆虫野郎との婚約を破棄したいわ、お母様」
ちょうど夜まで父親が家にいないということもあって、母子は早急に荷物を纏めて母の実家である伯爵家へと旅立った。
置手紙として、「ブライアンとの婚約がなくならない限り絶対戻りません」と書いた一枚の便せんだけを残して。
馬車は一週間ほどで母の実家に着いた。
先んじて鳩を飛ばしておいたお陰でシェリアと母親の部屋は準備されていたし、祖父母と現当主で母の兄とその妻子も、大変だったろうと労ってくれた。
何分、シェリアの事情は有名だ。どの世代でも「あの二人は一緒になっちゃダメだろう」と噂されているほどなので。
いっそ離縁して出戻ってもいいんだぞ、という祖父と叔父にシェリアと母はただ仄かに笑むのみで、どうとも答えない。
気晴らしのためにと準備されていた刃を潰した剣と、頑丈に作られた丸太の練習台に、シェリアは旅の疲れなど気にした風もなく喜んで修練に励んだ。
木の剣よりもどっしりした重みの剣を苦も無く振るい、丸太に剣を叩きつけては爽快そうに笑う姪に、叔父夫婦は涙を堪えた。
普通の令嬢ならここまで過激にストレス発散する必要もないのに、姪は……と哀れに思ったのである。
そのおかげでコルセットもほぼほぼ無用なメリハリがありつつも美しいボディラインを維持しているので、ある種実用的な趣味ではあるのだが。
別にシェリアはそれを望んでやっているのではないので、まあ、本当にオマケである。
それからの日々はシェリアにとっては苦痛なき日々で、のびのびと過ごせた。
淑女としての勉強は母と叔母が見てくれるし、当主としての教育は祖父が面倒を見てくれる。
空いた時間に体を鍛えるのにも誰一人として文句を言わない。
なんなら、従兄弟たちも一緒にやる。
三人で走り込みをして、筋トレをして、それぞれの練習台を斬る訓練をして。最後にふやかした大豆を絞ったミルクのようなドリンクを飲んで仕上げである。
充実した生活を送る母子には、毎朝毎晩、つまり一日二度、父から手紙が届くのだが、勘違いしているだけだから説明のため帰ってきてくれだの、話し合いをすればきっと分かり合えるだの、こちらの望みを一切無視した手紙しか来ないので、暖炉に放り込まれておしまいである。
母子のどちらも十日に一度だけ「ブライアンとの婚約がなくなったら帰ります」の一文のみを返している。
一度、ブライアンからの手紙も入っていたが、シェリアは読むこともなくばっちいものを触るかのように火ばさみで挟んで受け取り、そのまま暖炉に突っ込んだ。
そうして半年が経過した頃。
社交や政務が落ち着いたのか、父が単独でやってきたが、母子は別室に閉じこもって会わなかった。
代理で対応したのは祖父と叔父で、彼らはどこまでも自分勝手な父を責め立て、いつになったら何の実りもない婚約を破棄してシェリアを自由にするのだと説教した。
ブライアンは素直になれないだけでシェリアを愛しているのだと熱弁を振るわれても、
「そのシェリアがこの世の何よりも憎悪しているのが、そのブライアンなる小僧なのだが。
名前を聞くだけで嫌そうな顔をするほど嫌っている男を婿に迎えてシェリアが幸せになれると、本気でそう思っておるのか?」
「ですよね。私もシェリアと話す機会はそれなりにありますが、あの子からブライアンの名が出ることは一度たりともありませんでしたよ。
一度手紙が来た時も、火ばさみで受け取ってそのまま暖炉にくべていましたし。
あなたには手紙を出すこともあるのに、婚約者へは一度も出していませんしね。
それだけ嫌っている相手の子を、果たして産もうと思うものですかねぇ」
もう既に関係修復出来る段階ではないと明確に伝えられ、しかもそれが噂などでなく娘の態度由来で分かったものだと言われれば、父も落ち込むよりない。
ブライアンの父とは親友のような間柄で、お互いに結婚した後も仲良くしていた。
だから同い年の息子と娘が生まれたことで、婚約をさせて、結びつこうとしたのだ。
ブライアンがひどい態度を取っていることは知っていたが、その後で反省して落ち込んでいるのは知っていた。
自分が贈ったものがシェリアの美しさの引き立て役にもならないとセンスを日夜磨いていることも知っている。
侯爵家の婿として支えるために努力していたのだって。
けれど、当のシェリアへ好かれる努力は一切してなかったのだ。
嫌われる方向に全力で舵を切ってそのまま突き進んでいただけとしか言えない。
一月に一度のお茶会でだってメイドたちの報告を聞く限りでは罵詈雑言の応酬しか行われていなかったのだ。
シェリアは気が強い。言われて言い返さない理由がない。
そしてお茶会の後は必ず半日から三日ほど、みっちりと剣の修練にのみ励んでストレス発散をしていたのだから、ストレスはとんでもなかったのだろう。
「ま、我々は今回の所業を理由に離縁を貴族院に訴えかけてあの二人を呼び戻すのも辞さないがね」
「えっ!?」
「妻子の訴えを無視して相性の悪い男を婿にするような夫、要らないだろう。
数年ほど調停にかかる可能性はあるが、孫のシェリアのためにも必要ならそうするとも」
「え、そうするつもりだと思って既に婚約者候補をリストアップしておりますが、父上。
どの家からも内定で構わないから候補として扱って欲しいと懇願されております」
「ほう。では離縁の方向で問題なさそうだな。
そういうわけで、あの子たちは当家が引き取る方向で話を進めるので君は好きにしたまえ。
ああ、戸籍の方は私と君の御父上との話し合いで動かせない状態にしてあるから、ブライアンとかいう輩との結婚を勝手に進めることはできんぞ」
シェリアの父は焦った。
最愛の妻が奪われんとしている。
しかも唯一の跡継ぎである娘まで失いかけている。
親友と、妻子。
それをようやっと秤に乗せたシェリアの父は、妻子を選ぶことにした。
すまない、すまない、と、親友とその息子に内心で詫びながら、
「ブライアンとシェリアの婚約を撤回してまいります」
そう、言うしかなかったのである。
ちなみに。
叔父の言った「婚約者を既に募っている」というのはブラフであり、息子のブラフを察知していた祖父もそれに乗っかっただけである。
知らぬが花とはよく言ったものだ。
そこから一か月。
ぴたりと手紙を送りつけるのをやめたシェリアの父は、毎日のように親友とブライアンとの三者で話し合い、何があってもシェリアはブライアンを愛さないという現実を理解してもらおうと努力を重ねた。
その話し合いのためにブライアンの母が単独で一時帰宅し、
「だから前から言っているじゃない。
シェリアちゃんは良い子だし奥さんにしたい気持ちはとっても分かるけど、ブライアンみたいな態度じゃ絶対憎悪されるって。
もしこのまま結婚したとして、初夜にブライアンは死ぬわよ。
だってあなたがた、想像してごらんなさいな。
無防備な男を、剣の修練をまじめに積んできた人が殺す難易度を。
しかも殺したとて貴族社会では大した瑕疵にもならないでしょうね。
主にブライアンの態度のおかげで。
針の筵になるのはむしろ当主であり父であるあなたがたなのだけど、お分かり?」
これまで何百回と伝えてきた言葉を改めて繰り返し、それでもまだデモデモダッテを繰り返す夫を押しのけ、執務室より失敬してきた当主印をポンと契約破棄のための書類に押した。
その上でサインまでし、シェリアの父を守りながら馬車まで護送した。
夫人は剣こそ使えないが、体術のほうはかなりデキる人なので、ブライアンとその父は、いなされ続けて書類を奪えもしなかったのである。
ちなみに夫人はそのまま、また実家に戻った。当主印ごと。
シェリアの父はその足で貴族院へ向かい、爆速で婚約破棄を行った。
今回は種類で言えば白紙撤回である。
「そんな事実なかったよ」とするものなので、これならシェリアに一切の瑕疵が付かない。
本来ならあちら有責での破棄がいいのだろうが、母方の叔父と祖父に、かけらでもシェリアの経歴に傷をつけるなと釘を刺されたのである。
そうして婚約はなくなったと報告を終えて尚、シェリアと母は戻らなかった。
理由として、戻ったとてブライアンに粘着されて鬱陶しいだろうので、このまま実家に滞在しつつ次の婚約者を決めるというところ。
幸いにも母方の実家は王都からそう遠くない。
二人は馬車旅に全く不慣れなので一週間かけてじっくり帰宅したが、その気になれば三日ほどで到着する。
三日程度なら見合いのために訪れるのに問題ないだろうという判断だ。
婚約者になりたいと思う令息は二十人を超えた。
その中から母方の家の大人が総出で情報を洗い出し、最終的に一人の令息が選ばれることとなった。
スティーブという名の、公爵家の次男坊。
彼はシェリアの一つ年下の十四歳で、悪く言えば大変大雑把。よく言えばとってもおおらかである。
己の性格をよく理解した上で、婚姻せずに兄の代官として領地にある村を巡回して問題を解決したり不満をくみ取ったりして生きていこうと思っていたそうだ。
しかし、気の強いシェリアに憧れてもいたそうだ。
本人曰く、美しさよりもその気高さを好ましく思っていたとか。
剣を持つという手がそれでもたおやかであることとか、他の令嬢と比べてみると体幹が良くダンスのキレもよかったとか、そういったところも見ていたし、婚約者と離れている時の自然な笑みにも心動かされていたとか。
ちなみにシェリアは覚えていないが、何度か話もしていたそうだ。
と言っても、その日出された軽食の出来栄えの評論程度だとか。
その際の語彙にも気品を感じていたという。
彼はお気楽な身分であるためにほぼ決まりとなって顔合わせとなる際にはシェリアの母の実家までやってきた。
そうして公爵領特産のドライフルーツをたっぷり使ったブランデーケーキを土産に茶会をし、ゆったりとした喋り口調で
「あなたがよいと思って下さるならいいんですけど。
僕はこの通り、見た目はまあ悪くない程度です。
頭の方も、じっくり考えればそれなりの結果は出せますが、迅速に物事を片付けるのが苦手で。
でも、僕は嘘がつけないので。そこは安心してもらえたらなと」
「嘘をつけない?」
「はい。ただまあ、デリカシーもないんですよね。
なので今日持ち寄った土産も、今考えてみれば失敗したかなとか思ってます」
ブランデーケーキにシェリアは視線を落とす。
別に、非常に美味だし、悪くないと思う。
「お酒の匂いが苦手な人もいますし、シェリア嬢がそうだったらとか、今になって考えたんですよ。
幸いお嫌いじゃないみたいなのでよかったですけど」
「そうね。嫌いな人は嫌いだものね。
わたしは美味しいお菓子だと思うけれど、小さな子供ならダメだったかもしれないわ」
「うん。そういう風に、ダメだと思ったら言ってくれそうなあなただから求婚者に名を連ねたんです」
にこにこしながら言うスティーブに、シェリアもにっこりした。
令嬢としてはある種致命的な気の強さも、スティーブはきっと受け入れてくれるだろう。
それに、彼は自分を尊重してくれようとした。
尊重してくれるのならこちらも尊重できようというもの。
愛だの恋だのはいずれおいおい追いついてくるだろう。
そう考えて、シェリアはスティーブとの婚約を受け入れた。
余談となるが。
ブライアンはその後、当主印を獲得した兄が家を強引に継いだ事で断種の後、外国へと追放処分となった。
その国の貨幣を幾ばくかと着替えを数着分だけ与えられ、そこそこ栄えた街で降ろされて、以降のことは誰も知らない。
ただ、生家に戻ることはなかったし、シェリアとスティーブの前に現れることもなかった。
彼がシェリアに七年間してきたことを後悔したかどうかは定かではない。
ブライアンの父ちゃんは多分離婚された。その上で領地かどっかに軟禁されたんじゃないかな。
当主になった兄貴の権限で。
母ちゃんはそのまま家にいそう。
「父上は要らないけど母上にはいて欲しいです」とか言われるタイプのいい母ちゃんだったはずなので。