♯94
発表会の曲として凛々子が持参したのは、ヴィヴァルディの「調和の霊感」の第八番だった。
その曲の基本の音階を練習してから、凛々子が千鶴に課したのは……?
凛々子は「調和の霊感」第八番の楽譜と一緒に、手書きの五線紙を千鶴に差し出した。
「この曲の練習を始める前に、説明することがあるわ。この曲、今までにやってきた三曲とはちょっと違うの。手書きの楽譜をちょっと見てほしいのだけれど」
千鶴は、細いサインペンで丁寧に清書された五線紙に目をやった。そこにはヘ音記号の譜表で、一見して互いに似ていると見えなくもないAから始まる音階が三段、一オクターブずつ書かれている。
凛々子は手短に説明した。
「今度やる曲はイ短調、ドイツ式でa−mollって言うんだけど、短調の音階って今までにやってきた長調と違ってヴァリエーションがあるの。まず、一番上の音符に何もついていないのが基本の自然的短音階ね」
「えっと……残りの二つは何なんでしょうか?」
聞き慣れない単語が湧いて出てきて、千鶴は目の前で同時に複数の動くおもちゃを見せられた飼い猫のように、視線を泳がせた。
「まず、特定の和音を作るのどうしても必要で七番目の音だけを半音上げて、導音っていう役割を持たせた音にするのが二段目の和声的短音階。イ短調だとGが半音上がってGisになってるわね」
「えーと……はい」
「それに加えて、その導音にメロディをつながりやすくするために、上行のときに六番目と七番目の音を半音上げて、下行のときに元に戻したりするのが三段目の旋律的短音階よ。イ短調ならさっきのGisに加えて、Fが半音上がってFisになってるのが分かるかしら?」
千鶴は泳いでしまう視線をなんとか手書きの五線紙に落ち着けた。
「ええっと……調号とは別にシャープとかがついて半音上がる音が出てくるかも、みたいな感じでしょうか?」
「今はそう考えてもらっていいわ。シャープがよく付くのは音階の七番目、時々付くのは六番目、ぐらいに大雑把に考えてくれてもいいかもね」
千鶴は早速「調和の霊感」の第八番の楽譜を見た。調号にフラットもシャープもつかない楽譜であるにも関わらず、シャープの付いたGisやFisは確かによく現れていた。
「何だか……混乱しそうですね」
「この辺りは弾いてるうちに、というか楽譜の音を読んで歌ってるうちに何となくわかってくるから、心配しなくていいわ。じゃ、早速イ短調の音階を弾いてみましょうか」
凛々子に促されて、千鶴は慌てて床に寝かせてあったコントラバスを起こした。
その日は結局、千鶴は凛々子から教わったイ短調の音階を、ひたすら公園の遊具のジャングルジムでも登り降りするかのようにコントラバス反復して弾いた。途中のGisのシャープを忘れて音階が奇妙な形になりかけると、その度に凛々子は言った。
「今の、要注意ね。Gisのシャープを忘れたら、和音が解決できなくなって、次に行けないわよ」
「は、はい」
千鶴はその度に慌てて指遣いを直した。
イ短調の音階を何度か往復するうちに、千鶴の左手のコントラバスの指板の上でのポジションの移動や、弓を動かす右手の動きは少しずつ早くなっていった。
凛々子は「それじゃ、今日のおさらいをしましょう」とヴァイオリンケースから自分の楽譜を出した。
「では、さっき渡した『調和の霊感』の第八番の第三楽章のページを開けてちょうだい。調合なしのイ短調、三拍子で最初にAllegro、快活にって書いてあるページよ」
「これって……コントラバスは最初休みなんですか?」
千鶴はそのページを見るなり面食らった。六小節もの間、コントラバスのパート譜には休符が置かれていた。
「でも、休みではないの。六小節の間は他のパートをしっかり聴いて、チェロ一緒に入ってくる感じね」
凛々子はヴァイオリンの調弦を確かめると、弓を持った右手を楽器の上に構えた。
「じゃ、ついてらっしゃい」
凛々子のヴァイオリンが、イ短調の音階を駆け下りた。途中で何度も一足飛びに上に跳躍しては駆け下りてを繰り返して、にわか雨が激しさを増すように音の圧力を強めていき、ついには大きく、鋭く跳躍して高音域で同音を連打し始めた。
(六小節……今だ!)
自分のパートが六小節ぶんの休符を抜けたのを感じて、千鶴のコントラバスが飛び出した。
千鶴は、自分が弾き出したフレーズが凛々子が弾いたヴァイオリンパートの冒頭と全く同じことに驚きつつ、凛々子のクレッシェンドを受けて、四分音符をフォルテで弾いて締めくくった。音階の下降を繰り返すだけの単純なフレーズでありながら、不思議な爽快さを千鶴はコントラバスを弾きながら感じていた。
そこで、凛々子がヴァイオリンの弓を止めた。
「そこまで。今の、どんな感じで弾けばいいか、分かったようね?」
「ちょっとずつ盛り上がっていって、頂点でコントラバスが入ればいい、って感じでしょうか?」
やや自身なさげに答える千鶴に、凛々子は口角上げて頷いた。
「正解よ。ここ、第一ヴァイオリンから始まって、第二ヴァイオリン、ヴィオラと順番に同じモティーフをリレーしながら盛り上がる場所なの」
「じゃあ、思いっきり大きく弾いていいんですか?」
「そう。あなたらしく、格好良くね。ヴィヴァルディに限らず、バロックの低音は今みたいに堂々と、よ。今の千鶴さんのコントラバス、とっても良かったわ」
凛々子はヴァイオリンを顎に挟んだまま、千鶴に微笑みかけた。
(続く)




